風の音楽室 6

1998.6.29-1999.5.17


 

●武久源造「ロマンティック・月」

●アンドレアス・ショル

●五嶋みどり「チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲」

●ショル・ J.S.バッハ:アルトのためのカンタータ

●バッハ「クリスマス・オラトリオ」

●ブックステフーデ:われらがイエスの四肢

●ジョン&ジュリアン・レノン

●細川俊夫作品集・音宇宙 VII「うつろひ・なぎ」

●アンドレアス・ショル「ドイツ・バロック・カンタータ集」

●レーナ・マリア「アメイジング・グレイス/聖歌・賛美歌」

 

 

 

風の音楽室

武久源造/ロマンティック・月


1998.6.29

 

■武久源造(パイプオルガン)「ロマンティック 月」KICS2246 1998.6.25

 コスモ・サウンド:鈴木松美/プロデュース:三枝成彰

 ぼくは、武久源造さんの大ファンで、新譜となるとやはりどうしても聴かないわけにはいきません。これまでの武久源造さんのだされていたCDでは、チェンバロ、ハープシコード、パイプオルガンなどでバッハやバロックなどのものを中心に演奏されたものが多かったのですが、今回のアルバムは、これまでとは少しばかり違ったコンセプトで、大半が即興で演奏されたものだということです。

 そしてそれに、「コスモ・サウンド」という、「星からのミリ波、サブミリ波に注目し、その電磁波を受信し、電気的な処理を施し、音に変換してみた」ものを加えたものとなっているようです。

 プロデュースが三枝成彰ということで、個人的には、どうかな・・・という危惧もあったのですけど(^^;)、今回の企画は、「天体の音楽」というコンセプトのもとに、この武久源造+鈴木松美の「ロマンティック 月」のほかに、パーカッションの吉原すみれ(コラボレート/石川洋光)、サックスの斉藤晴(コラボレート/野村司憲)、ギターの直居隆雄(コラボレート/田垣内孝治)、シンセサイザーの長谷川英郎(コラボレート/佐藤直樹)、という全部で5枚のシリーズになっていて、吉原すみれさんなんかのものもあるのだったら、やっぱり面白そうだということで、早速聴いてみることにしました。タイトルが「月」ということなので、こういうアルバムは車のなかで聴くというのではなく、やはり、静かに夜、月を眺めながら静かに聴くのがいいようです。そうすると、おそらく月にいる存在たちの放つ声がどこからとなく聴こえてくるはずです。

 武久源造さん自身のコメントもノーツにありますので、それをご紹介しておきます。

 パイプ・オルガン、それは楽器というよりは一つの場、音の海、音の森、音の宇宙である。私は<月の音>に答えて、光、風、波、そして目に見えないものへのファンタジーを表現しようとした。キューブ・ホールの響き、大林オルガンのユニークな設計、特にロマンティックな音色は私の心を虜にした。これは大半、即興演奏であり、録音後の編集操作は加えていない。115の音栓(鐘と音を含む)を駆使した音の絵巻物を、ライブ感覚でお楽しみ下さい。

 収められているのは、次の12曲。 

1.半月・むかしむかしあるところに

2.水平線のかなたに

3.星たちのたわむれ

4.三日月・雲のいたずら

5.眠らない夜に

6.月の光

7.月に祈る子ども

8.宇宙にさまよう

9.蜃気楼

10.宇宙再生

11.満月・月でお祭り

12.さようならお月さま

 

 

 

風の音楽室

アンドレアス・ショル


1998.8.26

 

■VIVALDI Stabat Mater

  ANDREAS SCHOLL(カウンターテナー)

  ENSEMBLE 415

  CHIARA BANCHINI(指揮)

 harmonia mundi HMX 2901571 1998

 友人から、同じものを二枚間違って買ってしまったからと先日このアルバムをもらった。ヴィヴァルディの声楽ものというのは、聴いたことがなかったのでふんふん、ヴィヴァルディのスターバト・マーテルかぁ、どうかなと思いながら聴いてみると、これがなかなかのもの。

 演奏も素晴らしく、とくにカウンターテナーのアンドレアス・ショルが素晴らしい。素晴らしすぎる。カウンターテナーといえば、米良美一ばかり聴いていたのだけれど、それにBCJのテナーの桜田亮をプラスしたような声で、しかも一糸乱れぬ音程で透明な声を聴かせてくれる。聴きながら思い出したのが、オーソン・スコットカードの「ソングマスター」にでてくるソングバードのこと。なんだか、夢にでてくるような声に、ひさびさ酔いしれてしまった。

