風の音楽室 3


1997/11.3-1998/2.19

■マタイ受難曲

■ザ・ヒリアード・アンサンブル

■ヴェデルニコフのベートーベン

■プレガルディエン/シューベルト「冬の旅」

■日本のうた 300、やすらぎの世界

■BCG /バッハカンタータ全曲シリーズ5

■舟沢虫雄・蝉丸の為の音楽

■パトリシア・カース

■中沢新一・山本容子 /音楽のつつましい願い

■絶対音感

 

 

小沢征爾のマタイ受難曲


(1997.11.3)

 

 小沢征爾の「マタイ受難曲」がNHKテレビの芸術劇場で放送された。サイトウ・キネン・フェスティバル'97ということで、オーケストラは、サイトウ・キネン・オーケストラ。

演奏に3時間以上かかる長大な作品で、第一部、第二部に分かれている。その第一部の最初の部分は見逃してしまったのだれど(友人から電話で「テレビで今マタイをやっている」と教えてもらいあわててテレビをつけたということなので^^;)その第一部の演奏があまりにもつまらないので、どうなることやらと思っていたところ、第二部からは、一転して迫力がでてきて、演奏者たちの顔つきも(もちろん演奏も)変わってきた。やはり、マタイ受難曲という曲そのものが、演奏者を変容させてしまったのかもしれない。

解説の吉田秀和によれば、武満徹が生前小沢征爾にマタイが聴きたいとかいうことを言っていたとか。

一通り聴くのに3時間ということもあり、吉田秀和もそう言っていたように、この曲はそう何度も何度も繰り返し聴けるものではない。しかし、ちょうど数日前、ふと思い立って、カール・リヒターの名演を聴いてあらたな感動を味わったところだったが、それから数日しか経っていないときに、またマタイ受難曲を聴く機会を持てた。

この曲を聴くと、涙がとまらなくなってしまう。演奏の良し悪しはもちろんあるのだが、曲そのもののもつ力がぼくをある感情へと導いてしまうのだ。マタイ福音書は、キリストの「人間」の部分を描いているとシュタイナーは言うが、このマタイ受難曲は、まさにその「人間」を描ききっていると思う。

さて、今回の演奏では、電話で教えてくれた友人の言葉どおり、ソプラノのクリスチアーネ・ウルツェが素晴らしかった。こうした曲はソリスト如何で大きくその演奏が変わってくるし、今回全体としてかならずしもいいキャスティングとは思えなかったが、それを超えて、第二部は伝える何かを持っていたと思う。

 

 

 

ザ・ヒリアード・アンサンブル


(1997.11.3)

 

■ザ・ヒリアード・アンサンブル 日本公演

 11月2日 宇和島・南予文化会館

 ザ・ヒリアード・アンサンブルのコンサートが比較的近くであるというので、車を2時間ほどとばして、宇和島市まで出かけていった。今回の日本公演は、東京・札幌・大阪・山口、そして最後の講演が宇和島でした。

 ザ・ヒリアード・アンサンブルは、世界最高の声楽室内アンサンブルの一つと評価されていて、メンバーはカウンターテナーのデイヴィッド・ジェームズ、テノールのロジャーズ・カーヴィ=クランプ、ジョン・ポッター、バリトンのゴードン・ジョーンズの4人。これまでは、CDで聴いていただけだったのですが、やはり生演奏は素晴らしいものでした。人間の声が、ここまでの高みと完成度を持ちうるということにあらためて驚嘆させられたといえます。

 ステージには、ただ4人の男性が気取らない姿で、譜面台を前にして立っているだけ。何か楽器があるわけではなく、非常に簡素なものです。しかし、そのステージから響きだしてくる声の響いてくる空間は、通常の三次元空間ではないような、そんな感じさえ受けました。これは、雅楽の笙の音を聴いたときの印象ともつながるのですが、彼らの声は、その口から出されているというのではなく、彼らを中心とした場のあらゆるところから輝きだしてくるようなもので、声そのものが光になって変幻自在な姿で踊っているとでもいえるようなものでした。

 シュタイナーは、人間の進化の過程において、いずれ人間は喉で生殖するようになるといっています。また、ヨハネ福音書は、こう記しています。

初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

 声の不思議をあらためて感じさせられたコンサートでした。

演奏曲目は次の通り。

●アントワーヌ・ビュノワ「レジナ・チェリ(天の女王、喜びませ)

●ジョーヌ・メカトーフ「海の星の調べ」

●フランシスコ・デ・ペニャローサ「聖なるみ母よ」

●エリザベス・リドル「くじらの大騒ぎ」

●シェリンガム「ああ、やさしいイエス様」

●ギョーム・デュファイ「おお、イスパニアの後裔/おお、イスパニアの星」

●アルヴォ・ペールト「パリサイ人のひとりが」

●ピエール・ド・ラ・リュー「めでたし、天の女王」

●フィリップ・バジロン「サルヴェ・レジナ(めでたし女王)

