■福田進一:悲しき玩具〜吉松隆ギター作品集
COCO-80633/1997.8.21
福田進一、ギター、19世紀ギター/和谷泰扶、ハーモニカ
松永一文、2ndギター/吉松隆、ウィンド・チャイム
このCDがでたときからずっと気になっていて、友人の評でも「なかなかよかった」というので、聴いてみたいと思っていたのをやっと聴くことができたのがこれ。
吉松隆という作曲家の作品は全部とはいかないまでも、とても聴きやすいのもあって、これまでにもちらほら聴いていて、場合によってはその聴きやすさが仇になってというか、その叙情的な部分が上滑りしてしまうような印象もなきにしもあらず、という感じもあったのだけれど、今回のCDは福田進一のギターのせいか、その叙情性のところがうまく表現されているように思った。要するに、とっても気持ちよく聴くことができたということ。これからも何度も聴きたくなるだろうなということ。そして、むずかしい気持ちになる必要などまるでないということ(^^)。
そういえば、吉松隆の作品をはじめて聴いたのはたしか、山下和仁のギターによるも「天馬効果」だったと思う。それもなかなかよかった。ちょっと前にでた「プレアデス組曲」というピアノ小品集は、田部京子のピアノがいまひとつだったことも原因かもしれないが、けっこうすぐに飽きがきてしまった^^;。ひょっとしたら、ギターの作品のほうが得意なのかもしれない。(ほとんど勝手な憶測だけでものを言っているので、あてになりません^^;)
さて、吉松隆の「ノート」によれば
「本当にオモチャ箱をひっくり返したようなアルバムですね〜」と(少し苦笑しながら)微笑んでくれればこんなに嬉しいことはない
とあるけれど、ぼくの感想は、「苦笑なく微笑むことのできるアルバムですね〜」とでもいえるだろうか。たぶん、吉松隆のなかに住んでいるたくさんの心優しき小人の音楽師たちがわいわいがやがやと、とっても楽しみながらつくった曲なんだろう。それに、ギターもハモニカもとってもいい。たまにこういう音楽に出会うことのできる機会があれば、それまでぐっちゃぐっちゃになっていた心も、とてもリラックスして、そのうちにふふふとかいう感じで、微笑みさえもれてくるようになるのではないかと思う。
では、収められている「玩具」のメニューをご紹介しておきたい。
1.ストリート・ダンサー
2.古風なる樹の歌
3.ベルベット・ワルツ
4.夏:8月の歪んだワルツ
5.木漏れ陽のロマンス
アラウンド・ザ・ラウンド・グラウンド(委嘱新作)
6.I-Ostinato
7.II-Canticle
8.ペンギン公園の午後
9.朝の歌
10.水色のアリオーソ
11.夕暮れの天使たち
12.ノクターン
13.秋:11月の夢の歌
14.リムセ
水色スカラー
15.I-Prelude
16.II-Intermezzo A
17.III-Dance
18.IV-Inrermezzo B
19.V-Rondo
20.L嬢の肖像
21.冬:子守歌
22.ヴィネット
23.アーノルド氏の肖像
24.春:5月の夢の歌
■コダーイ:交響曲、夏の夕べ、ハンガリー風ロンド
ヨンダーニ・バット指揮 フィルハーモニア管弦楽団
日本クラウン CRCB-80027 1997.12.17
コダーイの音楽は以前も少しは聴いたことがあったはずなのだけれど、ほとんど記憶に残っていませんでした。けれど、中沢新一&山本容子の「音楽のつつましい願い」(筑摩書房)を読んで以来、ずっと気になるようになっていました。手元にあった、FMの番組から録音してあった「マロシェセーク舞曲」(ジェルジ・レヘル/ブダペスト交響楽団)というのをあらためて見つけて聴いてみると、これがすごくいい。ということでCDショップを探してみたら見つかったのがこれ。最近日本クラウンからでているASV80000番シリーズのなかの1枚で、このシリーズのなかには、コダーイのほかに気になっているハチャトゥリアンなどのものもあって、なかなかユニークなシリーズになっています。
さて、コダーイについてはぼくと同じく不案内な方がいらっしゃると思うので上記の本のなかで紹介されているものから少しご紹介させていただきます。
コダーイ・ゾルターン(1882-1967)