 カウンターテナーといえば、いぜん「カストラート」という映画があってちょうど東京に出張しているときに映画館でやっていたので見た際にウル(UR)という雑誌の「カストラート/カウンターテナー」というのを買い求めたことがあるので、そのなかを探してみると、アンドレアス・ショルの名前もあった。次のように紹介されている。 

ドイツのカウンターテナー。幼少期よりキートリッヒ聖歌隊で歌い、87〜93年まで、バーゼルでヤーコプスの生徒であった。94年に26歳というから、生年は1968年か69年であろう(今回取り上げたカウンターテナーのなかでもいちばん若い)。学生の頃からすでにコンチェルト・ヴォカーレをはじめとした多くの録音やコンサートに参加している。ヤーコプスが自分の後継者と言ったとかいう話もあるが、気品のある演奏をする、たいへん優秀な歌手である。のびやかな澄んだ声の持ち主で、オペラよりはむしろ宗教曲のソロにふさわしいカウンターテナーだと言えるかもしれない。マイケル・チャンスに似たタイプだ。

 カウンターテナーの世界も、どんど広がりがでているようで、今後、どんな名演が聴けるかと思うと、とても楽しみ。

 とにかく、この夏、いや秋のオススメ版。輸入盤だけれど、友人は名古屋のCDショップで買ったようだし、二枚買ってしまえるくらいだから、比較的手に入りやすいのだろうと思う。

 

 

 

風の音楽室

五嶋みどり「チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲」


1998.10.4

 

■五嶋みどり(ヴァイオリン)

 チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲二長調作品35

 ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第一番イ短調作品99

 クラウディオ・アバド指揮

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

 1998.8.21 SONY RECORDS/SRCR-2259

 少し前に「聞こえない音に耳をすます」ということでこの「風の音楽室」で五嶋みどりについて書いたことがあるのですが、この最新のCDは、そのことを深く感じとることのできる演奏です。

 こういう演奏を聴くと、聴きながらなにかが自然に開かれてゆく。そんな体験のなかにいる自分を発見することができます。

 必要以上に鳴らされることのない音。ゆっくりとしたテンポでひかれる旋律。それがこちらの内にひろがっている静寂のなかで共鳴しながら深い歌となってひろがっていきます。そこにはおそらく聴いている以上の何かが働いていてそれがぼくのなかのなにかを解放してくれるような気がします。

 それはもちろん、どんな激しい躍動のなかでも失われず、むしろ心地よいリズムのなかで、また別のぼくの内なる歌を引き出してくれるようです。

 一糸乱れぬ演奏がただの機械でしかないような音楽があります。そういう演奏はどんなに素晴らしい超絶技巧であっても、それを聴くことで解放されるどころか、呪縛作用さえありすっかり疲れてしまいます。

 五嶋みどりの演奏は、一糸乱れぬ演奏でありながら、その音のひとつひとつが器のように静かに響き歌いながらしかも冗長にならず、限りないやさしさで包み込むように奏でられます。

 こういう演奏を聴いていると、ぼく自身がこうして使っている言葉やふだん話している言葉についても考えさせられます。この言葉は、内なる歌をもっているだろうか。そこに深い静寂と沈黙の湖をもっているだろうか。冗長にならないやさしさで包み込む響きをもっているだろうか。もちろんそういう言葉を実際に使うことはできないのですがそういう言葉をもちたいと深く願わずにはいられなくなるのです。

 

 

 

風の音楽室

ショル・ J.S.バッハ:アルトのためのカンタータ


1998.11.2

 少し前に、アンドレアス・ショル(カウンターテナー)のスターバト・マーテル(ヴィヴァルディ)をご紹介しましたが、その後、このショルの声の素晴らしさをもっと味わいたいとこれまでに出ているCDなどを漁ってみたところ、次の2枚を発見しました。 

■ドイツ・バロック歌曲集

 アンドレアス・ショル(カウンターテナー)ほか

 KKCC-310 95.6.21 

■我が涙よ、あふれよ〜17世紀イギリスの民謡とリュート・ソング

 アンドレアス・ショル(カウンターテナー)

