風の音楽メモ 2004-2005

清水ミチコ『歌のアルバム』


2005.3.1

■清水ミチコ『歌のアルバム』
 MHCL 489 2005.2.23発売
 
「清水ミチコの「歌のアルバム」を語りまくる90分」が、
今ほぼ日で連載されている。
このアルバムの1曲1曲について、
清水ミチコと糸井重里とが語り合い、
それを動画で毎日見ることができる。
http://www.1101.com/michiko/index.html
 
このアルバムは清水ミチコの13年ぶりのアルバムだということだが、
基本的に、歌まね、ものまね、パロディである。
山口百恵の新曲もどき、森山良子、ユーミン、矢野顕子、綾戸智絵・・・
「野球がよくわからない人に聞こえる野球中継」、
フランソワーズ・アルディの曲を「九九」にしてしまったものなど。
毎日アルバムの曲についての興味深い話をきくにつけ、
実際の「歌」を聞いてみたくなり、つい購入してしまうことに。
 
基本的にものまね、歌まねというのはかなり好きで、
以前はその手の番組などをよく見ることが多かったが、
最近のようにあまりにあふれすぎてしまうと
食傷気味のところもでてきて、最近はあまり見なくなっていた。
 
ものまねの面白さというのは、ただ似ているからおもしろいというよりも、
やはり本人でない人がまねることによる
そこで起こる重層性のなかでのさまざまなずれなのではないかという気がする。
 
このアルバムは、このアルバムだけでもおもしろいが、
たぶんこの「ほぼ日」の対談をあわせてききたほうが
ずっとオマケの楽しみが味わえると思う。
というのは、これらの「歌」を歌う清水ミチコの視点だけではなく、
糸井重里というかなりなくせ者の視点がそこにぶつけられているからだ。
意外に、完成度の高いものに糸井重里は冷たい視線を向ける。
むしろ、なんだかわけのわからないようなものに大受けする。
 
ものまねをふくむパロディの面白さというのは、
つねにパフォーマーとその受け手との間、
微妙な境界線の間で揺れながら生まれる輻輳する意識にあるようだ。
そして常に固定化からは逃れ続けようとするところがある。
だから、たとえばよく似ているものまねでも
それがある種の固定化に向かうと少しもおもしろくなくなってしまう。
 
人を泣かせるよりも、笑わせることのほうが
ずっとむずかしいというのも、そのことに関連している。
笑いは常に固定化を逃れ続けるものなのだから、
感情のなかでも刹那的でありながらも
きわめて重層で輻輳した要素をそこに含み込むことができる。
常に動き続ける意外性のずれのバランスのなかで成立するのだ。
 
 


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