ハンガリー国有鉄道に勤務する父とアマチュアのピアニストであった母との間に生まれたゾルターン少年は、転勤を重ねる父とともに、ハンガリーやチェコスロバキア各地を転々とするうちに、この地方特有の民謡やジプシー音楽に、深い影響を受ける。大学では哲学と作曲を学んだ。今世紀のはじめ、ハンガリーに高揚した民族主義の運動につき動かされながら、盟友バルトークとともに、ハンガリー・ルーマニアの各地に、忍耐強く組織的な民謡調査を開始した。作曲家としてのコダーイは、ドビュッシーの音楽に深い影響を受けつつ、ハンガリーの民俗音楽の現代における創造的な開花をめざす、ユニークな作品を生み出した。コダーイの作品は、バルトークのような前衛さはないが、ハンガリーの平原を吹き渡る春の風のような、優しさと深さにあふれている。
上記の紹介のようにコダーイは民謡の研究といった側面の方が注目されている。そのためか、その真価がなかなか評価されない傾向にあるらしい。しかし、このCDのライナー・ノーツ(諸石幸生)に次のようにあるように、コダーイの音楽はもっと評価されてよいのではないかと思う。
バルトークと同じく創造性豊かな作曲活動を繰り広げ、バルトークですらもコダーイを「豊かな旋律的創意と完璧な形式感、メランコリーと移ろいやすさを愛する作曲家」と語り、尊敬を惜しまなかったにもかかわらず、今日のコンサート・ステージにおいて取り上げられるコダーイの作品は特定の名作のみに限定されており、私たちはコダーイの一面のみを愛してきたように思われる。ここで聴く交響曲はそうした狭い認識を覆すに足るコダーイ畢生の力作であり、知られざる作品を情熱的に取り上げてきたヨンダーニ・バットならではのこだわりと使命感を感じさせる録音となっている。
ここで少し中沢新一が「音楽」に求めた「つつましさ」について少し。
「音楽のつつましい願い」には次のようにある。
いっさいの空間現象のマトリックスではあっても、いまだに空間そのものをつくりだすことのない、あの中間領域にとどまりつづけて、自分を拡がりとして、空間に刻み込もうとはしないのが、音楽にそなわった美徳の源泉だ。だから音楽そのものは、エゴへの執着に対する解毒剤の効果を発揮する。つまり、音楽はそもそも、つつましさへ向かおうとする美徳を内在させた芸術なのだ。
中沢氏は、戯れを生成する戯れのままで受け取ろうとする「つつましさ」をとても好んでいて、近代的なものへのアンチを表明することが多い。つまり、民族的なものや妖精的なものへの回帰を詠うのが好きなのだ。そうした趣味はある意味ではとてもよくわかるものなのだけれど、音楽を「エゴへの執着に対する解毒剤」のようにとらえるのはどうだろう。むしろ、「エゴを突き抜けていく戯れ」とでもいえる部分をこそ「美徳」とすべきではないかとも思う。
それは、次のような細川俊夫の言葉に表現されているようなとらえ方だ。
私は音楽のなかに、ひとつの「声」が聴こえてくることを待っている。
「声」といっても、人間の肉声のことではない。器楽やオーケストラ、そして人間の肉声を使った音楽を聴いても、もうひとつの声を聴きたいと願っている。もうひとつの「声」とは、日常どこにでもころがっている素材としての「声」のことではなくて、そういう音素材を通して、その聴覚の向こう側に響いてくる「声」のことである。
存在しているものの奥に流れているだろう声。存在の深い闇の彼方から響いてくる光の予感。それの聴こえてこない音楽は、たとえそれがどんなきれいな音を持っていたり、華麗な技術に覆われていたとしても、私は退屈してしまう。
それは単にバッハやベートーヴェンといった芸術音楽だけに聴こえてくるのではなく、世界のさまざまな文化圏の美しい民族音楽の背景からも聴こえてくる。
また私は、音楽だけではなく、文学や美術にもそういった「声」を求めているらしい。優れた文学を読んでいると、その作品の背後からもうひとつの「声」が聴こえてくることがある。それは言葉が犇めく言語空間のなかから垂直的に立ち上がってくるもので、私には「声」として名づけられないような流動的で音楽的な、ある状態なのである。
(細川俊之「魂のランドスケープ」岩波書店/P2-3)
