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2001.4.14〜2001.10.8

 

●ヴァイスのリュート曲
●たまには、エアロスミス
●ポール・マッカートニー「ウィングスパン」
●オッター・ミーツ・コステロ「フォー・ザ・スターズ」
●MORELENBAUM2/SAKAMOTO:CASA
●吉松隆/田部京子:プレアデス舞曲集2
●カーペンターズ:レインボウ・コネクション
●レオン・ラッセル
●高木綾子『青の余白』
●キース・ジャレット・トリオ『インサイド・アウト』

 

 

 

風の音楽室

ヴァイスのリュート曲


2001.4.14

 

リュートという楽器はとても魅力的で、
最近ではつのだたかしの演奏などでもおなじみになってきた感もある。
 
リュートといえば、早い話、ギターの古いヴァージョンのようなもので、
その静かに、しみいってくるような情感が魅力で、
17世紀頃にはかなりポピュラーだったものの、その後、いわば衰退に向かい、
18世紀になるとかつての栄光はどこへやら、ということになったらしい。
 
かつてのリュート曲にはどんなものがあったのかということに
少しばかり興味がでて調べていたら、バッハとほぼ同時代の
シルヴィウス・レオポルト・ヴァイス(1686-1750)というリュート奏者で、
リュート時代の最後の華を咲かせたということを知った。
ちなみに、J.S.バッハは、1685-1750なので、
ヴァイスとほとんど同時代人。
 
とはいうものの、音楽事典を調べても、
ヴァイスのことはほんの少ししかでていないようで、よくわからない。
ふと思い立って、マイナーな作曲家の作品も数多くとりあげられている
ナクソスのシリーズのカタログをみていたら、
以下の4枚のCDがでているのがわかった。
(ナクソスのシリーズはこんなときなどとても重宝する。
演奏もわりといいし、安価でもあるし。)
 
■リュート・ソナタ集
 ソナタ(大パルティータ)ハ長調ドレスデン第11番
 ソナタイ長調ドレスデン第17番
 パルティータニ短調モスクワ草稿No.282/8
 ●フランクリン・レイ(lute)
 8.880470
 
■リュートのためのソナタ集第1集
 ソナタ第36番ニ短調
 同第49番変ロ長調
 同第42番イ短調
 ●ロバート・バート(lute)
 8.553773
 
■リュートのためのソナタ集第2集
 第5番ト長調
 第25番ト短調
 第50番変ロ長調
 ●ロバート・バート(バロックlute)
 8.553998
 
■リュートのためのソナタ集第3集
 ソナタ第2番ニ長調
 同第27番ハ短調
 同第35番ニ短調
 ●ロバート・バート(lute)
 8.554350
 
聴くことができたのは、まだ上記のうち第1集と第3集だけなのだが、
最初に聴いたときからたちまちその美しさに魅入られてしまった。
ヴァイスはなによりも当時の代表的なリュート奏者であり、
作品もリュート曲以外はそんなにぱっとしないらしいのだけれど、
これらのリュート曲はもっと聴かれていいのではないかと思う。
静かに聴いていると、その音色が胸にじわじわとしみいってきて、
その胸そのものがリュートになって共振しはじめる。
 
J.S.バッハにもリュート組曲などがあって、
手元にもバロック・リュートを演奏した、
かのナルシソ・イエペスのCDがあったりもするのだけれど、
個人的な趣味をいえば、リュート曲はヴァイスのものがずっといい。
おそらく、ヴァイスはリュートを知り尽くしたなかで、
作品をつくっていたのだろうと思う。
 
といっているうちに、ARTE NOVA CLASSICSのシリーズで、
ヴァイスの作品全集が出始めているらしいことを知った。
これは、ギターによる演奏なのだけれど、これは見逃せない。
 
現在、どこまででているのかは知らないのだけれど、
とりあえず第1巻は見つけることができた。
しかも2枚組で千円とちょっと。
演奏もなかなかに素晴らしい。
 
■Silvius Leopold Weiss:Complete Works for Lute Vol.1
 Kurt Schneeweiss,guitar
 ARTE NOVA CLASSICS 74321 72111 2
 
収められているのは、Sonata No.21 in G minorと
Sonata No.25 in G minor,Allegro in D major(Duet),
Menuet in A minor(Trio),Fanrasia in E minor.
 