●マイケル・フィニスィ「十字架のかたわらに立っていた」

●ミゲル・ダ・フォンセカ「祝せられた胎よ」

●グレゴリオ聖歌「敬虔にあなたをたたえます」

●ジェイムズ・マクミラン「ここにかくれて」

 なお、今回演奏された曲は、9月26日に発売された来日記念CDにも収録されています。

■ヒリアード・ソングブック

 ヒリアード・アンサンブル/バリー・ガイ(ベース)

 ECM CD:POCC-1045/6

 

 

 

ヴェデルニコフのベートーベン


(1997.11.26)

 

■ヴェデルニコフの芸術-12〜ベートーベン・3

 ベートーベン

 ピアノソナタ第30番 ホ長調 作品109

 ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110

 ピアノソナタ第32番 ハ短調 作品111

 アナトリー・ヴェデルニコフ(ピアノ)

 (COCO-78749 1995.12.21)

 シュタイナーは若い頃、「あなたの好きな作曲家は」というアンケートに、「ベートーベン」と答えている。ベートーベンの音楽は、人間の音楽、自由の音楽である。ベートーベンによって、西洋音楽はその作品の自律的性格を強め、かつての即興演奏的なあり方を排する傾向性を持ったともいわれるが、それを、音楽が自由を失ったととらえるのは早計だろう。むしろ、それはむしろ、人間の自由への挑戦だともいえるように思う。まさに、シュタイナーの「自由の哲学」に描かれている理念と共通するものがベートーベンの音楽の根底にあるのではないか。

 ヴェデルニコフのベートーベンは素晴らしいということを聞き、現在も「ヴェデルニコフの芸術」というシリーズのでているなかでベートーベンの最後の3つのピアノソナタのおさめられているものを聴いてみた。そして、とくに、第32番の第2楽章を聴いて、胸がその音楽の理念のようなものに圧倒されてしまって、声も出せなかった。

 今年に入って聴いた音楽のなかでは、内田光子の弾くシューベルトのピアノ曲、特にシューベルトの最後の19、20、21番のソナタでも、それに似た感銘を受けたのだけれど、今度はそれをさらに凌いだ。

 ベートーベンの最後の3つのピアノ・ソナタ。シューベルトの最後の3つのピアノ・ソナタ。その両者は、呼応している。それらの音楽は、おそらくは、同じ源から注ぎ込まれている、その音楽の理念のようなもがつかみ取られているのではないか。それは、シュタイナーのいう「思考」の客観性を持ち、それゆえに、自由への賛歌でもあるのではないか。

 CDには、浅田彰の解説が載せられていたが、あの「逃走論」の作者である彼が、「思考」の真の意味をここまでとらえていることには、驚きを感じた。全共闘世代の中沢新一は、真の「思考」から未だに逃走しているように思うのだが、ぼくと同世代の浅田彰は、真の「思考」の意味を深くとらえている。真の「思考」からしかはじまらないことを深く認識できているかどうか。その重要性はいくら強調してもしすぎることはない。

ベートーベンの最後の三つのピアノ・ソナタといえば、この偉大な作曲家の全作品の、いや、西洋音楽総体の究極に位置するといってよい、古典の中の古典である。おそらく、あまりに古典的だからであろう、これらの作品を内容的に深く掘り下げた演奏は現代ではほとんど望むべくもなく、数少ない成功例はあくまで形式的な完成度を目指す演奏(たとえばミケランジェリからポゴレリッチにいたるような)に限られていた。そこへ発見されたのが、このヴェデルニコフの演奏である。冷たく透きとおった音色と一分の隙もないテクニック、そして緻密な構成力を駆使したこの演奏は、形式的な完成度でも今あげたようなピアニストたちの演奏に勝とも劣らない。そればかりか、ヴェデルニコフにあっては、そのような形式的洗練が内容的深化とひとつになっているのだ。揺るぎなく余裕をもって置かれてゆく音のひとつひとつに、深い音楽的思考が宿っている−−というよりも、そうやって音をひとつひとつ弾いていくことが、思考することに他ならないのだ。音と密着したその思考は、もはやヴェデルニコフ個人のものではなく、ベートーヴェンのものですらない、普遍的な次元へ到達するだろう。そのとき、そこには純粋な音楽が、音楽だけが立ち現われる。真に古典的な演奏だけに可能な偉大な達成である。そう、これは同時代にひとつあるかないかの古典として残る演奏なのだ。

 この「ヴェデルニコフ個人のものではなく、ベートーヴェンのものですらない、普遍的な次元」であるというのは、思考内容が客観的であるということであり、その思考体験の場は、この上なく個人的なものである、ということに通ずる。それは人間がもっとも人間であり、自由を創造する基盤となる場所でもある。