コダーイの音楽も、民族音楽的なあり方を通してその彼方から背景から、確かに聴こえてくる「声」があります。つつましさやささやかさもひとつの表現だし、壮大さや芸術性もひとつの表現ですが、大事なのはそういう窓口というか表現形式や素材なのではなくて、その向こうから聴こえてくる「声」なのではないかと思います。
その「声」が聴きたくて、今回はコダーイを聴いてみたわけですが、そこからは確かに「声」が聴こえてきたように感じることができたのです(^^)。
ぼくはおそらくそうした「声」が聴きたさに、いろんな音楽や書籍などを渉猟しているのかもしれませんし、こうして日々いろいろなことを書き付けているのも、こうした自分との対話ともいえることを通じて、たとえ余韻のようなものであっても、自分のなかに眠っている「声」を聴くことができるのではないかと思っているのかもしれません。
■ベートーヴェン:チェロ・ソナタ第1番・第2番&変奏曲
ピアノとチェロのために作品全集I
鈴木秀美(チェロ)&小島芳子(フォルテピアノ)
BMG ドイツ・ハルモニア・ムンディ BVCD-628 1998.1.21
笑うベートーヴェン」というのは、このCDのライナー・ノーツのタイトルでそれを鈴木秀美じしんが書いているものだ。
私達の中には、ベートーヴェンというと何かいつも固くて深刻、真面目という先入観がありがちで、時には軽くなってはならないというタブーのようなものさえ感じられる。しかし彼も人間、そしてドイツ人なのだからビールを飲み腹を抱えて笑ったこともあったに違いない。私はこれら初期の作品から感じる強い力は、一種笑いのエネルギーのような、ポジティヴな活力なのだと思っている。(略)
今回の録音で、彼の爆発するようなエネルギーが表現でき、これらの曲の初演時同様に新鮮であり得たならば、こんなに嬉しいことはない。
鈴木秀美(チェロ)&小島芳子(フォルテピアノ)によるアルバムは、シューベルトのアルペジオーネ・ソナタとベートーヴェンのチェロ・ソナタ第三番が収められたものが既にでていて、それもこの「風の音楽室」で紹介したことがあるのだけれど、そのアルバムも素晴らしいものだったが、今回のものも、また格別だ。まさに、「笑うベートーヴェン」。
この楽しさはどうだろう。音楽はかくも楽しく聴けるものだったのだ。まるで生まれてきたばかりの音のように、はじけるような、そして初々しいまでの演奏。
ぼくはクラシックを聴きはじめて日が浅いのと音楽に対する理解が浅いのとで、ベートーヴェンの音楽に感嘆するようになったのも最近のことなのだけれど、この楽しさもまさにベートーヴェンなのだと思う。あのピアノ・ソナタ第32番の高みもベートーヴェンならば、このはじけるようなエネルギーもまたベートーヴェンなのだ。
こうした音楽を聴くと、ほんとうに元気になる。元気になる音楽はいい。しかも、この良質の音楽演奏は、魂を浄化させてくれる。鈴木秀美のチェロの音はぼくの魂の流れそのものとなって流れ、小島芳子のフォルテピアノは、ぼくの魂の歌となって語られる。とても幸せでかけがえのない1枚だ。
収められている曲は以下の通り。
ベートーヴェン ピアノとチェロのための作品全集I
・チェロ・ソナタ第1番ヘ長調
・ヘンデル:オラトリオ「マカベウスのユダ」の主題による12の変奏曲ト長調
・モーツァルト:歌劇「魔笛」の主題(「恋を知るほどの殿方には」)による
7つの変奏曲変ホ長調
・チェロ・ソナタ第2番ト短調
・モーツァルト:歌劇「魔笛」の主題(「可愛い娘か女房がいれば」)による
12の変奏曲ヘ長調
■シュッツ・十字架上のイエスの7つの言葉
タウノ・サトマー指揮、カンドミノ合唱団
FINLANDIA WPCS-6231 1998.2.25
シュッツ(1585-1672)は、バッハの1世紀ほどまえの作曲家で、「ドイツ音楽の父」と讃えられていて、聴いていると、バッハのカンタータの原型がここにあるのだなというのがわかります。
実は、鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンの新譜にこのCDにも収められている「十字架上のイエスの7つの言葉」を含んだシュッツの作品があるのですが、残念ながら日本では発売されず、輸入ものでしか手に入りません。今注文しているのだけれど、田舎のこと、まだ手に入れてないので、これについては聴いてからご紹介させていただこうかと思っています。