奏者の名前が、ヴァイスのはいった、シュネーヴァイスというのも面白い。
(ちなみに、シュネーヴァイスというのは、雪ー白。白雪さんですね(^^))
 
ギターといえば、かつて中学生の頃、ギターを買って、
ナルシソ・イエペスのような演奏にあこがれて練習していた頃があった。
「禁じられた遊び」を弾けるようになりたいという、よくある願望。
なんとか、いちおうヘタクソながら弾けるようになったものの、
その後、興味を失ってしまうことになり、
どちらかといえばロックのギターのほうが好きになってしまうのだけれど、
その頃、このヴァイスの音楽に出会っていればどうだっただろうと思う。
このヴァイスの音楽は、広がりがあるとはいえないにしても、
少なくともぼくのなかの琴線をかぎりなく震わせるに足るように思う。

 

 

 

風の音楽室

たまには、エアロスミス


2001.4.14

 

■エアロスミス:ジャスト・プッシュ・プレイ
 SRCS2440     01.3.7
 
yuccaがエアロスミスの新譜が気になるというので、
久しぶりにエアロスミスを聴いてみることにした。
97年の「ナイン・ライブズ」に続く13枚目のニューアルバム。
 
一曲目の「ビヨンド・ビューティフル」の最初の音を聴いたとたん、
これはスゴイぞ!と直観。
やっぱり、たまにはエアロスミスだと思った。
最初は輸入盤を買おうと思ったが、日本盤のボーナストラックに
映画『アルマゲドン』の主題歌「ミス・ア・シング」なども
収録されているのでそっちを購入した。
(アルバムのピンクジャケットにはちょっと抵抗感があったけれど(^^;))
 
久しぶりの連休なので、ちょっとした山登りなどをという感じで
ドライブしながら聴きはじめたのだけれど、
最後まで飽きのこないのにはちょっとした驚きだった。
 
最近はこうしたロック系のアルバムを聴くことは
稀になっているのだけれど、やはりたまにはこういうのを聴くと、
とくに鬱のような気質の人間には特効薬になるところもある。
それに、やはりなによりスティーヴン・タイラーのヴォーカルがいい。
 
そんなにずっとエアロスミスを聴き続けてきわたけではないけれど、
シンプルな強さのなかにいろんな魅力がいっぱいつまっている
このサウンドはやはり30年ほどにわたる活動の集約のような感じがする。
感動である。
 
このアルバムのタイトル「ジャスト・プッシュ・プレイ」について
スティーヴンはこうコメントしている。
 
        このアルバムは俺たちの現段階でのベスト。タイトル?まったく
        そのままの意味さ。プレイボタンを押してとにかく聴いてくれよ
        っていうこと。それ以外何が必要なんだ?ときにかく聴いて感じ
        るままに受け取ってくれ。
 
また、同じくスティーヴンのこのコメントも泣かせる。
 
        新しいテクノロジーを使っていろいろ試したけど、いちばん重要
        なのは、すべてを剥ぎ取った最後に残るもの。ギター1本で作っ
        たメロディと詩なんだ。
 
ジョー・ペリーもこういっている。
 
        テクノロジーを駆使しようが、音楽がスピリットを持たなければ
        何も意味がない。俺たちは俺たちのロックをしていなきゃ意味が
        ないんだ。
 
やっぱり、これだなと思う。
30年をロックとともに過ごしてきたがゆえのシンプルな結論。
ただのプレのシンプルではなく、すべてのとけ込んだポストのシンプル。
ロックの原点、つまりは音楽の原点、さらにはすべての営為の原点。
「すべてを剥ぎ取った最後に残るもの」のなかに、すべてがあり、
「スピリットを持たなければ何も意味がない」。
 