 アンドレアス・マルティン(リュート)

 KKCC-367 96.12.21

 ショルは、1995年6月に出たこの「ドイツ・バロック歌曲集」でカウンターテナーの新星として実質的にデビューということで、その次の年にでたのが、「我が涙よ、あふれよ」です。

 で、今回発売になったのがこの「J.S.バッハ:アルトのためのカンタータ」。

 

■J.S.バッハ:アルトのためのカンタータ

 アンドレアス・ショル(カウンターテナー)

 フィリップ・ヘレヴェッヘ指揮コレギウム・ヴォカーレ

 KKCC-408 98.10.23

 カウンター・テナーも昨年の「もののけ姫」で話題になった米良美一以来かなりポピュラーになってきたようですし、バッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハのカンタータ演奏で聴かせてくれる米良美一の声もなかなかのものなのですけど、カウンター・テナーをいろいろ聴き比べてみるのもなかなか楽しいものです。

 アンドレアス・ショルも米良美一もどちらもすばらしい声と演奏なのですけどやはりそれぞれに持ち味とでもいうべきものがあって、米良美一が日本歌曲などでも充分堪能させてくれるような「毒」とでもいうようなものを感じさせてくれるのに対して、アンドレアス・ショルは、そういう「毒」の部分のまったくないぬけるような美しさと透明さ、そして完璧な技術が特色です。

 聴き比べでいうと、ちょうど今回発売になったJ.S.バッハ:アルトのためのカンタータをバッハ・コレギウム・ジャパンによるバッハのカンタータをくらべてみるという聴き方もありますし、米良美一の日本歌曲(ちょうど、すさまじいジャケットで悪ノリ気味の(^^;)「この道」(KICC-260)がでていますけど)と上記の17世紀イギリスの民謡とリュート・ソングとをくらべてみることで、その持ち味を味わってみるという聴き方もあると思います。

 バッハの演奏に関していえば、米良美一の参加している鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンとフィリップ・ヘレヴェッヘ指揮コレギウム・ヴォカーレの違いを聴いてみるというのもいいかと思います。個人的にいえば、鈴木雅明指揮のバッハ・コレギウム・ジャパンが好きで、ヘレヴェッヘのものはとても洗練されていて知的でおしゃれなのですけどたとえばかつてリヒター指揮によるバッハのカンタータなどにあったような生々しさがなくなってしまっている感じがしてしまいます。

 

 

 

風の音楽室

バッハ「クリスマス・オラトリオ」


1998.11.22

 

■J.S.バッハ:クリスマス・オラトリオ

 バッハ・コレギウム・ジャパン

 指揮:鈴木雅明

 ソプラノ:モニカ・フリンマー

 カウンターテナー:米良美一

 テノール:ゲルト・チュルク

 バス:ペーター・コーイ

 BIS-CD-941/942

 昨年の暮れ、このバッハ・コレギウム・ジャパンの「クリスマス・オラトリオ」の演奏会が比較的近くでも開催されるというので楽しみにしていたのですが、仕事の関係でどうしても出かけることができなくて残念でした。しかしその一連の演奏会を通じてCD化されたものをこうして一年後ではあっても聴くことができるのはとてもうれしい。

 そういえば、数年前から、年末年始にはバッハのカンタータやこうしたクリスマスオラトリオなどを友人の出演するバッハ合唱団の生演奏で聴くようになっているのですが、やはりシュタイナーのキリスト関連の講義などを読むようになって以来、こうしたクリスマスオラトリオなどをいわば魂の祝祭のような感じで聴くようになってきています。

 クリスマスまではまだ1カ月もあるのですが、巷では歳末商戦をふくめたクリスマスの音色が響き始めています。ぼくの小さいかった頃には、こんなに早くからクリスマス、クリスマス・・・という感じでもなかったのですけど、最近はすごく早いですね。クリスマスケーキ商戦も毎年ますます早期展開になってきていますし。しかしぼくのような広告屋にとってはすでにお正月や春のイベントなどのことがテーマになっているところですから、季節感だいなしという感じでがあります(^^;)。