さて、今回ご紹介するのは、フィンランドの実力派合唱団である「カントドミノ合唱団」がシュッツの代表的な合唱曲を収録したアンソロジーになっています。
シュッツは87歳まで生きていて、現存する作品も500曲ほどあり、その約60年間ほどに渡る作品のなかから、このCDでは次の8曲がシュッツの生涯の各時期からバランスよく選ばれているということですので、シュッツというのはどんな作品をのこした人なのかと興味のある方には格好のアルバムなのではないかと思います。しかも、なかなかいい演奏になっています。
1.わが魂よ、主を讃えよ SWV39
2.神殿での十二歳のイエス SWV401
3.あなたの家は何と愛らしいことか SWV29
4.十字架上のイエス・キリストの七つの言葉 SWV3478
5.かくも神は世を愛して SWV380
6.復活祭のための対話曲:
女よ、あなたは何故泣いているのか SWV443
7.ドイツ語によるマニフィカト SWV489
8.これはまことに確かな真実である SWV388
ぼくもシュッツを知ったのは、バッハのカンタータを聴くようになってその流れのなかで興味をひかれて聴くようになったのですが、実際、シュッツの音楽を聴こうとしてもあまりCDがでてなくて、やっと見つけたのが、ARCHIVからでている
●ジョン・エリオット・ガーディナー指揮、イングリッシュ・ソロイスツ、モンテヴェルディ合唱団他によるシュッツ:音楽による葬儀 (POCA 2548)
で、これがなかなか良かったので、その後、輸入版などを探したり、ちょうど1年ほど前にでた、ポール・ヒリアー/タピオラ室内合唱団による
●シュッツ:白鳥の歌(全曲) WPCS-5565/6
などの素晴らしい演奏を聴いたりもするようになったところでした。この2枚は、オススメです。
で、少し前に、バッハ・コレギウム・ジャパンのシュッツが出たと知り、ちょうど折良く今回ご紹介するCDも発売されたということです。シュッツの音楽は、決して派手なところはないのですが、バッハのカンタータを水墨画にしたような味わいがあり(変な喩ですが)その淡々とした響きは空間に静かに美しく渡っていきます。それが心をすっと静めてくれるのがなかなかいいのです。しかもただ静かだというのではなくて、その淡々としたなかに、深い力が込められていて、それだけに感動は深いものになります。
今日(3月8日)は、高知市内まで、知人の演奏するバッハのカンタータを聴きにでかけてきました。「高知バッハカンタータフェライン 第1回講演会」で、場所は、高知県立美術館ホール。
この「高知バッハカンタータフェライン」の指揮兼バスをされている小原浄二さんは、以前バッハ・コレギウム・ジャパンのコーラスマスターでもあり、また自身バスのソロをされていた方で、今は高知大学の助教授をされています。この方とは、昨年、こちら(松山)での友人のコンサートに出演したとき、チラシやプログラム、チケットの制作や当日の照明などの手伝いをした関係で知り合って、今回も、チラシやプログラム、チケットの制作のお手伝いをさせていただきました。
今回のプログラムは、
●バッハ カンタータ第61番BWV61
「いざ来ませ、異邦人の救い主よ」
●バッハ カンタータ第211番BWV211
「お静かに、おしゃべりしないで」(コーヒーカンタータ)
●バッハ カンタータ第182番BWV182
「天の王よ、汝を迎えまつらん」
というものだったのですが、さすがご自身が声楽家なのもあって、その指導による合唱の素晴らしさは群をぬいていたのではないかと思います。もちろん、合唱の参加者のほどんとは、まったくのアマチュアの方なのですが、思わず感涙してしまうほどの素晴らしい響きがつくりだされていました。しかも、指揮をしながら2曲目と3曲目は、バスのソロをつとめられているということで、さぞかしお疲れだったことだろうと察しながらも(以前お会いしたときよりすっかり痩せてたので^^;)そういうことを忘れさせてくれるほどの熱の入った演奏が楽しめました。
