風の音楽室9

 

2000.7.23-12.11


●バーンスタインのマーラー

●ジミー・スコット「ムード・インディゴ」

●BS2でのBCJ・ヨハネ受難曲

●自分を聴く

●再統合へ

●響きの器

●礼楽

●DAVID SYLVIAN:EVERYTHING AND NOTHING

●つのだたかし「静かな音楽」

●最近聴いたCDから

 

 

 

風の音楽室

バーンスタインのマーラー


2000.7.23

 

■BERNSTEIN MAHLER

THE COMPLETE SYMPHPNIES & ORCHESTRAL SONGS

Deutsche Grammophone 16CD 459 080-2

バーンスタイン没後10年ということもあるのか、バーンスタインのマーラー演奏を集めた16枚組の超廉価版が出ていた。マーラーの交響曲の全曲とオーケストラによる歌曲が収められている。(1枚あたり560円くらいという超お買得!)以前からマーラーの交響曲をすべて聴いてみたいとは思っていたし、マーラーの交響曲といえば、マーラーの弟子でもあるワルターかバーンスタインが定評があるので、いい機会だと思って聴いてみることにした。(ワルター指揮でもいろいろ聴いてみたいと思っている。ワルターといえば人智学とも関わりがあり、しかもマーラーの弟子でもあるわけだし)

かつて、「マーラー・ブーム」があったらしい。1986年頃からのことで、CMなどにも登場していた。その頃は、クラシックを聴くことはまだあまりなかったのもあり、そんなに関心はなかったので、ほとんど気にとめることはなかった。そういえば、その頃、CM制作のスタッフから、バッハの「マタイ受難曲」(リヒター)とマーラーの「大地の歌」(ショルティ)がいいからと、録音してもらったことがあったが、その頃は、ただ聴いてふ〜んと思っていただけで、どちらにも、大した感銘を受けるということはなかった。

やはり、人にはなんにつけ「機」があるようで、それが訪れてこないと、つまりある種の「器」の準備ができないと、いくら素晴らしいご馳走であっても、器に盛り味わうことはできないようだ。しかし、いずれ訪れるであろう(かもしれない)「機」のために、人はいろんな示唆をあらかじめ受けていることは多いようである。たとえば、シュタイナーにしても、学生時代、何の因果か、たいした動機もなくドイツ語を専攻したり、そのなかの先生の一人が、その理解や深みは別として(^^;、ゲーテの自然学ということに注目していたり、ノヴァーリスを専門としていたり、ということがあった。当時は、むしろそうしたことにはまったく関心がなく、むしろ「ポストモダン」だとかいう一見かっこよさそうなほうにばかり目がいっていたのだけれど、そういうことにしても、それはそれなりの「示唆」「暗示」だったのだろうと思う。もっとも、それらの「示唆」「暗示」の多くは、そのときは皆目気づかないどころか、むしろ嫌悪感のようなものであることも多いのかもしれないのだが・・・。

今回バーンスタインのマーラーを見つけたのは、ひょっとしてその「機」なのではいかとも思っている。聴くにつけそう思い、マーラーについてのあれこれを読んだりもしていたりする。おそらく、「マーラー・ブーム」であったらしい1986年頃のぼくにはマーラーを聴くだけの「耳」を持ち合わせていなかった。バッハの「マタイ受難曲」にしてもそうだったのだから。

ポップスやジャズ、ロックなどがそうじゃないというのではないけれど、それらを自分のなかの「鏡」に映してみることはたやすいのに比べ、ある意味で、こうしたクラシックのジャンルのある部分は、それがむずかしい。とくに、ぼくのようにほとんどクラシック的教養に乏しい場合、そうだ。マーラーの交響曲などは、とくにある種の困難があるのではないだろうか。しかし、それを感受できるだけの器を自分のなかで創造しつつ、みずからの魂の襞を構築していくという作業はとてもクリエイティブだし、それにともなってみずからの変容に立ち会っているというようなスリリングさもある。そういう意味でも、全集的な聴き方もたまにはいいかもしれないと思っている。

