「二十世紀の音楽」ノート5

矛盾の質と新しい芸術


2002.11.9

         シェーンベルクという音楽家のことを考えると、私にはいつも、芸術家
        の偉大さとは、それが内蔵している矛盾の質によるのではないか?という
        気がしてくるのである。
        (…)
         シェーンベルクは、世人から音楽の伝統の破壊者とよばれたり、革命家
        とよばれたりするのを、一面では誇りとしていたが、一面では好まなかっ
        た。というより、受けつけなかった。彼は極力それに抗した。
         彼は、たしかに、自分が新しいことをなしとげたのを、十二分に意識し
        ていた。けれども、それは二つの意味で、新しいけれども古いもの、芸術
        がそもそも存在して以来の悠久のものだという意味で、新しいどころか、
        逆に古いものだと考えていた。
        (…)
         シェーンベルクは音楽家の手に、これまでの調性の音楽で許されていた
        のより飛躍的に拡大された音の素材処理の自由を獲得した。その後、しか
        し、彼は、その拡大された自由と豊富を、新しい秩序の下に統一する方法
        も手に入れたのだった。それが、いわゆる十二音の技法である。
         音素材の最大の豊かさは、各音それぞれの間の完全な平等関係からはじ
        めて生まれる。なぜ、そんなことが必要だったかといえば、音素材を処理
        するうえで究極的な自由を手にれようとすれば、音と音の間にきめられた
        優劣関係から生まれてくる秩序をいったん克服してしまわなければならな
        いからである。
         そうやって、手に入れた最大限の自由を、シェーンベルクは、今度は、
        前よりも一段と高次の成就のためにふりむけようとする。ヴェーベルンは
        「(音と音との間の)関連性こそすべてだ」といったが、作曲とは音の統
        一の実現にほかならない。中世の音楽からバッハ、モーツァルト、ベート
        ーヴェンからブラームス、マーラーにいたるヨーロッパ音楽の精華の示し
        ているものは、これ以外の何ものでもない。シェーンベルクも、その道を
        継承し、前進していったにすぎない。
         だからこそ、彼は「伝統の破壊者」と非難されるのに対し、こう答えて
        いたのだ。「古い、先駆者たちの芸術を押しのけるとか、ましてや破壊す
        るとかいうのは、かつて一度だって新しい芸術の意図や作用であったため
        しはない。むしろ、逆に、本当に新しいものをもたらした芸術家ほど、自
        分の先駆者たちを真情と敬慕の念をこめて深く愛しているものはありはし
        ない。」
        (…)
         新しい芸術とは、それが存在するようになった瞬間以後、また、それが
        誕生したという事実によって、彼以前の芸術の意味が新しい色彩を帯びて
        現われてくるそういう芸術をいうのである。
        (吉田秀和全集3『二十世紀の音楽』白水社1975.10.25発行/P72-80)
 
調和と不調和の境界線は常に移動している。
かつて不協和音のようにしか聞こえなかったものが
親しく聞こえるようになることを思い出せばその変化がわかる。
 
その変化というのはいったいどういうことだろうか。
というよりも、そもそも調和ということはいったいどういうことなのだろうか。
 
もちろん調和と不調和の境界線は人によって異なる。
ある人は、調和をごくごく狭い範囲でしかとらえることができず、
またある人は、つねに自分のなかにある調和と不調和のせめぎあいによって
調和という領土の拡大をスリリングなまでに押し広げようとする。
ときにはそれを自己目的化しさえしながら。
 
A、B、Cという3つの要素を調和してとらえることができるとする。
A、B、Cという3つ組みにおいてもそうだし、
AとB、AとC、BとCという構成要素の2つの関係性においてもそう。
そこに、Dという要素がでてくる。
それがそれまでの要素に調和しているかそうでないかで、
新たに生まれてくる関係性が変化してくる。
調和している場合は、A、B、C、Dの4つ組みにおいても、
AとB、AとC、AとD、BとC、BとD、CとDという2つの関係性、
さらにAとBとC、AとBとD、AとCとD、BとCとDという3つの関係性が
問題になるが、Dが不調和であるとすれば
Dが含まれているかどうかでそこにある緊張感は異なったものとなる。
しかも、DのA、B、Cそれぞれに対する不調和の質もおそらく同じではない。
Aにはかなり不調和であるがCにはそうでもないということもありえる。
 
そうしたあらたに付け加えられる要素がふえていけば、
そうした関係性はますます複雑さを増していく。
しかし、複雑になっていく関係性のなかで、
それが新たな価値を生み出すものはむしろ少ないだろうと思われる。
重要なのはそこで生じる可能性のある「矛盾の質」であり、
それを発見し展開していく手法を構築し得るかどうかなのだろう。
ときに、というか多く、その「矛盾」はブーイングを伴って受容され、
また逆に「矛盾」を楽しむ安易な受容さえが起こることもある。
 
そうした微妙な地平を浮き上がりまた沈みながら
常に変化していくものを見続けていくこと。
その変化はそれを見る者の変化を当然のごとく引き起こしていく。
それが変化のための変化、破壊のための破壊でないかぎりにおいて、
そこに「矛盾」の導入による新たな質の変化が生まれることになる。
 
それは勿論、芸術においてだけではなく、
あらゆる認識等においてもいえることだろうという気がする。
「善と悪」、「正義と不正義」、「常識と非常識」等においても。
 
そこにおいて、調和だけを求めようとして、
自分のなかの認識要素を減らしていき
単純なものの調和の中に逃げ込むのも容易であるし、
また、不調和を調和にやたら取りこもうとして
無差別的に破壊のための破壊を繰り返すこともまた容易である。
重要なのは、どちらにも傾斜しない「中」を生きることなのだろう。


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