で、ここで言いたいことは、そういうことではなくて、やはり、バッハのカンタータの素晴らしさということです。ぼくは正直いっていわゆる「合唱」というのにあまり良い印象をもっていなくて、どちらかというと敬遠してさえいるところがあるのですが、バッハのカンタータだけは、ぼくにとってはまったく別の世界のように感じるのです。
バッハのカンタータには、音楽のあらゆる要素が含まれていて、それがただ調和しているというのではなく、それが高次の意味で統合されているのではないかと思います。だから、何度繰り返し聴いても新鮮な感動を味わえますし、異なった演奏家のものを聴けば、またそこで新たな感動に出会える。他の曲でもその可能性はあるのはもちろんなのですが、バッハのカンタータはやはりひと味違う気がします。
・・・とまあ、音楽の素人のミーハー的な発言になってしまっていますが^^;、ここで、少しシュタイナーに関連させていえば、バッハのカンタータを聴くと、シュタイナーのいうキリスト衝動を深いところから体験できるというところがあります。実際、シュタイナーのキリストについての観点を理解しながら、バッハのカンタータを体験するときの感動をどう表現すればいいのでしょうか。キリスト衝動が深い音楽体験として可能になっている稀有な例がバッハのカンタータなのではないかと思います。もちろん、キリスト教系の宗教音楽は夥しくあるわけなのですが、その総合力、高みにおいてバッハのカンタータほどのものはない(少なくともぼくのこれまで聴いたなかでは、ですが)と思うのです。
なんだか言葉にすると、陳腐になってしまうので、このくらいにして^^;、今回のコンサートで興味深かったひとつは、コンサートマスター。現在、高知大学の人文学部に在学中ということで、今回は、テノールの合唱と、リコーダーを担当。フルート奏者でもあり、現在は、カウンターテナーの勉強もされているとか。リコーダーの演奏もなかなか素晴らしかったのですけど、自身が声楽の勉強もされているという姿勢はとても素晴らしいですよね。そういえば、ソプラノソロをされている方も、現在高知大学に在学中で、声楽と同時にピアノ演奏もされているということなのですが、そういう姿勢というのは、とても大事なのではないかという気がしました。
話が少しとびますが、シュタイナーがよく誤解される原因になったのが、シュタイナーがひとつのものだけに偏った姿勢をとらないということでした。唯物論者からは神秘主義者のように言われ、宗教者からは唯物論者のように言われ、あらゆる分野に渡ることに深くその探究を広げていたことが、特定の分野しか射程にない人間にとっては、節操のない無責任なことのようにとられがちだったということです。
しかし、何事も特定のものだけ切り離して見ることこそ、現代においては克服されていかなければならないものだと思います。たとえば、医者などにかかるとわかりますが、内臓が悪いとすれば、その特定の器官だけを見てそこだけに原因を見つけだそうとします。だから、各専門ごとが連携した総合判断というのがありえなくなっているのです。単純に考えても、そんな馬鹿げたことはないはずなのに、学問的にはそれぞれの専門分野を越えてはならないというところがあって、いくら馬鹿げたことであっても、部分が部分だけで判断されてしまうわけです。
話が「音楽室」から離れてしまっていますので、最後に話を戻して・・・、どんな音楽でも、やはり、その聴く「耳」を狭くしてしまったらそこから受けるものも限定されてしまうことになりますし、演奏者にしても、その幅を狭く限定してしまったら、やはりそれは演奏そのものに反映されてくるのではないかと思います。
それは、音楽に限らずあらゆることについてあてはまることのように思います。宮沢賢治のような「アラユルコトヲ ジブンヲカンヂャウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」の「ジブンヲカンヂャウニ入レズニ」を「ジブンヲカンヂャウニ入レテ」に代え、「アラユルコトヲ ジブンヲカンヂャウニ入レテ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」とすること。まさに、それが神秘学なのではないかとぼくは思っています。