 この演奏、特に32番の2楽章は、そういう意味で、「自由の哲学」のテーマ曲ともなる曲であり演奏であると思う。

 ちなみに、ヴェデルニコフはロシアで、ニコラーエワと並ぶ優れたピアニストで、その二人はともに1993年に亡くなっていて、政治的な関係で、ヴェデルニコフは国外の活動が許されておらず、やっと来日が可能になりその予定の間近になって亡くなってしまった。

 

 

 

プレガルディエン/シューベルト「冬の旅」


(1997.11.28)

 

■シューベルト「冬の旅」

 クリストフ・プレガルディエン(テノール)

 アンドレアス・シュタイアー(フォルテピアノ)

 WPCS-5999 1997.9.25

 この「冬の旅」は、歌曲の王とも言われるシューベルトの歌曲のなかでも最高峰に位置するものなのだといえますが、「冬の旅」というと、好き嫌いは別として、なんといってもフィッシャー・ディスカウとジェラルド・ムーア(ロジャー・ムーアだと007になってしまうけど^^;)の名盤を思い浮かべてしまう人は多いと思います。つい最近もグラモフォンからその名盤中の名盤が発売されたようです。(POCG-50092)

 それが、このCDを聴いて、ぼくのなかでの「冬の旅」は、プレガルディエンとシュタイアーというふうに変わってしまいました。往年のフィッシャーディスカウの声は素晴らしいのですが、どうしてもどこかあえて演出過剰気味にしてしまう部分があって、バッハのカンタータなどでも、そういう側面が目立ってしまうこともあるのですが、このプレガルディエンの声の響きはその繊細さ、情感、強さなどすべてにおいて、ぼくなどのイメージをはるかに越えたもので、こんな演奏が可能なことに驚くくらいの素晴らしさです。

 このCDは、先日声楽家の友人のコンサートの手伝いをしていてその打ち上げの席で、素晴らしいと聴いたものですから、聴いてみたものですが、そのとおりの素晴らしさだったわけです。なぜその友人がすすめたのかも、聴いてみて納得がいきました。その「声」のあり方とでもいうものが、友人と通ずるところがあったからです。つまり、声は、「出す」のではなく、「来る」のだということ。声は口から発せられるのではなく、その場に流れ込んでくるのだということです。それは、シュタイナーが音楽体験について言っている音楽体験は耳で聴くというのではない、ということと通ずることかもしれません。

 さて、ここではこの「冬の旅」について、ノーツからそのテーマを紹介させていただくことにします。

自分の未来に死しかないとわかったときの絶望、それによって逆に生とはなにかを真剣に問う内省、それが<冬の旅>の出番を用意する。<水車小屋>とは反対に、この連作歌曲集は希望の挫折からはじまる。<水車小屋>の若者は愛を失って自らの命を断つが、<冬の旅>の若者は愛の喪失から自分の生きる意味を問いはじめる。彼はきびしい冬の寒さに身をさらすことによって(冬景色は愛の喪失の心象風景にほかならない)、はじめて他者への愛に目覚める。彼の旅は腕に磨きをかけるための修行の旅ではなく、愛とはなにかを心に問う、内面の旅に転調されてゆく。<冬の旅>の若者は楽しかった過去の思い出にいくども躓きながらも、足は前へ前へと前進してゆく。未来には苦難しか待っていないことを知りながら、彼はいつのまにか旅=生=愛の意味を問う求道者となっている。<冬の旅>はどんな境遇のなかにいても、いやそのなかに置かれればそれだけいっそう「愛」の意味に目覚める心のあり方を示している。

 

 

 

日本のうた 300、やすらぎの世界


(1997.11.28)

 

■米良美一=編「日本のうた300、やすらぎの世界」

 (講談社+α文庫/1997.11.20)

 音楽には「歌」がなければならない。そう思うようになった最初のきっかけが、友人の声楽家が、シューベルトとシューマンの歌曲を歌うのを聴いた体験であり、さらに、ゴルノスターエヴァがNHKテレビの番組でピアノのレッスンをしていたのを聴いて、音楽そのものに対する受け止め方がそれこそ根本から変容させられたのを経て、バッハのカンタータ、マタイ受難曲、ヨハネ受難曲でそれこそぶっとんだことから、「声」のそして「歌」について、今のようなとらえかたをするようになっています。ゴルノスターエヴァは、ピアノのレッスンではあったのですが、その魂の深みにまで迫る音楽に対する感受性の必要性は、どんな音楽にも、その根底に「歌」があるとの予感をぼくに感じさせるに充分でした。

 少し前に「風の本棚」と「風のトポスノート」でもご紹介しましたが、現代音楽の作曲家である細川俊夫もその著書で、「声」について次のように述べてました。

私は音楽のなかに、ひとつの「声」が聴こえてくることを待っている。

「声」といっても、人間の肉声のことではない。器楽やオーケストラ、そして人間の肉声を使った音楽を聴いても、もうひとつの声を聴きたいと願っている。もうひとつの「声」とは、日常どこにでもころがっている素材としての「声」のことではなくて、そういう音素材を通して、その聴覚の向こう側に響いてくる「声」のことである。