 それはともかく、バッハのクリスマス・オラトリオ。ご紹介したCDはまだ輸入盤しかでていなくて、邦盤がでるのはもう少し先のことになるのだと思いますので、すぐには手に入らないかもしれないのですけど、リヒターのものもふくめていろんなCDっがでていますので、それぞれに個性的な演奏が楽しめるのではないかと思います。とはいえ、このバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏はリヒターのような精神性を残しながらしかも演奏技術もすばらしいものです。

 さて、このクリスマス・オラトリオは、6つの教会カンタータを集めたもので、それぞれ独立して演奏されていたようですし、一貫した筋立てになっているというのでもないのですけど、あらためて全曲を何度も聴きなおしてみても、個々の曲も全体のバランスもとても美しく、クリスマスにふさわしい厳かな気分を演出するにふさわしものです。

 あらためて聴き直すにあたって、この6部構成になっているそれぞれの部分の歌詞の出典(新約聖書から抜き出された聖句、賛美歌、創作宗教詩の組み合わせなのですが)の主なものを調べてみましたので、新約聖書でそれらの箇所を参照しながら聴かれるのもいいかもしれません。 

 第1部:ルカ福音書 第2章第1、3-7節

 第2部:ルカ福音書 第2章第8-14節

 第3部:ルカ福音書 第2章第15-20節

 第4部:ルカ福音書 第2章第21節

 第5部:マタイ福音書 第2章第1-6節

 第6部:マタイ福音書 第2章第7-12節

 こうして見てみると、第1部〜第4部まではルカ福音書からとられています。シュタイナーのルカ福音書についての講義が邦訳されていますけど、このルカ福音書は、シュタイナーによれば、「素朴で無邪気で、天真爛漫な心からキリスト教的な感覚へと高まっていくことのできる人々のための信心の書」として読まれてきたもので、「ルカ福音書に触れることによって、子どものような心情は高まったのです。人間の魂のなかで、幼年から老年にいたるまで子どもらしいままにとどまるものすべてが、いつもルカ福音書に引きつけられるのを感じてきました」「この聖典をみずからに作用させる者は、最初から最後まで、愛と、慈悲と、子どものような無邪気さのなかに浸ります」とあります。(引用は、ルカ福音書講義/イザラ書房刊より)

 また、ちょうど第2部にも使われている部分にもあたるところについて、クリスマスの言葉に関する次のようなことも述べられています。

ルカ福音書のなかに、野原にいる羊飼いたあちに天使が現われ、「世界の救世主」が生まれたと告げたという、すばらしい情景が語られています。そして、このように告知したあと、この天使に「天使の軍勢」が加わった、と語られています。羊飼いたちが見上げると、「天が開けた」ように見え、霊的な世界の存在たちが力強いイメージで彼らのまえに広がったという情景を思い浮かべてください。天使は羊飼いたちに、なにを告げたのでしょうか。彼らに告げられたのは記念碑的な言葉です。人類の進化全体を通して語られてきた、クリスマスの言葉です。羊飼いたちに聞こえた言葉は、正しく翻訳すると、つぎのようなものでした。

高みから神的な存在たちがみずからを示し、下方の地では、善意に満ちた人々を平和が支配するように。

 そういうことを魂の深みに働かせながら聴くバッハのクリスマス・オラトリオはまた格別なのではないでしょうか。

 

 

 

風の音楽室

ブックステフーデ:われらがイエスの四肢


1998.11.23

 

■ブックステフーデ:連作カンタータ「われらがイエスの四肢」

 バッハ・コレギウム・ジャパン

 指揮:鈴木雅明

 ソプラノ:緋田芳江・鈴木美登里・柳沢亜紀

 アルト:穴澤ゆう子・米良美一

 テノール:桜田亮

 バス:小笠原美敬

 KKCC 2267(BIS-CD-871)  '98.10.23

 バッハも心酔したこのブックステフーデについては、前にカントゥス・ケルンによるブクステフーデ「教会カンタータ」のCDをご紹介した際に、このバッハ・コレギウム・ジャパンのCDもその際輸入盤で発売されたものの手に入らなかったことをふくめてコメントしたことがあるのですが、それがやっと邦盤で発売されました。この演奏は、バッハ・コレギウム・ジャパンによる一連のシリーズのなかでもひときわ優れたものではないかと思えるほどのもので、しばらく前から何度も何度も聴きいっています。