シュタイナーの精神科学からも、教育においては
「スピリット」を排除しようというような妙な退行現象のあるなか、
こういう言葉の重みはとくに傾聴に値する。
 
それはともかく、このCDの最後にあるボーナストラックの
「ミス・ア・シング」は、ともすれば甘く流れがちな曲にもかかわらず、
エアロスミスならではの不思議なさわやかさを醸している。
 
ぼくも、30年後、生きていられたら、
ささやかながらこいうシンプルな「ジャスト・プッシュ・プレイ」が
できるようになっていればいいのにと思っている。
 

 

 

 

風の音楽室

ポール・マッカートニー「ウィングスパン」


2001.6.30

 
■ポール・マッカートニー
 「ウィングスパン 夢の翼〜ヒッツ&ヒストリー」
 TOCP65746/47  01.5.9
 
ポール・マッカートニーの声をそれと意識して聴いたのは、
おそらくソロの「アナザー・デイ」だったように記憶している。
1971年のことで、ぼくがポップスを聴き始めた頃のこと。
そんなにいい印象ではなかった。
(今聴いてみるとその軽さのようなものがけっこういいんだけれど・・・)。
ビートルズにしてもそう聴きたいとは思っていなかったし、
その後登場するウィングスにしても好印象はなかった。
 
とはいえこうしてベストアルバムなどがでてみれば、
そこに収められている曲のほとんどを聴いてたりもするから不思議だ。
そういえば、
1982年の「タッグ・オブ・ウォー」も、
1983年の「パイプス・オブ・ピース」も、
1986年の「プレス・トゥ・プレイ」も、
1989年の「フラワー・イン・ザ・ダート」も、
レンタルではあるが、ちゃんと聴いていたりする。
 
で、ぼくが初めてポールっていいなと思ったのは、
この「フラワー・イン・ザ・ダート」が最初かもしれない。
でもって、アルバムをはじめて実際に購入したのは、
「フレイミング・パイ」(1997)と、ごく最近のことになる。
 
今回のベストアルバムが面白いのは、
「ヒッツ」と「ヒストリー」という2枚のCDになっていること。
「ヒッツ」がその名のとおりヒット曲を集めたものなのに対して、
「ヒストリー」はたぶんポール・マッカートニーなりの「ヒストリー」を
そこに収めている(だろう)のがユニーク。
その「ヒストリー」には、ビートルズ解散後のソロアルバム
「マッカートニー」と「ラム」からの曲が多く入っている。
ということは、「ウィングスパン」というタイトルとは
必ずしも「ウィングス」だけの曲だけではないということ。
解説にもあるが、ポールとリンダがいれば、
それだけで「ウィングス」だということかもしれないが。
 
しかし、ポールとリンダの関係というのはわりと好きだなと思う。
ジョンとヨーコよりは好感が持てたりする。
とはいえ、好き好きなので、人がとやかくいうのもなんだし、
そちらも互いをしっかり見ようとしていた点ではいいなと思うのだけれど。
 
リンダの死後、ポールはかなりダメージを受けていたらしいが、
その後、あらためて活動的になっているところをみれば、
むしろ新たなものがそこからでてくる可能性もあるのかもしれない。
しかし、ポールの活動の持続性はあらためてスゴイなと思う。
しかもこうしてあらためてこれまでの曲を聴き直してみると、
どの曲もすべてポール以外のなにものでもないのが実感される。
「ジョンの魂」というふうにはよくいわれるものの、
「ポールの魂」という表現はあまり使われたりしない(なぜだろう)が、
まさにその「ポールの魂」を感じる。
ポールを聴き始めて30年経った今になってようやく・・・。
やはり聴くことにも持続する意志のようなものが必要なのかもしれない。
そうしないと、自分の今の「耳」にしばられてしまって、
その「耳」を展開させ自在なものとしていく可能性を失ってしまうから。
 
 

 

 

 