存在しているものの奥に流れているだろう声。存在の深い闇の彼方から響いてくる光の予感。それの聴こえてこない音楽は、たとえそれがどんなきれいな音を持っていたり、華麗な技術に覆われていたとしても、私は退屈してしまう。

それは単にバッハやベートーヴェンといった芸術音楽だけに聴こえてくるのではなく、世界のさまざまな文化圏の美しい民族音楽の背景からも聴こえてくる。

また私は、音楽だけではなく、文学や美術にもそういった「声」を求めているらしい。優れた文学を読んでいると、その作品の背後からもうひとつの「声」が聴こえてくることがある。それは言葉が犇めく言語空間のなかから垂直的に立ち上がってくるもので、私には「声」として名づけられないような流動的で音楽的な、ある状態なのである。(細川俊之「魂のランドスケープ」岩波書店/P2-3)

 さて、昨年の秋に、米良美一の日本歌曲の最初のCDが発売されたのですが、そのCDが発売になるまでは、米良美一といえば、バッハのカンタータというイメージをもっていたので、まさか・・・という感じもして、それまではあまり聴く気になれなかった日本歌曲なので、買おうかどうしようかけっこう迷ったあげく、かなり思いきって買っうことにしました。そしてこれが、ほんとうに素晴らしいものだったのです。米良美一の歌のなかでは、バッハのカンタータのものが最も気に入っているのですが、それはそれとして、米良美一の歌う日本の歌は格別なものでした。

 前置きが長くなりましたが、この本は、その米良美一の編により300の日本のうたが紹介されているもので、1曲1曲に、米良美一がそのうたに寄せた短い文章が添えられています。本屋さんでこの本を見つけたときには、かなり驚いたのですが、米良美一の文章が、まるでうたのような響きをもっているのと、そのなかでも、きちんと生きた思考が脈打っているのがわかり、まるで300曲が収録されている解説付のCDを買う感じで買ってしまいました。なかには、残念ながら(いやうれしいことに、かもしれないですね)ぼくの知らない曲も少しはありましたが、ほとんどの曲はなんらかのかたちで知っているものでしたし、それらの曲を米良美一はこんなふうに歌うんじゃないかな、とかイメージしながら読むのはなかなかうれしいものです。

それと、この米良美一のような素晴らしい歌手を育てるには、むしろシュタイナー教育のような、小さな頃には5音の音楽しか聴かせないとか、テレビを見せないようにするとかいうありかたは、だめなんじゃないかとも思いました。もちろん、基本的な方向性としては正しいと思うのですが、それはそれとして、もっと大事な体験が糧になることもあるのだということなのではないかということです。世の中で素晴らしく活躍している人を見ていると、シュタイナー教育でいうととんでもない育ち方をしている人のほうがむしろずっとずっと多いのではないかと思うのです。基本は基本としながらも、何がいったいいちばん大事なのかをしっかり見ていくことの大切さを考えていかなければならないように思います。

私は、物心ついたときから、いつも歌と共に生きてきたような気がします。三、四歳頃には、もう、当時の流行歌を周りの大人達のリクエストに応えて歌い、踊っていたという記憶があります。なぜでしょうか、私は、自分の歌や踊りに対する周囲の大人達の反応−−喜びや笑い、涙など−−に不思議なほどの魅力を感じていたのです。

歌や音楽が人の心に与える、魔法のような力に、幼いながら、魅了されていたのかもしれません。あるいは、自分の中の小さなナルシシズムが満たされる快感を感じていたのかもしれません。ともあれ、そんな幼少の頃の記憶が、現在の私の活動の源流なのだと思います。(略)

ジャンルにはこだわりません。そのときどき、自分の心が求めるものを歌いたいのです。事実、高校生になるまでは、クラシック音楽にそれほど興味がありませんでした。およそ私の周りにはクラシックに対する興味や知識を育む土壌がなかったのです。ですから、幼い私は、周囲の影響から、日本民謡や詩吟、演歌などを好んでいましたし、中学生の頃は、アイドルが歌うポップスなどに興味をもっていました。私が歌に求める“やすらぎ”や“癒し”はつねに形を変えて流れているように思えます。 (本書/P3-4)

 ぼくの周囲でも、高校生の頃、ラジオで朝のバロックという番組を聴くまで、クラシックというのは、学校の音楽の時間で、ヒステリックな音楽の先生が強要するものであり、給食の時間に放送で流されるものでしかなく、物心ついてから主にテレビから流れる歌謡曲、そして中学生の頃からは、ラジオから流れてくるポップやロックが、ぼくにとっては音楽でした。その後、大学時代には、ほとんどジャズ漬けの日々を送り、実際にクラシックを意識的に聞きはじめてからは、まだ10年ほどしか経っていません。