さて、CDに収められているのは、次の通り。

●交響曲

・交響曲第1番 ニ長調<巨人>

・交響曲第2番 ハ短調<復活>

・交響曲第3番 ニ短調

・交響曲第4番 ト長調

・交響曲第5番 嬰ハ短調

・交響曲第6番 イ短調<悲劇的>

・交響曲第7番 ホ短調<夜の歌>

・交響曲第8番 変ホ長調<千人の交響曲>

・交響曲第9番 ニ長調

・交響曲第10番 嬰ヘ短調

・大地の歌

 

●声楽曲

・「さすらう若人の歌」

・「少年の魔法の角笛」による歌曲

・亡き子を偲ぶ歌

・リュッケルトによる5つの歌曲

 

 

 

風の音楽室

ジミー・スコット「ムード・インディゴ」


2000.7.29

 

■ジミー・スコット「ムード・インディゴ」

 VICJ-60643

「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」に続く、75歳のジャズ・ヴォーカリスト、ジミー・スコットの新譜。

このMLで、舟沢虫雄さんからご紹介いただいて、さっそく「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」の最初の一曲、What I Wouldn't Giveを聴いたときから、ぼくのなかでは、このジミー・スコットの声が刻みつけられて離れなくなった。

昨年は、デヴィッド・シルヴィアンの新譜がぼくにとっては何度も聴きかえしたナンバー1ディスクだったが、今年は、すでに「ホールディング・バック・ジ・イヤーズ」がそうなっている。何度聴いても、このジサマの声に魅せられてしまうというか、ついつい、うれしくなってしまう。

1925年生まれのジミー・スコットの「復活」が、1992年の「オール・ザ・ウェイ」ということだから、67歳。その歳からでも頑張れるというのは、やはりスゴイ。ぼくも、67歳まではまだ25年という四半世紀もあるから、それまでに、自力をつけなくてはとも思ったりもしてみる(^^;)。

もっとも、ジミー・スコットのような「人生に対する愛」を育て、熟成させていくのは並大抵のことではない。つい最近まで厭世観に満たされていたぼくにしてみれば、なおのことむずかしいこと。

今回の新譜「ムード・インディゴ」の最初の曲は「スマイル」。勝手に意訳するとこういう感じの歌詞。

スマイル

君のハートが痛んでも

スマイル

たとえハートが張りさけそうでも

空に雲があっても

通り抜ければいいのさ

 

もし君が涙や悲しみを超えて

ほほえむならば

きっと明日は

太陽が輝いてくれるはずさ

君のために

とてもシンプルすぎる内容で、ふつうだったら、「そんなことできるかい!」って気持ちになっていても、これをジミー・スコットが、Smileと歌い始めたとたんに、こちらまでが、Smileになってしまうような、そんな魔法にかけられてしまう。歌の力だ。そして、ジミー・スコットの愛の力だ。

タワーレコードが毎月出している「musee」という雑誌の5月20発行のvol25に、このジミー・スコットと小室等の対談が載っているので、そこから少し。(Kは小室等、Jはジミー・スコット)

J:声のパワーというのは、差し出すこと、前に出すことの深み、その人その人の表現しようとする力だと思います。(…)

K:あなたのパフォーマンスを聴いていて、言葉が歌になる瞬間の素晴らしさを何度も体験するんですけれども、言葉たちは多分歌になることをいつでもスタンバイして待っているんだと思うんですね。ドリームとか、ディアーとか、そういう言葉は言葉だけでは何も人の心に届くものではない、でもあなたが今おっしゃったような意味をもって「ドリーム」と歌った瞬間に、「ああ、凄い!」って。そのスタンバイしていたドリームが、ジミーさんの歌声で、この世に初めて現れるのですね。

J:言葉についてはおっしゃるとおりです。例えば、女の人に、「アイ・ラヴ・ユー」と言ったとする。本当に愛していたら、「アイ・ラ〜〜ヴ・ユー」という言い方をする。お客さんに歌うときも、愛について歌っているのだから、その言葉に意味を、深みを与えるんだと。(…)

