「ぼくの歌・みんなの歌」メモ
5◎ 僕らはみんな転校生(2009.3.9)

  だからこそディランは、自己演出する必要があった。言い換えれば、
 虚構が本質へとスライドしていった。こうしてディランは、激しい社会
 批判を歌詞に込めながらも、直截的な表現を使わず、幾重もの暗喩や自
 身の心象を織り込むというスタイルを獲得する。転機となった「ライク
 ・ア・ローリング・ストーン」の辛辣な嘲笑と七分にも及ぶ言葉の洪水
 が誰に向けられているのかとはよく話題になるが、僕にはディランが、
 自分自身のことを歌っているような気がして仕方がない。なぜなら転校
 生は偽装する。直喩を嫌う。
 (中略)
  ディランだけじゃない。程度の差はあるけれど、僕らはみんな転校生
 だ。この場所からあの場所へ。この人からあの人へ。こうして月日は過
 ぎる。僕自身も、偽装を捨てる日はまだ先のようだ。もしかしたらこの
 偽装の中にしか真実はないのかもしれない。人を食ったようなディラン
 のインタビューの受け答えには、彼のそんな諦念が見え隠れしている。
 (「ライク・ア・ローリング・ストーン」
  森達也『ぼくの歌・みんなの歌』より/ P.97-98)

森達也は、子供の頃、3回の転校を経験した。
特に辛かったのは3回目の中学校のときの転校で
「熾烈ないじめの標的にされた」という。

 子供にとっては、学校と地域は「世界」に等しい。転校生は、その「世
 界」をリセットと再構築することを強制される。さらに転校生のほとん
 どは、一回だけの転校では終わらない。風の又三郎ではないが、学校を
 転々とするケースのほうが普通だ。つまり転校生は、やっと再構築した
 ばかりのこの世界や人間関係も、いずれはまた断ち切らねばならないこ
 とも知っている。
 自分はつねに徹底した少数派であること、馴れ親しんだ友人や環境とは
 いずれ別れなければならないのだということ、こんな自覚を持ち続ける
 子供は、少なくとも天衣無縫ではいられない。どうしても影を残す。屈
 折する。(P.87-88)

ぼくも転校を経験している。
まだ小学校の4年からだったからもあるのかもしれないが、
森達也のような「いじめ」は受けていないが、
その前の学校に馴染んでいたわけでもないから
「いじめ」があるとかないとかがあまり関係なかっただけなのかもしれない。
ぼくの場合は、幼稚園に通い始め登園拒否をした頃からの学校嫌悪があったので

すでにその頃から「自分はつねに徹底した少数派であること」そのものが
前提となっていたということかもしれない。
学生の頃、まったくひとりぼっちというのではなかったにせよ、
ほんの少数の友だち以外に親しくしていたという記憶があまりない。
もしひとりだけの状況になったとしても、
それはそれで受け入れていたのだろうと思うし、
むしろ群れのなかに自分を溶け込ませるよりはずっと気が楽だっただろう。

とはいえ、自分のほうからどんどん
「世界」をリセットと再構築しとうとしたことはなく、
自分には自分の世界があるものだから、
その世界はその世界として自分なりに成長させようとしながらも、
それ以外の環境においては、それを積極的につくりだそうとか、
変えていこうとする意識は希薄だったように思う。
それは今でもとくに変わらない。
自分が絶対無理な環境でさえなければ、
それはそれで、そのなかでなんとかやっていこうという意識があって、
それに過剰なまでに積極的に関わりもしなければ、
極端に否定的に対するということもない。
半ば白けているといえなくもないが、
それよりも、そうした環境がとくに望ましいとは思えなくても、
比較的安定していさえすれば、
その安定のために必要最小限の関わりをすることで、
それ以外では、自分の世界のほうを安定的に保つことができる…。
というのが、ぼくの発想らしい(とあらためて思った)。

そういえば、仕事をはじめて、会社は変わっていないけれど、
転勤は5回している。
辞令に対しても、とくに抵抗などはしていない(望んだわけでもないが)。
今いる赴任地にはちょうど5年になる。
今のところ近いうちに動きそうだという気配もないが、
絶対動かないということでもないだろう。
どこに行きたいというのもないから、これはこれで受け入れている
(ということになるのだろう)。
おそらくぼくにとっては、そうした外的環境の与えるものは
ぼくのある層のところにまでしか影響していないのだろうと思う。
そしてそうした外的環境に対するぼくの基本的姿勢は
小さい頃から変わらない「諦念」にあるといえるように思っている。
(だから、どうもぼくにはある種のパッションや貪欲さが欠けているともいえる)

そうした諦念は、もちろん自分の血縁や地縁、国籍やいわゆる民族、
そのほかのあらゆる要素にもあてはまるもので、
逆にいえば、そうしたものにこだわりすぎる向きに対しては、
むしろ違和感を感じる方向に向かう。
だって「僕らはみんな転校生」なんだから。

そして、どこに「転校」しても
自分は基本的に変わらないし、
変わるものにしがみつく必要はない。
しがみついたところで、常なるものはこの世になにもない。
そこからしかなにもはじまらないし、
しがみついたところで訪れるのは「四苦八苦」だけなのだから。
・・・といった感覚を「諦念」という感じで
小さい頃からずっと持っているわけだけれど、
そうした「諦念」を超えるところにあるものを
自分なりにずっと求めてきているように思っている。
そして、シュタイナーの示唆している神秘学がそれにいちばん近いので、
いちばん魅力を感じているわけである。
だから、「諦念」以前のところでシュタイナー云々をいう向きには
どうにも共感を持つことはできないでいる。