 しかし、ぼくのなかにある「歌」は、どんな音楽を聴いても、形を変えながら流れているような気がします。おそらくは、その原型のようなもののいくつかは、この「日本のうた300、やすらぎの世界」におさめられている曲なのではないか。本書は、そのわかりやすそうに見える内容とは別に、自分のなかの声の原型にもふれることのできるようなけっこうスリリングな体験も可能にするような本なのではないか、とか思いながら、懐かしい歌などを口ずさんでいるのでした。

 

 

 

BCG /バッハカンタータ全曲シリーズ5


(1997.12.2)

 

■バッハ:カンタータ全曲シリーズ5 KKCC-2251 (1997.11.21)

 鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン

 鈴木美登里、イングリット・シュミットヒューゼン(ソプラノ)

 米良美一(アルト/カウンターテナー)

 テノール(桜田亮)

 ペーター・コーイ(バス)

 

●収録曲/

・カンタータ第18番「あたかも雨や雪が天から下り」BWV18

・カンタータ第152番「出で立て、信仰の道に」BWV152

・カンタータ第155番「わが神よ、いつまで、ああいつまでか」BWV155

・カンタータ第161番「来たれ、汝甘き死の時よ」BWV161

・カンタータ第143番「主を賛美せよ、私の魂よ」BWV143

 恒例のバッハ・コレギウム・ジャパンのカンタータシリーズもこれで5枚目。リヒターのバッハ・カンタータもふくめ、バッハのカンタータを聴き始めて、そう長くはなく、ほんのわずか2年と少しにしかならないのだけれど、その間に、ぼくの「音楽体験」はかなり変わってしまったような気がする。その前に、友人の声楽家の影響もあり、それが少しずつ準備してきたものが、バッハ・カンタータを契機に一気に変容しはじめたのだろう。その2年の間には、米良美一体験とでもいえるショッキングな体験もあり^^;、声楽関連だけではなく、音楽全般に対して、いや音そのものの体験にまでその変化がでてきたようにも思う。

 それはともかく、今回の5枚目のカンタータシリーズは、バッハ・コレギウム・ジャパンのベストメンバーとでもいえる顔ぶれでとても気持ちよく聴くことができます。ペーター・コーイの迫力のあるバス、まるでトランペットのような高らかな響きに満ちた桜田亮のテノールが特に今回はたくさん聴くことができます。難を言えば、ソプラノの鈴木美登里が少し発音が不明瞭なのが残念といえばいえる。

 毎日のように聴いて、1週間が経つが、ほんとうにカンタータは飽きない。バッハの音楽が集約されているようで、聴く度に新たな発見に満ちている。チェロの鈴木秀美をはじめ、演奏の素晴らしさはもう文句なしだし、ただのきれいな音楽というのではなく、どこか聞こえない部分からの響きさえ感じとれるような気がしてしまう。9月に、神戸で生演奏を聴いたときの、チャペルのイメージや演奏風景のイメージからの影響もあるのかもしれないけれど。

 さて、今年はもう師走。各地で、バッハのクリスマス・オラトリオが演奏される。バッハコレギウムジャパンの演奏も、12月27日に近くであるので出かけようと思っていたら、仕事の都合で没。とてもくやしいのだけれど、仕方がない。

 

 

 

舟沢虫雄・蝉丸の為の音楽


(1997.12.20)

 舟沢虫雄さんのCD「蝉丸の為の音楽」と「否定の果て」が、通信販売でやっと届きました。残念ながら、「夜明け前双つ」は在庫切れで今回は買えませんでした。

 で、今、早速「蝉丸の為の音楽」を聴いているところです。(ライブで、感想を書かせてもらうことにします(^^))相棒は「ダサさのかけらもない音楽」だと横でとても喜んで聴いています。特に、最近、こういうハイパーな音楽を聴く機会が少なかったものですから^^;、特に、最初にCDから聞こえてきた音から、世界が一変した感じがしました。

 デヴィッド・シルヴィアン的なイメージがあったり、タルコフルキーを思わせたり、ベルリオーズの幻想交響曲のフレーズが連想できたり・・・いろんな映像がこちらに飛び込んでくるような・・・妙なカタルシスのある音の群たち。「歌うな」(「百物語」より)なんかかなり怖くて、なんだか、とてもすごいです。

 今かかっているのは、4曲目の「ここで待っていた」。どこか思い出の原型のようなノスタルジックなものを感じさせる坦々とした音の連鎖。なにかを思いだしかけているような、そしてそれがなんだったのか、思い出せないのだけれど、そこに帰っていくことで癒されるような、しかしそれはとても怖いことのような、半ば夢の陽炎のような世界。風が吹いているような夢のゆらぎのむこうで、呼んでいる人がいる。(相棒は、今、横で「よくこんな音楽がつくれるなぁ」と感心しています。「間の感覚や微妙な感情の襞のようなものが、ここまで表現できるなんて」と)