J:私にとって、愛は愛でも人生に対する愛なのです。というのは人生というのは、愛が全てであると私は常に思っています。愛というのが自分の生きていくよすがになる。一番強いことだと思う。他の人には他の意見があるでしょうから、これはあくまでも私の意見にすぎませんが。ライフ(人生・命)に対する愛ということが、歌っていくうえで、前に差し出していくもののなかでも、一番大切なものです。人に与えるものは、無知をさらけ出すのではなく、愛を伝えることが一番大切なことだと思います。

ぼくも、できれば67歳になったら、スマイル!といって、だれかにほほえんでもらえるようになれば、ステキだなと思っているのだけれど、はたして・・・。

 

 

 

風の音楽室

BS2でのBCJ・ヨハネ受難曲


2000.7.30

先ほど、NHKのBS2で、バッハ・コレギウム・ジャパンによるJ.S.バッハ「ヨハネ受難曲」が放送された。この7/28のサントリーホールでの演奏会である。

昨日、偶然(実は必然)に目にした新聞で見つけ、やはり、BCJの演奏は見逃せないと、これまでほとんど見たことのないBSを見ることにした。(ほんとうに最近はテレビを見なくなった)この偶然という必然は、やはりキリスト衝動に関連しているのだろうとその意味について思いを巡らしながら、演奏に耳と目を傾ける。

バッハ・コレギウム・ジャパンによるJ.S.バッハ「ヨハネ受難曲」は、CDで2種類でていて、どちらも愛聴盤だが、ビジュアル付での演奏ははじめて。2時間の演奏時間があっという間に過ぎていった。

まずは、ゲルト・テュルクによるエヴァンゲリスト&ソリストが素晴らしい。まさに、福音書家ヨハネが、イエスの受難劇を生々しく迫真の語りで迫ってくる。カウンター・テナーのロビン・ブレイズのアリアがまた素晴らしい。

さらに、発見!知人の小原浄二さんの指導している高知バッハカンタータフェラインの今年月の演奏会でカウンターテナーとして初出演の上杉清仁さんが、アルトのパートの合唱に参加していた!この上杉清仁さんは、高知バッハカンタータフェラインのコンサートマスターで、リコーダーのパートにも参加していたのだけれど、昨年、カウンターテナーに挑戦中ということを聴いていた。バッハ・コレギウム・ジャパンの合唱は各パートが4人で、アルトのパートは、ロビンブレイズとその上杉清仁さんとあと女性二人。そのなかに加わるとはなかなかのものだなと深く感心。

さて、バッハ・コレギウム・ジャパンは、今年で10周年。高知バッハカンタータフェラインの小原浄二さんも当初、合唱の指導をしていたということだけれど、その10周年を記念した「ポート・オブ・BCJ」(KICC-313)が発売されたところだという(まだ見ていない)。また、この12月の定期演奏会には、カウンターテナーのアンドレアス・ショルとの共演が予定されているとか。

ますます期待のバッハ・コレギウム・ジャパンである。

ちなみに、今、そのバッハ・コレギウム・ジャパンの演奏に続いて、カール・リヒターのチェンバロの演奏が放送されている。

 

 

 

風の音楽室

自分を聴く


2000.8.2

 

 人はたいてい仮面をかぶっている。しかし、たとえ仮面をかぶっていても「こんにちは」のたった一言で、その人について多くのことがわかるのである。結局のところ、人がかぶっている仮面ほど人間を映し出すものはないのだ。話し言葉は直接的である。内側にあるものが完全に外側に出てしまう。言葉に仮面をかぶせようとすれば、さらに馬脚を露わすことになる。(…)

 自分の声を客観的に知ることはむずかしいが、他人の声をよく聴くことで容易になる。(…)

 判断を停止して、トレーニングと思って人の話を聞いてみよう。聴こえてくるのは声にのった欲望の韻律である。欲望こそ音楽の韻律の原型といっていい。人が話すたびにそれは生のまま出てくるのだ。中国語のような声調言語はほとんど歌のように聴こえる。事実、歌は話し言葉の調性的衝動が拡大したものといっていい。上昇や下降のピッチ(音の高さ)が感情の波を反映する以上、あらゆる言語は基本的に調性的なのだ。