風の音楽室

オッター・ミーツ・コステロ

「フォー・ザ・スターズ」


2001.6.30

 
■アンネ・ソフィー・オッター・ミーツ・エルヴィス・コステロ
 フォー・ザ・スターズ
 HCCH1001 01.4.21
 
これを聴き始めてもう2ヶ月ほどになるのだけれど、
聴くたびに、ほんとうによくできているアルバムだと感心してしまう。
一曲一曲がいいし、全体の構成も素晴らしい。
まるでオッターの歌声で語られるミュージカル風の映画のよう。
 
オッターのメゾ・ソプラノは、これまでに、
シューマンやマーラーなどで親しみをもっていたが、
正直このアルバムを聴くまで、なぜかエルヴィス・コステロのものは、
まとまって聴いたことがなかった(なぜだったのだろう)。
このアルバムの前には、あのバート・バカラックとの
コラボレーション・アルバム『ペインテッド・フロム・メモリー』が
あったということも知り、その活動の幅広さにあらためて驚く。
 
やはり、オッターの声とその表現力は素晴らしい。
リートを歌うのとはまた異なった仕方でポピュラーを歌うオッター。
そしてそれにコステロの声がそれに絡み、不思議な世界をつくりだしていく。
 
アルバムの6曲めにある「ブロークン・バイスクル/ジャンク」で
唐突気味に登場するコステロの声など、感動もの。
この曲は、トム・ウェイツの「ブロークン・バイスクル」と
ポール・マッカートニーの「ジャンク」をコステロが
ひとつの曲にまとめたものだが、このセンスにはうなってしまった。
ぼくはこのどちらの曲も知らなかったのだが、
ちょうど先日、ポール・マッカートニーのベスト・アルバム
「ウィングスパン」にも「ジャンク」が収められているのを聴くことができた。
(このアルバムも素晴らしいが、この話は別に)
 
タイトルにある「ミーツ」ということについて
このアルバムを聴きながら考えたりもした。
ロートレアモンの「ミシンと洋傘との手術台のうえの不意の出会い」も
美しいかもしれないが、こういうすぐれた出会いは得難いと。
「ミーツ」は試みようとすれば、
それはそれなりに多くの場合可能なのだろうけど、
それが「ミーツ」の名に値するかどうかはわからないだろう。
おそらく「ミーツ」においてなによりも大事なのは、
「ミーツ」以前のそれぞれの深まりなのだと思う。
それぞれが深まっていてはじめて、その深まりと深まりが、
ある種の絶妙な流れをつくりだしていく可能性に向かって開かれてゆく。
それをこうしてアルバムとして聴くことで、
自分のなかにまた新たな可能性の流れが生まれてくるのが実感される。
孔子ではないが「なんと楽しいことだろうか」。
 
 

 

 

 

風の音楽室

MORELENBAUM2/SAKAMOTO:CASA


2001.7.26

 
■MORELENBAUM2/SAKAMOTO:CASA
 WPC6-10145     01.7.25
 
この暑い夏に、これという一枚がほしい方にオススメ。
アントニオ・カルロス・ジョビンへ捧げられた
坂本龍一のニュープロジェクト。
 
以前からボサノヴァのいいのがないか探していて、
なかなかこれというのが見つからなかったのだけれど、
この一枚でもう探す必要もなくなったようだ。
たぶん、これは一生ものの名盤だという感じもしている。
 
坂本龍一の音楽には、あのOPERAがそうだったように、
どこか、そうじゃない気がする、というところや
気になって仕方がないところがあったりしたのだけれど、
なんだかこれまでとはちょっと違った雰囲気(評判)を感じたので、
久々耳にしてみることにしたら、これが絶品。
 
細野晴臣のコメントに
「坂本君が自分に戻って、やっとリラックスした
音があった。僕が感ずるに、
それは久しぶりの事だったのではないだろうか。」
というのがあったけれど、ぼくもそう感じた。
 
なによりも、聴いていて、とてもリラックスできるし、
しかもほんとうに沁みるように楽しめる。
そういえば、戦メリのピアノ曲集や
音楽図鑑なんか、好きだったなあ、と思い出す。
 