 5曲目の「蒼い火」。熱のない蒼い火のようなものが昇っているイメージ。耳がそこに吸い込まれていきそうな流れの向こうになにかが見えるような見えないような・・・。大きな竹の筒のなかの空洞のようなところに座って、からだ全体で音の蒼い炎に静かに包まれているような・・・。それは、蒼い火の波紋が空間に描き出す曼荼羅のようなものかもしれない。笙の内部の宇宙空間のようです。

 聴いているうちに、とても呼吸が楽になるのに気がつきました。以前「声の解放」のことを書いたことがありましたが、それに近いというか、解放される音だと思います。録音されたものの問題だとか電子音の問題だとかありますが、こうしてこのCDを聴いていると、そうしたことのもっと果てにあるなにかの可能性を感じさせられます。

 6曲目、「待ってます」。とても映像的なイメージが次第に迫ってくるようで・・・最初ちょっとこわい感じもしましたが、そのこわさに目をふさぐのではなく、それを少しずつ垣間みてしまうようなやさしさ、ユーモラスさのある音が続いていきます。(相棒は「ミノタウロウスの迷宮がSF的に宇宙空間を飛んでいるような」と申しております(^^)ラヴェルの「マ・メール・ロワ」の「美女と野獣」のイメージも・・・と)

 最後の「沈むのか」。水のなかに鐘が沈みながらそのなかで弦が響いているような、それとも耳もとで次元がゆれながらなにかを聴いているような、砂漠で風であおられて弦が砂といっしょに振動しているような、遠く遠くで蜃気楼のようなものが浮かぼうとしながら像を結ばないような、中央アジアのイメージもするような旋律がどこかでささやいているような、あれは馬の蹄の音だろうか、どこからどこに行くのだろうか、しだいしだいに空の彼方にだれかの大きな顔がのぞいてくるような、わたしがいまここにいることをたしかに見守っているのか、それともなにか秘密をもたらそうとしているのか、砂の地平線がみえながら陽が静かに沈んでいく・・・・。

 ・・・かなり凡庸なことを勝手に書いてしまいましたか、はは^^;。

 以上、ライブによる自分勝手な音楽鑑賞でした。もし、かなりいいかげんな鑑賞になっていたらごめんなさい>舟沢さん

 しかし、実際の舞踏を見たくなってしまったのは確かです。

 

 

 

パトリシア・カース


(1998.1.20)

 

■パトリシア・カース:ダン・マ・シェール

 (ESCA6298 97.3.26)

 パトリシア・カースの声に魅せられたのはあれはいつのことだったのだろう。最初の「マドモワゼル・シャントゥ」が1988年か89年頃のことだからもう10年も経っていることになる。

 これは、もう1年近くまえに出された4枚目のアルバムになるのだけれどCDショップで見つけたのはつい先日のこと。最近では、ポップスを聴く機会もめっきり減ってしまい、新譜情報にもそう関心がなくなってしまったので、こういうこともよくある。

 かつては、毎日ポップス、ロック漬けになっていた日々もあり、それに続いてジャズに浸っていた時代もあったのだけれど、魅力的なシンガーの不在や心の底まで響く音楽が見つからないのもあって、次第にそういう時代も過ぎてしまうことになった。

 このパトリシア・カースの声を最初に耳にしたのは、ぼくにとっては、そんな流行歌不在の一時期だったのだけれど、そのとき以来、2枚目の「セーヌ・ドゥ・ヴィ」、3枚目の「永遠に愛する人へ」と数年に一度だされるCDを聞くことになった。そして今回4枚目のアルバムになる。4年ぶりだそうだ。

 ぼくはフランス語よりもドイツ語のほうが少しはわかるし、どちらかといえばドイツ語のほうが好きなのだけれど、フランス語のポップスの一部はなぜかとても気に入っている。女性ボーカルだと、アンテナなどというのもBGM代わりにけっこう聞いた。特に、このパトリシア・カースの声にはなんともいえない魅力を感じる。

 最近は、バッハのカンタータなどやドイツ・リートなどを聴くことのほうがずっと多いのだけれど、こういう声や歌は捨てがたいと思う。やはり、ジャンルを超えて人の声は限りなく魅力的だと思う。そして、こういう声を聞いていると、自分の声がどうやったら魅力的になるかということなどをいろいろ考えてしまう。

 魅力的な声をもっともっとたくさん聴きたいと思う。ジャンルを問わず、心のそこにまで貫き響く声が。

  

 

 

中沢新一・山本容子 /音楽のつつましい願い


(1998.1.21)

 

■中沢新一・山本容子「音楽のつつましい願い」

 (筑摩書房/1998.1.17)