なんだか、支離滅裂な話になってしまいましたが^^;、今日は少し遠出をしたけど、いい音楽を聴けて、いろんなことを感じ、考えることができて有意義な一日だったという話でした(^^)。
■鈴木雅明指揮
バッハ・コレギウム・ジャパン
カンタータ全曲シリーズVol.6
バッハ/教会カンタータ〜ヴァイマール4〜
CD-851 BIS
バッハ・コレギウム・ジャパンの待望のバッハ・カンタータ全曲シリーズの6枚目が発売された。といっても、それはBISからの輸入盤で、日本語付のものは夏まで待たなければならないとか。
今回は、残念ながら、アルトのソロのパートがないので、カウンターテナーの米良美一の声が聴けない。合唱のアルトのパートには参加しているのだけど・・・。
ソリストは、ソプラノがモニカ・フリンマー、テノールがゲルト・テュルク、そしてバスがペーター・コーイです。収録されているのは、次の曲。
■Cantata No.31. Der Himmel lacht,die Erde jubiliert. BWV31
(天は笑い、地は歓喜する)
■Cantata No.21. Ich hatte viel Bekuemmernis. BWV21
(私は深く憂えた)
■Alternative Movements,BWV21
個人的にいえば、テノールは桜田氏が好みだし、ソプラノももう少しきんきらしていないのが好きなのだけれど、そういうことは別として、BCJのバッハ・カンタータ演奏は素晴らしい。
しかし、前回の風の音楽室で、知人のバッハ・カンタータの演奏会に出かけたすぐ後なので特に思うのだけれど、やはり生演奏はすばらしい。特にその演奏の合唱が特にバスの力強さがでていて、その部分はむしろBCJの合唱よりも個人的に気に入っているからかもしれないがやはり、生演奏の迫力は、あのバッハの音楽がそのまま胸の奥を直撃する感じで、かけがえのない体験だと思う。
昨年は、念願のBCJの演奏会に神戸まで出かけて聴くことができたけれど、今年も一度は生で聴く機会を持ちたいと思う。
ちなみに、BCJのホームページ http://www2s.biglobe.ne.jp/~bcj/で、CD発売の情報収集などができる。
■イリーナ・メジューエワ(ピアノ)
<鏡>〜ラヴェル、ショパン&スクリャービン
DENOB COCO80785 1998.2.21
ずっと以前、メジューエワのメンデルスゾーン作品集をご紹介したことがあるのですが、これはそれに続くアルバムで、もう、なんといえばいいのか、今年のナンバー1アルバムが誕生したとでもいえる素晴らしい演奏がおさめられています。
このメジューエワは1975年7月生まれといいますから、まだ23歳。これほどの音色の美しさと美しさに流されない確かさをもちながら、なんともいえない間とあらゆる感情の襞を表現できるような音楽を演奏できるとは、やはりロシアの伝統のなかに育まれたからこそ可能になったのかもしれないとか、いろいろ想像しています。
対象のない音の連鎖が、対象がないがゆえに、不思議な触覚でふれてきます。メジューエワのつくりだす音は、天上に舞い上がるというのではなく、一度深く深く大地の底に降りていきながら、決して沈み込まず、大地の底に降りていくことがそのまま天の高みにいることになるようなそんな不思議な感覚を与えてくれます。そして、そこには確かな「歌」があります。米良美一の「声」からも響いてくるような「歌」。時代は、破局的な様相を呈しながらも、こういう「歌」を届けてくれてもいるのだということを深く深く感じさせられる音楽だといえます。
さて、収められているのは、次の曲です。
■ラヴェル
「鏡」
・蛾
・悲しき鳥
・洋上の小舟
・道化師の朝の歌
・鐘の谷
■ショパン
スケルツォ 第2番 変ロ短調 作品31
2つの夜想曲
・第1番 ヘ短調
・第2番 変ホ長調
■スクリャービン
ピアノ・ソナタ 第2番 嬰ト長調 作品19<幻想ソナタ>
余談ですが、このメジューエワ、最近結婚したそうで、それが、ぼくの知人の知人(もちろん、日本人)で、しかもぼくのいるところのにある高校出身らしい。世間は狭い。
ちなみに、今や超メジャーの諏訪内晶子さんも、チャイコフスキーコンクールで優勝するほんの数週間前、その上記の知人関係の紹介でごく内輪の少人数のコンサートに行くことができ、少しだけれど打ち上げの席でお話ができたりもした。世間は、ほんとうに狭い。