 この限りなく美しい音楽は、十字架上で処刑されたイエスの凄惨なまでの傷を唱っているもので、その美しさゆえにその磔刑そのもののシーンが迫ってきます。

 共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの共観福音書は、されこうべの丘に立てられた十字架を遠くから見守る人々の中に、マグダラのマリアなど多くの婦人がいたことを、なぜか口をそろえて報告しています。思えば3日後に、イエス・キリストの復活を最初に伝えたのも婦人たちでしたが、彼女たちこそ、3日前の残忍な極刑の一部始終をしっかりと見届けた人々であったのです。額を引き裂く棘の冠、手のひらと足の甲に打ち込まれる釘、そして脇腹をつらぬく大剣。婦人たちは、愛するイエスに対して行なわれる残忍な仕打ちから眼を背けることなく、そのひとつひとつの痛みに身をよじらせつつ、決して忘れることのない光景を心に刻み込んだことでしょう。人々が受難週が巡り来るたびに語り継いできたものは、正にこの視線が捉えたものにほかなりません。お聞き戴くブックステフーデの作品こそが、その婦人たちの視線を音楽化した証なのです。(CDの巻頭言/鈴木雅明より)

 この巻頭言にも述べられているように、この「連作カンタータ」は磔刑のときのイエスの傷について歌っているものです。「足について」「膝について」「手について」「脇腹について」「胸について」「心について」「顔について」聴けばきくほどにその美しさのなかからイエスの血がまるで磔刑にあったのが自分であったかのように見えてくる気さえしてきます。

 この磔刑のシーンで思い出したのが、シュタイナーが「神智学の門前にて」で紹介していたキリスト教的な修行についてです。もちろん、シュタイナーはそれを現代的な行法として紹介しているのではないのですが。 

ヨハネ福音書を正しい方法でみずからのなかに受け入れた人は、キリスト・イエスを証明する必要がなくなる。その人はキリスト・イエスを見出すからである。

この修行は、何度も繰り返してヨハネ福音書を読むだけではなく、その内容について瞑想するものである。(略)

導師の指示にしたがって、修行者は7日間、まず冒頭の5節を瞑想したあと、第1章全体を魂のなかに通過させる。つぎの週も5節の瞑想のあと、第2章を魂のなかに通過させる。このようにして、第12章にいたる、その時点ですでに、偉大な、圧倒的な体験が得られるはずである。修行者は、キリスト・イエスが生きていたころの、パレスティナのさまざまな出来事のなかへ引き込まれ、アーカーシャ年代記に記されているとおりに、当時起こったことすべてを体験する。そして、第13章に来たら、修行者はキリスト教的な秘儀参入の個々の段階を体験することになる。(p173)

 こうして7つの段階が続きます。第一の段階、洗足。第二の段階、鞭打ち。第三の段階、茨の戴冠。第四の段階、磔刑。第五の段階、神秘的な死。第六の段階、埋葬。そして第七の段階、復活。

 この第七段階を生き抜いたとき、キリスト教は魂の内的体験となる。修行者はキリスト・イエスと完全に合一する。キリスト・イエスは修行者のなかに存在するようになるのである。(p176)

 こうした修行ではもちろんないけれども、こうしたカンタータを聴きながら、自らの魂の内にキリスト・イエスを感じる体験というのも得難いものではないでしょうか。

 

 

 

風の音楽室

ジョン&ジュリアン・レノン


1998.12.15

 

■ジョン・レノン

 レノン・レジェンド

 The Very Best Of John Lenon

 TOCP-5110 98.10.7

 

■ジュリアン・レノン

 フォトグラフ・スマイル

 AVCZ-95109 98.9.17

 テレビドラマの「世紀末の詩」の主題歌にジョンレノンの「ラブ」と「スタンド・バイ・ミー」が使われているので、なんとも懐かしくなってベスト盤を探したらやはり手回しのいいことでちゃんとそれにあわせて発売されていた。

