風の音楽メモ 2004

ビョーク『メダラ』


2004.9.20

■ビョーク『メダラ』
 UICP1056     04.8.25
 
ビョークの新譜がでていたのに遅ればせながら気づいた。
この10日間ほどおりにふれて聴き続けている。
「声」が前面に響き渡っている新作。
 
        本作は、基本的にいっさいの“楽器”が使われていない。すべての
        (バック?)トラックが、人間の声によって構築され、歌われ(?)
        ているのである。(“プレジャー・イズ・オールマイン”のドラと
        “アンセスターズ”“オーシャニア”のピアノ以外はすべて!)。
        あらゆるビートが、あらゆるサウンドが、あらゆるサブ・メロディ
        が、人間の肉声が、あるいは声を加工した音によって奏でられてい
        るのである。
        (日本版・ライナーノーツ/宮嵜広司より)
 
声だけといっても、山下達郎の「オン・ザ・ストリート・コーナー」とは
もちろんのことまったく別物である。
山下達郎のひとりアカペラは基本的に大団円的気持ちよさのようなもので
古き良きアメリカなるもの?を堪能させてくれるものなのだけれど、
このビョークの「声」は、とてつもない古代というか
神話をつきぬけて古代以来無意識の底に眠っているものを
立ち上らせながら、しかもそれが未来に向けて迸っているようなところがある。
 
あの9.11もこのアルバムには積極的に影響しているようである。
ビョークのこんなコメントが紹介されてあった。
 
        ニューヨークに住んでいることもあって、あの街が誰のものでもない
        世界一自由な街から一瞬にして愛国の地に激変したことはショックだ
        ったのよ。それに対して、いままでのように、自分がアイスランド人
        である立場から発言するっていうのも形骸化してしまったようま気も
        したし。ともかく、人間がこれほどまでに宗教に影響されてしまうの
        かとうことに衝撃を受けたのね。イスラムとかクリスチャンとか、何
        の役にも立たない?で、そういうことも含めて、このアルバムでは、
        そういうあれこれとはまったく外にある世界を作りたかったの。つま
        り、山であれたら、という。文明も何もいらない。手と足と血と肉、
        そして声さえあれば、というね。それっていうのは『ヴェスパタイン』
        の対極でもあって、あのアルバムは他のひとは誰もいらないっていう
        作品だった。でも、今度のアルバムは、他のいろんな人とと一緒でな
        きゃ作れない。でも、そこに歴史も文明も文化も何もかも置いてこよ
        うねっていう、そういうことにつながったのよ。もちろん、そういう
        のは夢だってわかる。でもそうやって、みんあで洞窟にでも集まって、
        ありとあらゆるタイプの曲を作ってみましょうっていう。そういうア
        ルバムになったのよ。
 
ちなみに、「声」には、マイク・パットン、ラゼール、ロバート・ワイアット、
アイスランドのコーラス隊、ドカカなどが参加しているということだ。
 
こういうきわめてオリジナリティが高い、
というかどのジャンルにも分類できないようなアルバムを
きくことができるというのは刺激的な体験である。
しかも、ビョークという個性以外のなにものでもないにもかかわらず、
それが同時に個性を越えたさらなるなにかになっているというのも
ちょっとすごいことなのではないかという気がする。
 
アルバムタイトルの「メダラ」は「脊髄」という意味なのだそうだ。
あまりにも愚かな昨今の「愛国」「民族主義」ゆえに
それらを突き抜けて「声」が「脊髄」をかけめぐる。
「母」や「父」やさえもつきぬけて。
魔術的に、突風のように、溶岩のように、
高地にかけぬけていく風や雨のように、
降り注ぐロゴスのように。
ぼくは自分もまたひとつの「声」になって
かけめぐっているところを想像する。
ときには雨の滴のようなものにさえなりながら。
 
HPは http://www.bjorkmusic.jp
 


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