■井上陽水:九段
FOR LIFE FLCF-3711 1998.3.18
3年半ぶりの井上陽水オリジナルの新譜らしい。最近は、この手の新譜情報などに疎くなってしまって、たまたまラジオ番組で陽水がでていたのを笑いながら聴いていて、新譜が出ていたのを知った。
井上陽水は、最初のアルバムからずっと聴いている。ビートルズが解散してしばらくした頃からだ。あの頃は、深夜放送が本格的に始まったころで、毎晩遅くまでラジオにかじりつきながら過ごし、小遣いのなかからやっと買ったLPレコード、EPレコードを何十回も何十回もすり切れるまで聴いていた。パセリ、セージ、ローズマリー、タイムの名前をサイモンとガーファンクルの曲から覚えたり、ニーノ・ロータのつくる映画音楽に酔いしれたりしていた。ギルバート・オサリバンのアローン・アゲインやニルソンのウィザウトユーなどの名曲も最近はなぜかラジオでよく耳にするようになったが、その頃だ。
ポップミュージックを砂漠が水を吸い込むように聴いていた頃があり、その頃に身体に染み込んでしまっているような音楽がある。高校生のころのロックもそうだし、大学時代のジャズもそうだ。時代によって、それはそれぞれの質になるのだろうけど、音楽を聞きはじめた頃から活躍しているような井上陽水のような存在は、やはりおりにふれて今でも気になるものだ。今回もやはり誘惑には勝てず、聴きこんでしまうことになるだろう。
どうも流行りの音楽の多くがあまりにもつまらないものだから、そこらへんに疎くなってしまっていて、あまり聴く機会もなかったのだけれど、やはりいろんな意味で、流行の音楽というのは、時代の「アンダーグラウンド」と密接に関係しているわけだから、少しはそれを感じ取るべくいろいろ聴いたりもするようになった。先日も、仕事柄若者むけのコンサートの提案などもする必要があるので、ビジュアル系のバンドなどの音楽をいろいろきいてたりしたのだけれど、なんだか、苦行のようになってしまった。音楽は「砂漠が水を吸い込むように」聴くはずのものなのだけれど、どうも「水」とはいえないような音楽は・・・つらい^^;。たとえあまりにもパターン化した音楽だとしても、そこに時代の病さえ表現されていることを思えば、つらくても聴かなくては・・・というのも、ひとつの病気だなあ、と思う。
ところで、井上陽水のニューアルバムの「九段」の話だった^^;。しかし、この「九段」というタイトルはどういう意味だろうか。「九段の母」とかいうのの関連で、すべて母性原理が呑み込んでしまうような日本への警鐘だろうか、(なんだか、そういう意味付けをするのもダサイのだけれど)それとも猫がでてたから、その猫の名前だろうか・・・とかいろんなことを考えていたのだけれど、知っている人がいたら教えてください。
■映画「蓮如物語」テーマ曲 やしょめ (シングルCD KIDS 380)
1.やしょめ 唄:米良美一
2.やしょ(インストバージョン) ヴァイオリン:篠崎正嗣
3.やしょめ(カラオケバージョン)
指揮:コンスタンチン・D・クリメッツ
モスクワ・インターナショナル・シンフォニー・オーケストラ
「もののけ姫」に続き、漫画映画のテーマ曲を米良美一が唄っています。映画は、原作五木寛之の「蓮如物語」(角川文庫)によるもの。
この「やしょめ」という唄は、作詞は不詳、それを「蓮如物語」の音楽監督でもある小六禮次郎が作曲。おそらくは、ふるくから伝わっているであろう言葉の情感がとても自然に表現されていて、まるで昔から愛唱されてきているかのようです。米良美一の唄も、「もののけ姫」のときよりも、今回のもののほうが、ずっと合っているように思います。
聴いていると、胸のあたりからあたたかいものがこみあげてきて、悲しいわけではないのに、思わず涙があふれてきます。どこかに「浄土」が見えてくるからかもしれません。ぼくは、「救い」や「浄土」を求めるようなタイプではないのだけれど、法然や、親鸞、蓮如、そして一遍といった方々をとても近しく感じます。自力、他力といっても、じっさいのところ、その区別は、その入口にすぎないようにぼくは思っているのですが、ある意味では、むしろ、かぎりなく射程をひろくした上記の方々のほうが、自力をさえ変容させていくような力をそのなかに感じてしまいます。