 ぼくはとくにビートルズのファンでもジョン・レノンのファンでもないだけれどビートルズが解散した頃から後に流行ったポップスとロックから音楽漬けの日々を送っていたもので、その頃の曲が染み込んでいるらしい。サイモン&ガーファンクルの数々の名曲もそうだし、エルトン・ジョンの「ユア・ソング」「ロケット・マン」「グッドバイ・イエロー・ブリックロード」も、デヴィッド・ボウイの「スターマン」、カーペンターズの「スーパースター」、ミッシェル・ポルナレフの「愛の休日」、ニルソンの「ウィズアウト・ユー」、アメリカの「名前のない馬」、ディープパープルの「ハイウェイ・スター」、ギルバート・オサリバンの「アローン・アゲイン」もみんなこの頃のヒット曲。マッシュ・マッカーンなど知っている人今いるだろうか。ショッキング・ブルーの「ヴィーナス」も最高だった。そうアバの前身とでもいえるビョルンとベニーの「木枯らしの少女」なんかは…という感じでいくらでも思い出してしまう。

 「ラブ」というのは、日本ではジョン・レノンのシングルではなく、レターメンのシングルで流行ったことを知っている人はいるのかな?そのレターメンの「ラブ」が流行った後ののクリスマスでジョンとヨーコの「ハッピー・クリスマス」が流行った。ひさしぶりに聴いてみると、やはりオノ・ヨーコのボーカルはひどい^^;。ひどいのだけれど、とっても好きな曲のひとつで、ぼくはこのクリスマスシーズンになると必ず思い出す。

 で、ジュリアン・レノンだけれど、もちろんジョン・レノンの息子。ビートルズの「ヘイ!ジュード」の「ジュード」はこのジュリアンのこと。「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンド」もジュリアンとのエピソードが深く関わっている。とはいえ、ジュリアン・レノンが登場してきて「ヴァロッテ」というのがかかっていたときには、一瞬なにがどうなっているのかわからなかった。ジョン・レノンの声だけど、こんな曲きいたことがないぞ!と。すぐその謎は判明したのだけれど、けっこうそのアルバムは何度も聴いたのを思い出す。

 それが1984年だから、それからもう14年。ジュリアン・レノンはその後、音楽活動を停止、今回のアルバムは7年ぶりのものだという。ジョン・レノンのベスト盤を探していて偶然見つけた。で、これがなかなかにグッド。派手さはないのだけれど、何度も繰り返し聴いてしまう味があるし、肩の凝らないやさしさで満ちている。相変わらず、ジョン・レノンのような声だけど、35歳になったジュリアン・レノンはなんだかその声にいぜんよりもずっと親近感を感じてしまう。

 

 

 

風の音楽室

細川俊夫作品集 音宇宙 VII「うつろひ・なぎ」


1999.1.26

 

■細川俊夫作品集 音宇宙VII

 うつろひ・なぎ

 FOCD3441 1998.12.25

 

細川俊夫の音宇宙シリーズの第7作目。

収められているのは、次の4曲。

・「うつろひ・なぎ」(1995)

・「歌う木」−武満徹へのレクイエム−(1996)

・「遠景」II(1996)

・「チェロ協奏曲」−武満徹の追憶に(1995)

 聴いたこともない音楽が聴きたいと思う。けれど聴いたことのある音楽のなかにも、まったく新たなものを聴きとりたいとも思う。

 聴いたこともない音楽は、今ここで音が創造されていることを鮮烈に体験させてくれることがある。細川俊夫の作品はそんな音楽のひとつ。

 水平的線的な音から離れ、垂直的に響いてくる音たち。生きた幾何学的場が生きて動きながらその場そのものの中にぼくを連れていく。その場のなかにいるぼくとその場を感じとっているぼく。遠いものが近く近いものが遠くなっていく感覚。

 ぼくが聴いているのはいったい何なのだろうか。聴いているぼくというのはいったい何なのだろうか。そんなことをおりにふれ意識してしまう音のひびき。垂直化された音の響きだけがそこに立ち上がり、ぼくをその場のなかで現象化させてしまう。それはまだいないぼく。いまつくりだされようとするぼくという現象。それが響きのなかで乱舞し静止する。

 存在していなかった音たちが未来から響いてくる。創造される瞬間のゆらぎ。聴いたことのなかった音たちがぼく自身になって屹立しまたぼくからはなれていく、そんな不安さと希望の時空。

 ときおりそんなところに連れていってくれる音楽の中でたたずんでいたい、そんな気持ちになるときのために聴きたくなる作品。でも、そうでないときには、ある意味で疲れることもあるそんな作品たち。

 

 

 

風の音楽室

アンドレアス・ショル

「ドイツ・バロック・カンタータ集」


1999.4.3

 