 ここには、ささやかだけれど、ささやかだからこそ美しく語られる「前奏曲」のような音楽が響きわたっている。だから、これは「本棚」でなくて、「音楽室」で読まれるべき音楽なのだ。

 本書は、1997年10月完成のすみだトリフォニーホール壁画のために制作された山本容子氏による作曲家の肖像(22×36cm、ソフトグランド・エッチング、雁皮紙1996年制作当時グレーの描線を、1997年、赤(本書所収)・青の二色として発表)と、PR誌「ちくま」1996年9月号から1997年6月号に連載された中沢新一氏による同名エッセイとにより構成されています。

 ここに収められている11人の作曲家の肖像とエッセイは、まるで音楽をひととき楽しむような喜びで受け取ることのできる贈り物のようだ。ここに描かれている作曲家のうちの幾人かは、これまでぼくの知らずにいた作曲家だったのだけれど、こうした「肖像」から思い描く音楽は、ぼくのなかに確実に「音楽」の種を植え付けてくれたような気がしている。

 ここで紹介されているのは、次のような作曲家だ。(エッセイの標題から紹介する)

孔雀のような コダーイ・ゾルターン

ぎこちなさ エルネスト・ショーソン

人生のすべてではなく アレクサンドル・ボロディン

私は五千歳 アラム・ハチャトリアン

自由な霊の音楽 山田耕筰

疲労しないもの レオシュ・ヤナーチェク

ニーチェ的 フレデリック・ディーリアス

インテリアの秘密 ガブリエル・フォーレ

アステカの月 カルロス・チャペス

おとぎ話としての音楽 ミカロユス・チュルリョーニス

ねずみを取る男 フーゴー・ヴォルフ

 どの作曲家もとても魅力的に描き出されていて、早速とくにこれまで知らなかったか、名前だけで聴いたことのない作曲家の音楽を聴いてみようという衝動を感じながら読み進めることができた。

 さて、山本容子は、本の装幀で有名で、ぼくの思いつく最近のものでいえば、ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」やトルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出」、吉本ばななの「TUGUMI」、ミラン・クンデラの「笑いと忘却の書」なんかがある。

 その山本容子のエッチングと中沢新一の粋な文章とが描き出す世界は、とても贅沢で特別な時間を約束してくれる。とくに、音楽を楽しみたい午後などには最適かもしれない。

 中沢新一の言葉は、無邪気すぎる危うさをもっているのだけれど、こうした「前奏曲」のようなものは、その無邪気さゆえにか、とても気持ちよく楽しめるものだ。思想性が全面に出ず、感覚的なささやかさを大切にするだけにこうした表現にもっともその良さがでているような気がした。

 ちなみに、本書は、中沢新一が「フェリックス・ガタリの思い出に」捧げたものだ。ガタリは、とても気持ちの良い「前奏曲」のような人だったようだ。

 

 

 

絶対音感


(1998.2.19)

 

■最相葉月「絶対音感」(小学館/1998.3.10発行)

 「絶対音感」という言葉を知ったのは、特に音楽教育を受けたことがないからか、比較的最近のことだ。その言葉を知って以来どこかでそれが気になっていたからだろう、書店でこの「絶対音感」という題名が飛び込んできたときに、これは読まなくてはならないと思い、「第4回「週刊ポスト」「SAPIO」21世紀国際ノンフィクション大賞受賞作」という紹介もあって、(とはいっても、その賞を目にしたのは初めてだったのだけれど^^;)早速読み始めたところ、最後まで目が離せないスリリングな内容だった。

 「絶対音感」とはいったい何だろうか。この著者もその言葉を初めて知ったのは、1996年の冬のことらしい。それは、音楽界でもっとも権威があるとされる(らしい/初耳だけど^^;)「ニューグローブ音楽事典」には次のようにあるということだ。

ランダムに提示された音の名前、つまり音名がいえる能力。あるいは音名を提示されたときにその高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力である。

 なるほど、その能力が重要であることはよくわかる・・・が、というように著者の「絶対音感」をめぐる冒険の旅が始まる。というか、それがぼくにとっても非常によくわかるような仕方で丹念に、そしてさまざまな角度から、次第に「音楽とはいったい何か、音楽に感動するとはどういうことか」という本質的な方向に向かって検討され、深い余韻を残していく。

 音名がわかる能力を身につけさせようとする母親がいるらしい。そしてそれを3歳から6歳くらいまでに訓練すれば、かなりの確率でそれが身につくというのだ。だから、音楽教育ママは、わが子を「天才」にしようと狂奔する。そして子供はお母さんにほめられようと音名を覚えこもうとする。しかし、ドをドとして覚え込むことで、歌の歌えなくなってしまうことさえあるという。また、この絶対音感では「固定ド唱法」であるから、文部省で定められている「移動ド唱法」では歌えなくなる。ハ長調のドとト長調のドは異なっていてもドはドだというのが後者だけれど、絶対音感を教え込まれた子供にとってはそうはならない。