たぶん、坂本龍一自身、とても充実した時間だったのではないだろうか。
こういうのを聴いてしまうと、自分がどのように
そのプロセスに関わったかということが、
そのアウトプットに表現されてしまうということがわかるような気がする。
たとえば、なんでもないような文章でも、
自分で読んでみたりすると、そのプロセスって見えてくるところがある。
無理してたり、知と情がアンバランスしてたりすると、
どうしてもそれなりのアウトプットになるんだろう。
 
ところで、先ほど、このCDを流しながら、
yuccaと小さなドライブをしてきたのだけれど、
夏の夜のドライブなんかにもけっこう素敵だと思うので
ぜひ一度お試しあれ。
 

 

 

 

風の音楽室

吉松隆/田部京子:プレアデス舞曲集2


2001.7.28

 
■吉松隆:プレアデス舞曲集2
 ピアノ:田部京子
 COCQ-83546    01.7.20
 
ときどき、甘いものが食べたくなるときがある。
少しだけほんとうに美味しい甘さがほしい。
(気質が鬱のひとには、とくに
そういう甘さが必要だそうです)
でも、食べすぎるほどにはいらない。
 
吉松隆はとても美しい音楽を書いて
楽しませてくれるのだけれど、
ずっと聴いていると、
食べすぎになってしまうところがあるような気がする。
 
このCDは「プレアデス舞曲集」の2枚目。
同じく、田部京子による演奏。
1曲1〜3分程度の宝石のような曲が花束のように集められて、
「4つの小さな夢の歌」「3つのワルツ」
「プレアデス舞曲集」のVI〜IXとなって咲いている。
それぞれの曲のタイトルもとてもしゃれている。
 
たとえば、プレアデス舞曲集VIIは、
「途切れた淡い前奏曲」「静止した夢のバヴァーヌ」
「教え直しのワルツ」「流動的なインベンション」
「遠い夢のロマンス」「柔らかな時の舞曲」
「優しき風のロンド」の7曲で構成されている。
 
以前、吉松隆の武満徹への評のなかで、
初期の作品のタイトルの良さに比べて、
後期にはタイトルがいまひとつになっていく、
というようなものを読んだことがあるが、
吉松隆は作品のタイトルをとても愛着をもって
つけているんだろうなと思う。
 
吉松隆という作曲家を知ったのは、
yuccaの買ってきた「魚座の音楽論」という著書。
こんな作曲家が日本にいたんだ!という驚きがあったのを覚えている。
レコードで「天馬効果」というのを聴いたりしたのも、
とても新鮮だった。
その後その作品はCD化されていることも多かったので、
その都度、聴いてみたりしていたのだけれど、
その都度感じるのが、最初にふれたような、
甘さの両義性のようなものだった。
 
今回のCDも、鬱気質と
たぶんぼくのなかの吉松隆的ロマンティシズム・叙情性から、
どうしても聴いてみたくなったのだけれど、
聴いているうちに、甘いものの食べすぎのようになってしまい、
武満徹や細川俊夫のほうにシフトしてしまうところがある。
とはいえ、吉松隆のようなどこまでもロマンティックな人には
やっぱりそれなりにがんばってほしいなとも思う。
 
そこで吉松隆の音楽を聴く際の処方箋。
いちどにたくさん食べすぎないこと。
ロマンティックがほしくなったときに、
少しだけ氷砂糖をほおばるように、
その甘さをちょうどいいだけ楽しんでみること。
 

 

 

 

風の音楽室

カーペンターズ:レインボウ・コネクション


2001.8.4

 
■カーペンターズ:レインボウ・コネクション
                         〜アズ・タイム・ゴーズバイ
 UICY1060    01.8.1
 
CDショップにふらりと寄ってみたら、
カーペンターズの声が聞こえてきた。
とはいっても、今までに聞いたことのない曲。
しかも、カーペンターズらしさのでている懐かしいサウンド。
ぼくの耳がそのサウンドで一気に時代を遡っていくのがわかった。
(Leave Yesterday Behindという曲だとあとでわかる。
テレビドラマの挿入歌として使われることにもなっているらしい)
これは・・・と思ってカーペンターズのコーナーを見てみると、
なんと、新譜がでているではないか。
 