■アンドレアス・ショル

 ドイツ・バロック・カンタータ集

 KKCC-416 1999.3.26

 アンドレアス・ショル(カウンターテナー)

 コンチェルト・ディ・ヴィオーレ、バーゼル・コンソート

 そういえば、この「風の音楽室」を書くのはひさしぶりなような気がします。けっこうあれこれと相変わらず聴いていたり、これまであまりちゃんと聴いてなかったボロディンやハチャトリアン、リムスキー・コルサコフなどの名曲などを廉価版で買って(^.^;聴いたりもしていましたし、つい先日もチラシなどの制作などのお手伝いなどもしている方の高知で開かれたバッハカンタータのコンサートであらためて人の「声」のもつ可能性を実感したりもしていたのですけど、ついついご紹介する機会を逸してしまっていました。そこで、今日見つけた新譜あたりからひさしぶりに「風の音楽室」を再開してみることにしたいと思います。

 今日見つけたのは、これまでにも何度かご紹介したカウンターテナーのショルの新譜。今回は、イタリア音楽の影響を受けた17世紀前半のドイツ・バロック・カンタータのシュッツやブクステフーデほか、あまり名前も聞いたことのなかった作曲家などの珍しい作品をふくめ、さまざまな作品がとりあげられています。どれもなかなかに味わい深い作品ばかりです。

 ショルの透明で甘美な声は今回も、いやこれまで以上に胸の奥底にまで染みいってくるような素晴らしさ。これまでの演奏のなかでも群を抜いているように思います。それにリュートやチェンバロ、オルガン、ヴァイオリンなどの渋い演奏が静かに加わっています。それに加えて今回はディスクのジャケットがとても凝ったものとなっていてなかなかお買い得です。

 しかしこの世紀末にこうしたカウンターテナーの声が響き渡っているのもなにか特別な意味があるのかもしれません。そういえば、バッハ・コレギウム・ジャパンのバッハ・カンタータ集も少し前に第8集と第9集(輸入盤)が発売され、とくに第8集は素晴らしいものでしたが、第9集では、米良美一のカウンターテナーに代わって、ロビン・ブレイズという新しいカウンターテナーが登場していました。このロビン・ブレイズというのはこれまで知らなかったのですけど、バッハ・コレギウム・ジャパンのHPなどで調べてみると最近けっこう活躍しているようですが、これもなかなかの演奏が楽しめます。最近カウンターテナー流行りではありますけど、おそらく一過性のものではなく、その性を超えたような声の力はかなりの普遍性を持っているのではないでしょうか。

 最後に、ディスクに収められている曲をご紹介させていただきます。 

1.ハインリッヒ・シュッツ(1585-1672):おおイエスよ、甘き御名よ

2.フランツ・トゥンダー(1614-1667):ああ主よ、あなたの愛する天使たちに命じて

3.ヨーハン・クリストフ・バッハ(1642-1703):

 哀歌「ああ、私の頭に涙がたくさんあったなら」

4.フランツ・トゥンダー:めでたし、イエスよ

5.ジョヴァンニ・レグレンツィ(1626-1690):

 <ラ・チェルタ>より4つのヴィオラ・ダ・ガンバのためのソナタ第5番(器楽のみ)

6.ディートリヒ・ブクステフーデ(1637-1707):哀歌「どんな堕落がもたらすことの

 ないものを、死がもたらさなければならないのだろうか?」

7.フィリップ・ハインリッヒ・エルレバッハ(1567-1714):

 おのが身を天に任せるものは

8.ハインリッヒ・シュッツ:おお主よ、私はあなたを心から愛する

9.ディートリヒ・ブクステフーデ:主に向かって喜びの叫びを上げよ

10.イグナツィオ・アルベルティーニ(1644頃-1685):

  ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ第4番ハ短調

11..ハインリッヒ・シュッツ:どうなさったのですか

 

 

 

風の音楽室

レーナ・マリア

「アメイジング・グレイス/聖歌・賛美歌」


1999.5.17

 

■レーナ・マリア「アメイジング・グレイス/聖歌・賛美歌」WLP-LK9409

 発売元・ライフ企画(いのちのことば社)