 統計学の先生の単調な講義も、セピア色の白黒映画がカラー映画よりも鮮明な印象を残すように、その多様な灰色によって内にある虹色の欲求を表わしている。おそらく、先生という仮面の下には数字に対する密かな情熱が隠れているのだ。(…)

 自分の話し声を知るには、すなおに耳を傾けるしか方法はない。クールに距離を保って自分の声を無心に聞かなければならない。そうすれば声はきみを助けてくれる親友となる。きみの仮面をはぎ、同時にきみを守るものになるのだ。

(アラジン・マシュー「大きな耳/音の悦楽・音楽の冒険」創元社1996.4.10発行/P46-47)

自分の声を聴くのは難しいが、実際のところ、そのためには、それ以前に人の声を聴くことができなければならない。

こちらの心の波立ちを鎮めた状態で、人の声をそのなかに響かせていく。まるでコンサートの会場が、演奏の前にしんと静まっているように、そして演奏者が現われ、演奏が始められるように。

人の声を音楽として聴いてみる。ある人は無伴奏チェロのように声を奏で(そういうのはきわめて稀だが)、ある人はシャウトするロッカーの崩れたような声を絞り出し(これも珍しいが)、またある人はミニマルミュージックのような説教を繰り広げる(^^;、などなど。こちらは、合いの手のように、頷きまた首を傾げてみる、などなど。場合によれば、アンサンブル化することもあるだろうが、できるだけその人の声だけに演じてもらう。

そうして、その人の声がいったい何を歌っているのかをしっかり感じ取れるようにする。その人がいったいどんな「欲望」を表現しようとしているのかを。ある人は「私はこんなに偉いんだ」と歌い、ある人は「私はこんなに不幸だ」と歌い、またある人は「私は人のために生きているのだ」と献身を歌う。

こうしたトレーニングを積んでいきながら、さて自分の声を聴いてみることにする。自分は今何を歌っているのだろうか。どんな「欲望」を表現しようとしているのか。まるで他人であるかのように自分の声を聴いてみる。

さて、声を聴くだけではなく、自分の書かれた言葉を読むのも難しい。同じく、そのためには人の書かれた言葉を読むことができなければならない。もちろん、話し言葉に比べて、書き言葉は「仮面」の度合いが高いのだが、それでも、その人の言葉には、確実にその人の歌が響いている。

 

 

 

風の音楽室

再統合へ


2000.10.2

 

武久源造の「鍵盤音楽の領域」シリーズの第6弾。

■武久源造 鍵盤音楽の領域vol.6

 武久源造(フォルテピアノ) 硲美穂子(ヴァイオリン)

 コジマ録音 ALCD-1028

今回収録されているのは、モーツァルトの曲。それはともかくとして、いつも武久源造さんの音楽に関する興味深い示唆があふれている「解説」から。

 今からほぼ100年前、今世紀に入った辺りから音楽需要は三つの方向に分裂した。ヴィーンでシェーンベルクが調性概念を拡張し、最後には調性そのものを否定する道のりを踏み出したのとちょうど機を一にして、パリでランドフスカが、ロンドンでドルメッチらが古楽復興運動の狼煙を上げた。これはドイツを中心に起こったオルガン復興運動とも手を携えていた。しかし大半の聴衆は未だなおショパンやリスト、ワーグナーやヴェルディの熱狂的ファンであった。新しい動き、つまり古楽と前衛音楽は最初は地下で細々と展開されたが、数十年を待たず確固たる市民権を得るようになった。その結果どうなったか?

