「二十世紀の音楽」ノート4

記号化をすりぬけるものへ


2002.10.23

         武満は、いや、武満も、卓抜な演奏者を通じて、邦楽器を体験したのだが、
        彼の場合はそこから直ちに「現代本曲」への創作に、という具合には、話が
        運ばなかった。
        「特別な意図があったわけではない。単純な音楽的興味と幾分の好奇心が私
        を邦楽へ近づけた。はじめ、邦楽の音は私にとって新鮮な素材としての対象
        にすぎなかったが、それは、やがて私に多くの深刻な問いを投げかけてきた。
        私はあらためて意識的に邦楽の音をとらえようとつとめた。そして、その意
        識はどちらかといえば否定的に働くものであった」(『一つの音』)
        (…)
         なぜか?音に対し否定的に働くとは何をさすのか?
         武満の独創性はここにある。邦楽の音をはっきりさせようとつとめている
        うちに、彼には、こういうことがわかってきた(先方から「私に多くの深刻
        な問いを投げかけてきた」)
         邦楽器の音、琵琶の一撥、尺八の人吹きの音は、「論理を搬ぶ役割をなす
        ためには」ーーつまり、その一つ一つを西洋風の単語のように扱い、それを
        組み合わせて一つの文章をつくるというふうに使うためにはーーそれ自体と
        してすでに完結しきっている。というのも、それらの音は、あまりにも複雑
        なものであって、それ以上どうにも動かしようがないのである。そうして、
        その「複雑で洗練された一音と拮抗するものとして、日本人の感受性は無数
        の音の犇めく間として無言で沈黙の間という独自のものをつくりだした」と
        いう認識に、武満は到達する。
         「つまり、間を生かすということは、無数の音を生かすことなのであり、
        それは、実際の一音(あるいは、ひとつの音型)からその表現の一義性を失
        わした。」「音は表現の一義性を失い、いっそう複雑に洗練されながら、朽
        ちた竹が鳴らす自然の音のように、無に等しくなって行くのだ。」
         音が表現の一義性を喪失し、無に等しくなってゆくというのは、しかし、
        武満にとっては、音楽が音楽であることをやめて、沈黙にかえるということ
        ではない。逆に、「朽ちた竹を鳴らす自然の音のように」なることであり、
        そういう音を得る動きが、音楽をつくるのである。
        「私は沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい。」
        (吉田秀和全集3『二十世紀の音楽』白水社1975.10.25発行/P63-65)
 
ときおり無性に武満徹の音楽を聴きたくなる。
と同時に、その言葉を追ってみたくなる。
 
ぼくは何を聴きたいのだろうか。
いや、なにを聴きたくないのだろうか。
 
おそらく記号化されきらないものの響きを
ぼく自身のなかで確かめたいという飢えのようなものが
その音を求めているのかもしれない。
 
昨日、坂本龍一の完全ベスト:UF(Ultimate Films)をご紹介したときにも
少しふれたのだけれど、その音楽はどれもよくできているんだけれど、
聞くほどによくつくられすぎていて、ある意味で、
記号化され一義化された、といっては失礼にあたるのかもしれないが、
どれも思いがけないというか分類できないようなものが見つからない。
それはすでにきちんと額縁のなかで名前をつけられて
完成されたものの顔をして並べられている。
 
よくつくられているといっても、
バッハの音楽はとてもよくできすぎるほどのよくできているにもかかわらず、
その構築性そのものが記号化をすり抜けたところで
生きて生成していく何ものかになりえている。
バッハの音楽には、常に「無」を受け容れるだけの
音の可能性が開かれているということなのかもしれない。
 
その違いはどうもうまく説明しがたいところがあるのだけれど、
ある意味では、ホメオパシー的ななにかがあるのかもしれない。
音が無へと向かうときに反転しながらポテンシャルを高めていくような。
 
繰り返し、おりにふれて聴きたくなる音楽というのは、
ジャンルを問わず、ぼくにとっては、その音楽によって、
ぼくのなかの無から立ち上ってくるなにかを
響かせてくれるものだという気がしてきている。
それはぼくのなかで記号的に一義性のもとには決して分類されず、
聴くたびにその一回性の生成をともに歩ませてくれる。
決して完成されたスタティックな構築物ではなく、
今まさに「無」から立ち上ってくる生きた響きのなかで
ぼくそのものをも生成させてくれるものなのだ。
まさに、ポエジーとしての音楽。


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