「二十世紀の音楽」ノート6

完全な非暴力性が全面的な力の行使となる


2002.11.16

         新ウィーン楽派の三人に関して、最もすぐれた理解者で同伴者の一人で
        あったアドルノは、この曲について、こう言っている。
         「弦楽三重奏曲は、最後の音に至るまで構成されていると同時に、ここ
        では構成されたものなど一つもないのである。形態づける精神の暴力性と
        ーー作曲をする間にも自分の作品に受身でひたすらに耳をかたむけるにと
        どまるーーその耳の暴力性とは、この曲にいたって、渾然と一体化する。
        素材の中に主体が干渉するという形での<形成>ということには不信の念
        を拭いさることができなかったのがヴェーベルンの態度といってもよかろ
        うが、この点では、彼は、シェーンベルクより、この一体化に近づいてい
        た」
         アドルノは、これに続いて、もう一つ、非常に真実な、だから非常に重
        要なことをいっている。それを少し砕きながら訳すと、大体こうなる。
         「ヴェーベルンの影響力の正当性は、この非暴力性から生まれてくるの
        であり、作曲の際の主体的な至上権の欠如に由来するのである。というの
        も、この作曲家の至上権というものは、それが強制的に加えられれば加え
        られるほど、何か盲目的に命令するものということになり、したがって、
        結局は全部これとちがってもよかったわけだという可能性をよび起こすも
        とになる。ところが、ヴェーベルンの音楽は、はじめから、何かそこに現
        存している、絶対的なものとして受け入れる以外に手のつけようのないも
        のという外観を与えるのである。」
         これは事情が著しくちがうが、前に私たちが武満の音楽についてみた時
        にも、少なくとも、すれちがうくらいにして、ふれた問題である。武満は、
        「作曲家が自動車でも動かすみたいに、音を自由に動かそうというのは、
        最も悪いことです」という言い方をしていたが。
        (…)
        私は、もう少し、アドルノは続けて引用しておく必要がある。
         「しかし、この外観は、これを文字通り解釈したいという誘惑をかきた
        てる基になる。また、そこから、力をまったく使わない作曲という理想と
        ーーこれこそヴェーベルンの最後の逆説だがーー、それから、彼の後期の
        あの発展とがくりひろげられたわけであって、この発展に力づけられて、
        戦後の彼の追随者たちは、音楽の素材を全面的に支配しようという努力を
        重ねるにいたったのである。完全な非暴力性が全面的力の行使となる。」
        (吉田秀和全集3『二十世紀の音楽』白水社1975.10.25発行/P92-93)
 
耳をすませるということは
その音の持つ内的生命をききとるということ。
その音が自ずと成長していくであろうプロセスをききとり
それが形成されていくのを助ける。
音を調教するのではなく、
音みずからのいわば自己教育をサポートするということである。
しかしそれは何もしないということではなく、
逆説的にあらゆる可能性を引き出すべく試みるということでもある。
 
音を即物的な素材のように扱うとき、
そこには二種類の極端な働きかけが生じやすい。
ひとつには、それを切り刻み熱し冷まし溶かし固まらせ、
好き勝手になんらかの型にはめこもうとすることであり、
もうひとつは、音を放置したまま働きかけず
働きかけないまま野放し状態にするということである。
 
言葉もまた同様で、
かつては内的な形成力を生かした形式のなかに
言葉の生命を注ぎ込もうとしたものが、
その形式のほうを絶対化することで、
言葉が次第に死滅してしまうこともあり、
またそこになんらの形式性が働くのを拒むがゆえに
別の方向へと死滅していくこともある。
成長のバランスと実りを確かなものにするために
枝葉を切り落とす必要があるときもあるにもかかわらず、
その干渉をしないがゆえに陥ってしまう状態もあり
過度の干渉ゆえに何も生みだせなくなってしまう状態もある。
 
重要なのは、素材を生かす料理のように、
音や言葉の内的生命のラツィオを聴き取る耳と
それを生かすことのできる生きた形姿を見出すことなのだろう。
そしてその関係が決して固定的なものではなく
常に変容し続けるものであることに注意深くあることなのだろう。
そうでなければ、すぐに固定的な型の奴隷になってしまうだろうし、
逆に型を放棄することを自己目的化してしまうことにもなってしまうだろう。


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