・・・と、「やしょめ」を聴きながら、あれこれと思うわけでした。
さて、米良美一の新譜情報があります!4月24日、テレビ朝日系「みいファぷー」オープニングテーマ曲「うきうき・パラダイス」(シングルCD)が、5月22日「かれん」というアルバムCDが、KINGから発売予定。
■またまた・マザー・グース
和田誠・訳詞/櫻井順・作曲
TOCT-9767 97.3.19
米良美一出演のCDがあると少し前から知ってはいたのだけれど、ほんの少しだけの出演ということで、あえて取り寄せないでいたのが、偶然見つかったので、誘惑に勝てずに買ってしまいました^^;。
この「またまた・マザー・グース」の前には、「オフ・オフ・マザー・グース」というのがあって、今回のものはその続編とのことだけれど、それはまだ聴いてません。
この企画は、和田誠が「マザー・グース」という訳本をだしたのに、櫻井順が曲をつけて、それを前回も今回も、60人(組)のアーティストたちがCD制作に参加してくれたという豪華版。この「またまた・マザー・グース」のなかに参加されている60人(組)のアーティストたちのなかの一人が米良美一だということです。
しかし、よくもまあ、これだけたくさんの方々がノリで参加して、こういう楽しいCDをつくりあげたものだと、半ばあきれ、実の所、聴くにつれ、顔がほころんでしまったのでありました。ちょうど1年前に発売されたのだけれど、見つけて良かったと思います。なかには、初耳のアーティストのものもあって、なかなかのものでした。機会があれば、聴いて損はしないのでは。
では、収録曲と参加アーティストの数々をご紹介しておきます。これを見るだけでもなかなか楽しそうな雰囲気は伝わってくるのでは。前回のものはまだ見てないのですけど、今回とぜんぜんだぶってないということなので、どんな方が参加されているのか興味津々ですね。
1 かあさん鵞鳥/イヴェット・ジロー
2 ABC/西田ひかる
3 新年/植木等
4 皿洗い/ROLLY
5 外で遊ぼう/西田敏行
6 ジョージー・ポージー/宇崎竜童
7 どんぶらこっこ/橋爪功
8 パカパカ市場へ/中村美律子
9 望めば馬が/山本謙司
10 ジャックよ素早く/柴田智子
11 小川の魚/サンディー
12 豆のおかゆ/尾藤イサオ
13 赤ちゃんとわたし/夏木マリ
14 ごきげんいかが/上篠恒彦
15 蜂さん蜂さん/深津絵里
16 ロビンとリチャード/石丸幹二
17 とろとろちゃん/堺正章
18 一二三四/森公美子
19 風/加藤登紀子
20 ロビンソン・クルーソー/新小岩児童合唱団
21 からす/桃井かおり
22 ジョン・ボルデロ/米良美一
23 ジンジャー・ブレッド売り/松崎しげる
24 乗ろうよ木馬に/涼風真世
25 ロンドンの商人/小堺一機
26 ジョン・クック/あがた森魚
27 ピーター ピーター/イルカ
28 小さな星よ キラキラキラ/薬師丸ひろ子
29 月曜日の子ども/尾崎亜美
30 メリーと子羊/東京Qチャンネル
31 マフェット嬢ちゃん/八神純子
32 ぼくのめんどり/バースディスーツ
33 雄鹿は好きさ/鹿賀丈史
34 農園/EPO
35 ピーター・ホワイト/坂上二郎
36 かしこいふくろう/小林亜星
37 ハロウィーン/早見優
38 サリーよ踊れ/山本リンダ
39 怪しい男/団しん也
40 プロポーズ/小林薫
41 ハンナ・ハントリ/ブラインド・レモン・ブラザース
42 マッケイさん/川中美幸
43 姉さんとあたし/山下久美子
44 笛吹きジャック/木の実ナナ
45 お皿を洗え/KAZMI
46 はさみと糸/永六輔
47 近衛兵/渡辺えり子
48 馬鹿/林望
49 もし/中尾ミエ
50 独身男の嘆き/香田晋
51 まぬけなサイモン/松井常松
52 北風/ソロンゴ
53 近づいてくるクリスマス/小沢昭一
54 クリスマス/今陽子(ピンキー)とキラーズ
55 クリスマスの朝/川平慈英
56 寝床に/サーカス
57 眠れない/宮路オサム
58 ぼくのベッド/東星児童合唱団
59 何も言わずに/グラシエラ・スサーナ
60 恋人/コシミハル&高野寛