 もし仮に今、童謡の「蝶々」が流れてきたとしよう。それをどんな音程で歌ったとしても、「ソミミ・ファレレ・ドレミファソソソ……」と歌えば義務教育では正解である。たとえば、「蝶々」をカラオケで歌うとする。自分の声域に合わせて音程をコントロールできるつまみをどの位置にセットしても、「ソミミ・ファレレ・ドレミファソソソ……」と歌えば、それは誰もが自分の枠組みで楽曲を把握している、つまり、ドレミを階名として歌う移動ド唱法を無意識に行なっていることになるのだ。(略)しかし、絶対音感を固定ドで記憶した人は、こうした歌い方はなかなかできない。なぜなら、「蝶々」がどんな音程で流れてきたかによって音の名前が違うからである。カラオケのつまみをどこにセットしたかによって、歌う音名が変化する。(P148)

 この日本の絶対音感教育というのは、最近はじまったのではなく、戦前からはじまっていたようで、現在でも現役のピアニストで、少し前にもベートーベンのピアノソナタ全曲録音の何回目かに挑戦し世界各地での音楽コンクールの審査員にもなっている園田高弘の父が音楽教育のために導入しようとして苦闘したことがこの本で紹介されている。何事もそうなのだけれど、何かがいいと言われたら、馬鹿の一つ覚えというか、それに関連して必要なさまざまが切り捨てられ、純粋化されたものが教え込まれていくことになる^^;。砂糖でも塩でも米でも純粋なのが好きな日本人は、音感教育においても如何なき力を発揮していくことになる。

 これに関して面白い例が紹介されているので、それを。

第二次世界大戦時には、日本はドレミ…がイロハ音名、ハニホヘト……に変更される。ハニホヘトイロに#がついたら、パナマサタヤラ、フラットがついたら、ポノモソヨドルとなる。さらに戦後は、またドレミ…に変わる。

だが、このとき、専門教育=固定ド唱法、公教育=移動ド唱法というダブルバインドに行き場を失う子供たちが生まれることを誰も予測できなかったのだろうか。相手は乾いたスポンジのように与えられたものはなんでも吸収してしまう子どもだ。物心ついたときには手にしているのだから、そこに疑いを抱くこともないだろう。

事実、専門教育機関で固定ド唱法で楽譜を読み、歌を歌い、しかも絶対音感を身につけた子どもたちは、小学校でドレミが歌えなくなってしまったのである。ドレミを音高に対応した音名として認識していたにもかかわらず、学校では階名としてとらえなくてはいけないのである。(P152)

 パナマサタヤラとかポノモソヨドルとかいうと、どうも筒井康隆ばりになって思わず笑ってしまうけれど^^;これは決して笑い事ではない。

 これは「絶対音感教育」に限らず、ある意味で現代の学校で多かれ少なかれ行なわれていることなのだから。知的でさえない知識教育にはやくから晒されゲーム的に記憶させられ、それを覚え込んでいる子供たち。それに適応すればするほど、いずれダブルバインドに晒されることになる。つまり、いろんな意味で「歌えなくなってしま」うのである。

 話が本書からそれたので、もとに戻すと、著者は「絶対音感」そのものを批判しているわけではない。それを絶対視することに対して危惧を表明しているのである。音楽の世界では、絶対音感があるということは、重要な能力のひとつである。しかし、「能力のひとつ」なのであって、それが絶対ではないということだ。

 絶対音感とは特定の音の高さを認識し、音名というラベルを貼ることのできる能力であり、音楽創造を支える絶対の音感ではないことはすでに何度も述べた。だが、それがさまざまな能力に絡み合い、優れた表現として賛嘆された結果、初めて才能を支える一つの道具として浮かび上がるのではないだろうか。(P235)

 本書は、絶対音感をめぐる冒険だと言ったが、それは絶対音感教育を批判するためのものではないと思う。むしろ、音楽に感動するということはいったいどういうことなのだろうか、音楽表現を命をかけて行なっているともいえる演奏家は、指揮者は、いったい音楽で何をしようとしているのだろうか・・・。そうした問いかけにこそ本書の素晴らしいテーマがあるのではないかと思う。

 たとえば、本書の最後のほうで紹介されている五嶋みどりとその家族の話には、「音楽」ということをとらえるために深く考えさせられることが多くある。今まで五嶋みどりの演奏をきちんと聞いたことがなかったぼくも、その演奏を真剣に聴いてみたいと思ったし、その他の演奏家の演奏にしても、また新たな気持ちで聴いてみたいと思うようになった。

 本書のテーマは、おそらく「音楽とはいったい何なのだろう」という問いかけにこそあるように思う。そしてその試みに、ぼくは深く深く感動させられてしまった。おそらく本書は、そのものが姿を変えた音楽なのだろう。


 ■「風の音楽室3」トップに戻る

 ■風の音楽室メニューに戻る

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る