 スウェーデンのゴスペル歌手レーナ・マリアの聖歌・賛美歌集。聴き始めたときから、その声はぼくの胸を直撃し続け、涙が止まらなくなった。ちょうど、その前にカウンターテナーのショルの声に聴きほれていたにもかかわらず、その声の魅力に勝るとも劣らない声がぼくの魂を揺さぶり続けて止むことがなかった。それ以来、何度も聴いているのだけれど、その声はいつも新鮮に響いてくる。

 これまでまったく知らなかった歌手なのだけれど、1988年以来10回以上来日しているという。ちなみにレーナ・マリアは、生まれつき両腕がなく,左足も不自由だということで、その関係から、福祉機器の歳事でコンサートを開いたり、1998年の3月には「’98アートパラリンピック長野」の開会式でも「アメイジング・グレイス」を歌ったという。ぼくの関心の狭さから、こういう素晴らしい歌声をこれまで聴く機会がなかったのは残念だ。これから要注目の一人にしておきたいと思っている。

 ちなみに、インターネットで過去の記事を調べていたら、「’98アートパラリンピック長野」関連で、善光寺本堂で住職らの雅楽と声明を加えて、約六百人が東西の宗教音楽の共演を楽しんだ、という次のような記事が目に留まった。興味深いので紹介しておきたいと思う。

 

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■善光寺で熱唱15曲 ゴスペル歌手レーナさん

 

 長野市内で一日開幕した「’98アートパラリンピック長野」は初日からさまざまな行事が行われた。みぞれや小雨のあいにくの天候ながら、各会場とも大勢の人が駆け付け、盛り上がりをみせた。外国選手団も市内に入って来ており、パラリンピックを迎える市内の雰囲気は高まってきた。

 善光寺本堂では同日夜、スウェーデンのゴスペル歌手、レーナ・マリア・クリングヴァルさん(29)のコンサート。同寺の住職らが雅楽と声明(しょうみょう)で加わり、約六百人が東西の宗教音楽の共演を楽しんだ。

 レーナさんは本堂内陣に特別に設けたステージで、ほほ笑みを絶やさず、ゴスペル十五曲を英語と日本語で熱唱。曲の合間には自らの信仰や障害について語った。パラリンピックの開会式でも歌う「アメージング・グレース」や、阪神大震災の被災者に贈ったという「主よ、どうしてですか」などを歌い上げた。

 同市のセントラルスクゥエアで開いた「祭・ながのMANDARA」では県内外のロックバンドの演奏やフリーマーケット、車いすコンテストなどがあった。午後のパ

レードでは、車いすの人を含む市民や出演者がにぎやかに歩き、周辺は身動きがとれないほどだった。

(1998年3月2日 信濃毎日新聞掲載)

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 さて、今回ご紹介したCDには、レーナ・マリアが日本語で歌っているものもいくつかあり、それがまた素晴らしく、キリストについての内容があまりにもシンプルに歌われているので、聖霊降臨祭前ということでもあるのでそのなかから2曲ほどその歌詞をご紹介しておきたいと思う。

 キリスト教などとはずっと無縁なので、あまり賛美歌などにふれる機会もなかったのだけれど、なかなか素晴らしいものが多いことに今更ながら気付いているところです。

 

 

キリストにはかえられません 聖歌521

 

キリストには かえられません 世の宝も また富も

このお方が 私に代わって 死んだゆえです

世の楽しみよされ 世のほまれよ行け

キリストには かえられません 世のなにものも

 

キリストには かえられません 有名な人になることも

人のほめることばも この心をひきません

世の楽しみよされ 世のほまれよ行け

キリストには かえられません 世のなにものも

 

キリストには かえられません いかに美しいものも

このお方で心の満たされてあるいまは

世の楽しみよされ 世のほまれよ行け

キリストには かえられません 世のなにものも

 

 

馬槽(まぶね)の中に 賛美歌121

 

馬槽のなかに うぶごえあげ

木工(たくみ)の家に 人となりて

貧しきうれい 生くる悩み

つぶさになめし この人を見よ

 

食するひまも うちわすれて

しいたげられし 人をたずね

友なきものの 友となりて

心砕きし この人を見よ

 

すべてのものを あたえしすえ

死のほかなにも むくいられで

十字架のうえに あげられつつ

敵を許しし この人を見よ

 

この人を見よ この人にぞ

こよなき愛は あらわれたる

この人を見よ この人にぞ

人となりたる 活ける神なれ

 


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