とくにカーペンターズのファンというのでもないけれど、
カレンが1983年に亡くなってからの、
VOICE OF THE HERAT(1983)やLOVELINES(1989)も含めて
ほとんどの曲は聞いてきたのではないかと思う。
最初に聞いたのが、ポップを聞きはじめた1970年頃のスーパースターで、
それが非常に印象に残っているのもあって、
カレンの声を聞くと、
いつもその頃のいわばピュアな耳の状態に
戻っていけるというのもあるかもしれない。
VOICE OF THE HERATのなかに、
MAKE BELIEBE IT'S YOUR FIRST TIMEという
とっても好きな曲があるけれど、
まさに、はじめて聞いたときの耳を感じることができる。
ちなみに、ぼくのもっとも好きなカーペンターズの曲は、
レオンラッセル作のマスカレード。
これはもう何度聞いてもはまってしまう。
 
人の声というのは不思議だとあらためて思う。
カレンの声からはカレンの声からではなくては
広がっていかない何かがある。
あたりまえのことなのかもしれないけれど、
やはり声の秘密というのがあるのではないか。
 
決して形をとってあらわれるものではないけれど、
おそらく、だからこそ、何かが直接的に届けられてくる。
それから、やはり声の好き嫌いというのも、
否定できないものとしてあったりもする。
嘘の声とほんとうの声というのも
敏感に感じ取れたりもしたりする。
 
今回のアルバムは、リチャードの執念と
ファンの絶えることのない懇願からできたもののようで、
最初はカーペンターズ結成の30周年として
1999年に発売される予定だったのが、
エラ・フィッツジェラルドやペリー・コモなども出演していて
その許諾のためなどに時間がかかって、
発売が遅れることになった模様。
しかし、エラとコモが登場してくるのはうれしい驚きで、
やはり、声の不思議をあらためて感じた次第。
 

 

 

 

風の音楽室

レオン・ラッセル


2001.9.8

 
 
仕事でラジオ番組の提案書をつくる必要があって、
パーソナリティと打ち合わせをしていたときに、
偶然、レオン・ラッセルの名前がでた。
 
        カーペンターズのニューアルバムがでたりしてるね。
        カーペンターズだと、ア・ソング・フォー・ユーだろう、やっぱり。
        レオン・ラッセルだね。
        そう、タイト・ロープ。
        マスカレードもね。
        いい曲だね。
        レオン・ラッセルのベスト・アルバム「PETROSPECTIVE」知ってる?
        いいの?
        これ1枚あれば、っていうやつ。
 
ラジオの仕事になると、
そして音楽が話題になると、
ついこういう話になったりもする。
三谷幸喜の『ラジオの時間』がつくりだすのも、
たぶんそうした世界のひとつ。
 
自分だけの小さなラジオを肌身離さずもって、
夜中の自分だけの時間に、
耳のそばで響いている音楽と語り。
ラジオが魔法だった時空のメルヘン。
 
レオン・ラッセルのタイト・ロープも
ぼくにとっては、
その魔法の時空のなかから響いてくる
不思議な声とサウンドだった。
 
        まるで綱渡りtight ropeさ
        右手に炎、左手に氷
        俺とおまえのサーカスゲーム
 
カントリーとロックのあいだに
ねじれて映ったピエロのような声で、
まるで綱渡りさ・・・。
 
この不思議な危うさのなかで
夜の闇の向こうから流れてくる
タイト・ロープ。
そしてア・ソング・フォー・ユー。
 
カーペンターズの
あの純粋ストレートとは似てもにつかないのだけれど、
このねじれのほうが、そのころのぼくを
どこか映し出してくれていたのかもしれない。
 
さて、そのパーソナリティは
専業は別にあって趣味でやっているもの。
ぼくのとっても好きな声をしていて、
興がのってくると、
ルパン三世や森本レオのヴァージョンで
語りかけてくれたりもする。
これもひとつのラジオの時間の魔法なのかもしれない。
今回いっしょにつくったラジオ番組の提案書、通ると、
いっしょに遊べていいのだけれど・・・。
 

