風の音楽メモ 2004

諏訪内晶子『詩曲』


2004.7.26

■諏訪内晶子『詩曲』
 デュトワ指揮・フルハーモニア管弦楽団
 UCCP-1086
 
今やかなりメジャーになった感もある諏訪内晶子。
ひょんな偶然からチャイコスフキー・コンクールに出る前に
催された数十名ほどのコンサートでその演奏を聞いて感動させられた。
またチャイコスフキー・コンクールでの演奏も素晴らしいものだったが、
どうもその後、ジュリアード音楽院に入ってから
その演奏からは何かが消えてしまったように感じられて仕方がなかった。
その後一度ロシアのオケと共演したコンサートを聴いたときにも
あまり生彩がなかったように感じられた。
 
ところが、久しぶりに聞いてみたこの『詩曲』。
サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」などをはじめ
フランスものを集めたアルバムなのだか、驚いた。
どこかで何かが抜けた感じがした。
 
解説に宇野功芳の「まさに最高の音楽性」という文章が
宇野功芳らしい仕方で寄せられていて、
バッハがあまり好きではなかったりする部分は
あまり信用できなかったりするのだけれど、
こういうときにはなかなか良いことを書いている。
そのなかで、「今いちばん耳にしたいバイオリニストのコンサートを、
年に一度か二度しか聴けないのは何という痛恨時であろうか。
同じ日本人なのに。」とある。
 
パリ在住で日本にほとんど戻らない諏訪内晶子だけれど、
日本に戻らないがゆえにできることがあるのだろう。
いちど、最初にあったようなまるで巫女さんのような演奏を捨てて、
自分なりに懸命に考え続けることによって
一度失われたかもしれないものを
再度新たな形で変容させて獲得していく、という挑戦。
その挑戦は正しかったのだろうと思う。
おそらく演奏が今のように素晴らしくなっていなくても
その模索は正しい。
 
諏訪内晶子にかぎらず、
いわば、隔世遺伝的な継承のようなあり方は
一度捨て去らなければならないところがある。
そして百足が自分の足を意識して混乱するように
自分の能力を一本一本の足から育てていかなければならない。
そして再度新たな形で獲得できたものこそが
自由な人間にとっての芸術でなければならないのだと思う。
 
そう思ってあらためて聞いてみると
何も失われていない響き、
しかしすでに過去のののではない響きがそこにはあり
また新たに創造された響きがそこに
確かに響いているのも確かに聴き取ることができる。
 
 


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