 

 

 

風の音楽室

高木綾子『青の余白』


2001.10.8

 
■高木綾子『Air Bleu 青の余白』
 DENON COCQ-83553  01.9.21
 
耳をすませるときこえてくる笛の音…。
物心ついたころからその音色のことをどこかで夢想していた。
 
有田正広のフラウトトラヴェルソの音色に
心奪われうばわれはじめたのはそう昔のことではない。
いや、心奪われるというのとは少し違っているかもしれない。
耳をすませることそのものに注意を喚起されはじめたというべきか。
平尾雅子とのデュオのコンサートにでかけたとき、
有田正広のきこえるかきこえないかというほどの
ほんの小さな音色のフラウトトラヴェルソの響きに
思わず涙腺がゆるんでしまったことがある。
その音色が場をふるわせているということ、
その不思議さへの驚きとそのふるえに共振しているぼくという耳。
 
さて、高木綾子の『Air Bleu 青の余白』。
まったく知らずCDショップの視聴コーナーで
偶然に耳にしたその笛の音色に、
久しぶりにぼくの耳がすいこまれてしまった。
高木綾子というフルーティストのことはまったく知らない。
これまでにも幾枚かのアルバムがだされているようだ。
 
このアルバムは、笛だけによって奏でられている音楽。
マラン・マレの「スペインのフォリア」からはじまり、
C.P.E.バッハの「フルート・ソナタイ短調」、
ドビュッシーの「シランクス」と続き、
やがて武満徹の「エア」で閉じられている、
無伴奏フルート曲の歴史をたどるプログラム。
 
無伴奏フルートといえば、
テレマンのそれを有田正広の演奏できいたときの
凍り付くような(といっていいのか釘付けになったというのか)
驚きを思い出す。
 
しかし、今回聴いた高木綾子の無伴奏フルートのそれは、
かつてのそれとはぼくにとって少し異なっているように思う。
どこが違うのだろうか。
もちろん無伴奏フルートというのをはじめてきいたときの衝撃が
今回は緩和されているというか、不意打ちのような驚きから
自由でありえているということだろうか。
少なくとも何が演奏されているかということを
意識しながら聴くことができるという余裕のようなもの。
しかし、それだけではないようにも感じるものがある。
 
フルートだけによって奏でられる音は、
やはり鳥のなきごえにも比することができるのだろうが、
むしろこうした演奏できわだってくるのは、
鳥が異界にむかって捧げているなにを凝縮させたなにかだ。
 
この演奏でまず感じたのは、
鳥のような天へと響くようなさえずりではなく、
なにかの息づかいのようなそんなもの。
息とともになにかが降臨してくるのだが、
それがちゃんとこの地上で受け止められている安心感のようなもの。
と同時に、その降臨してきた音を受け止める身体性が
その身体性にもかかわらず、いや身体性ゆえに、
その場でなにかが復活しながら立ち昇っていくような不思議。
ぼくの耳が身体性と同時に天上性をも持ち得ているようなそんな不思議。
 
そんな、聴くということの不思議を
ひさしぶりに体験させてくれるアルバムのように思う。
 

 

 

 

風の音楽室

キース・ジャレット・トリオ『インサイド・アウト』


2001.10.8

 
■キース・ジャレット・トリオ『インサイド・アウト』
 ECM UCCE-1016    01.9.21
 
キース・ジャレットが好きかときかれたら、
「ううん、そうでもないんだけど、気になる存在なんだよね」
とでも答えることになるだろうか。
だから、愛聴盤というのにはならないだろうというのはわかっているものの、
やはりキース・ジャレットの新しいトライ!には
つきあわざるをえないだろうということになる。
 
愛聴盤にはらならいだろうといいながら、
昨年のトリオの『ウィスパー・ノット』は素晴らしかった。
そのまえのキース・ジャレット復活盤としてのソロのスタンダードも。
 
で、今回は、トリオによる即興演奏!
どんな演奏なのだろう。
こうなると聴いてみるしかなくなる。
しかもタイトルが『インサイド・アウト』。
もちろんトリオのメンバーは同じく
ゲイリー・ピーコックとジャック・デジョネット。
 
今回のアルバムはサービスのいいことに
キース・ジャレットのコメントがついている。
 
         ぼくらはときとして、それが何で出来ているのかを確かめるために、
        内と外とをひっくり返さなければならなくなるときがある。その方法は、
        まず内部に入り込んで、ある作業を経た後、それを外側(物理的な音の
        のある、物理的な世界)に暴き出すというものだ。今までのこのトリオ
        は、あらかじめ存在している曲をインプロヴィゼーションの主な素材と
        して利用することを専念してきた。しかし、いつも物事の内と外とをひ
        っくり返すことに興味を持っているぼくは、あるヨーロッパ・ツアーの
        ときに、形式を捨て去ってみたらどうだろうと、ジャックやゲイリーに
        相談したーーつまり、どんな素材でも利用しなければならないような場
        合ーー会場やその他の状況によって、サウンド・チェックのときに既成
        の曲が活き活きとしてこないような感じがした場合を想定してのことだ
        った。
        …
         何年も前にイタリアで受けたインタヴューの中で、ぼくらがなぜスタ
        ンダード曲をこれほど長い間演奏し続けるのかという質問と関連して
        (多くの人たちは、ぼくらが“新しい”ものと取り組むべきだと考えて
        いたので、ぼくらがなぜ、いつまでも古い曲を演奏しているのかわから
        なかったのだ)、ジャーナリストがぼくに、「つまり、曲が問題ではな
        いんですよね?」と言った。ぼくは「そのとおり。」と答えた。「ぼく
        らが曲に何を“もたらすか”が問題なんです。それがジャズというもの
        ではないですか?」と。では、実際の曲がなくてもこのことは成立する
        のだろうか?その夜の調子が良くて、然るべきプレイヤーたちが揃って
        いれば、答えは“イエス”である。ときとして、それは魔法がかかった
        かのように、ぼくらが一瞬のあいだ優雅な気分に浸っているかのように
        感じたときに、ぼくらがエネルギーの繊細な部分を利用しているときに、
        現実のものとなる。フリーの演奏を“理解”しない…人たちには、それ
        が真のジャズの歴史における、驚くほど重要な部分であるということを
        “見て取る”だけの自由がない。形式はどこへ行ったって?それを問う
        てはいけない。考えてもいけない。期待してもいけない。ただそこに身
        を置くしかないのだ。すべては、“内側”のどこかにある。そしてそれ
        は、突如として“自ら”形式を成すのだ。
        
思想にしろ哲学にしろ、また芸術にしろ、
まず最初に決まった形があって、
その形をとっていれば安心するという在り方は、
本来のそれをスポイルしてしまうものになる。
 
形というのは、つねに自己組織化し続けるプロセスであって、
「突如として“自ら”形式を成す」のだ。
そして内的必然性によってその形は変容していく。
 
音楽を聴くときにも、
それを有名な曲ということから聴くとかいうのではなく、
つねにまったく新しい、今生まれたばかりのものとして聴くこと。
それはとても難しいことかもしれないけれど、
それを忘れたとき、それは音楽の仮面をつけた
アーリマンまたはルシファーになってしまうだろう。
 
キース・ジャレットの音楽が気になるのは、
そのアウトプットそのものであるというより、
その音が生み出されるプロセスの体験、
それを意識させてくれるというところにあるように思う。
だから、「気になる存在」なのだ。
 
この神秘学遊戯団で書くときにも、
その「遊戯面」である即興性を意識するようにしている。
「引用」をモチベーションにすることも多いが、
それは誘い水のような作用として自分に与えていたりもする。
重要なのは、書くうちに“自ら”見えてくるある種の形である。
ときにそれはぼくにとっての「スタンダード」であることもあるが、
それはまた同時に「インサイド・アウト」なのだ。
 
 


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