 19世紀が終わるまで、音楽活動は少なくとも表面的には一枚岩であった。つまり、聴衆は自分たちの要求を満たしてくれるような新作を作曲家に期待し、作曲家は多かれ少なかれそれに応えて曲を書いた。そして双方の思惑を結ぶべく、演奏家がその名人芸を尽くして、聖なる場ともなり社交の場ともなる不思議な営み、即ちコンサートを盛り上げたのであった。ところが今世紀に入って状況は徐々に変わった。何者がそれを変えたのか、とても一言ではいえない。思想が先行したのか、実利が先だったのか……。が、ともかく、上に述べた分裂を反映して、コンサートのプログラムは大きく三つの方向に分かれた。その一は、現代社会の矛盾を象徴し、現代人の精神状態を投影したとも言われる、不協和音と無調性の前衛音楽。その二は、ベートーヴェン以前、モーツァルト以前、バッハ以前(どこから近代音楽が始まったと考えるかでこの名前は変わってくるが、いずれにせよX以前)の古楽。そして最後は、保守的、しばしば退嬰的ともなりかねない<前世紀の音楽>(モーツァルトからヴァーグナーといった伝統的なレパートリーを伝統的な方法で演奏、享受しょうとするもの)である。別に言えば、音楽家と聴衆の好みは未来派と古典回帰派に分かれたのである。さらに、自分たちのルーツ探しという意味では、民族音楽への興味をも古典回帰派に含め、これを原初回帰派と呼んで一括できるかもしれない。けだし、古楽や民族音楽が時としてどんな前衛音楽よりも前衛的に響いたというのも、やはり現代ならではの皮肉な状況であったろう。

 さらに、テクノロジーの進歩によって生まれた種々のメディアは、作曲・演奏・聴取の試みを再統合することに概ね失敗し、分裂を助長しつつある。テクノロジーは打ち出の小槌となることを夢見、聴衆が聴きたいものは何でもその場で提供するという魔法のような状態を目指したのだが、これは音楽創造が本来持っていた<自然の循環>を分断することにしかならなかった。(…)

 もちろん本物の音楽が湧き出づる泉は我々の音楽活動にあってけっして枯れてはいない。にもかかわらず、今や我々の音楽はすべからく、何ほどか場違いに響いていると言いたい。(…)

 古楽演奏は、忘れ去られた古い音楽を掘り起こし、それを蘇らせるという歴史的興味に終始するものであってはならない、と私は考える。つまり古楽をするのは昔の人々のためではないのである。それは現代に生きる我々自身のため、やむを得ず鈍磨するに至った耳を活性化し、我々が音楽と呼ぶもののルーツに目覚め、地に根を下ろした、我々の音楽活動を再建するために他ならない。今や分裂と細分化の時代ではない。目指すのは再統合をこそ、である。

(武久源造 鍵盤音楽の領域vol.6 解説より)

今や音楽需要は、分裂の極みにあるようにも見える。(もちろん、それは音楽制作にも対応している)とはいえ、需要のほとんどはポピュラー音楽の領域にあるのだが、その音楽さえも、聴衆は半ばささいな(ようにしか思えない)差異を暇つぶしのように享受しているようにしか見えないこともしばしばである。仕事などで身近にいる人たちのことを見ていても、そうした流行音楽のほんの一部だけを聞いている人がほとんどで、そこには分裂さえ存在していない。つまりは、狭く限られた場所に耳を閉じこめて、自分がカラオケで歌う曲の周辺部だけで自足しているように見える。

ぼくはいわゆるクラシック音楽にふれずに育ち、ほとんどテレビやラジオで頻繁に流れるポピュラー音楽をきいて育ってきた。(学校の音楽教育での音楽の影響はかなり小さいといえる)最初はテレビのヒット番組で、やがてはラジオで西洋のポップスやロックを。そういう意味ではきわめて俗物的な耳を育ててきたともいえる。

しかし、それでもやがてはそうした音楽に飽き、ジャズへ、民族音楽へ、そしてやがてはクラシック音楽へと聴きたい音楽を渉猟してきた。そのなかで、少しは「現代音楽」と称するものもいくつか聴いた。もっとも、たとえば細川俊夫なども「現代音楽」という表現を嫌い、あえていうならば「現代の音楽」という表現を選んでいるようである。

たしかに、「現代の音楽」という表現は、ぼくにもしっくりくるもので、ぼくのなかでは、最初に音楽らしきものを聞きはじめた頃から今までに聴いてきた音楽のなかに、あまり分裂は存在していないように感じる。重要なのは、聴きたい音楽かそうでないかという違いでしかない。最近では、ぼくの耳をひらき、響いてくる音楽かそうでないかという違い。さらにいえば、音楽かどうかという違いさえ問題にならないことさえある。

なぜ人は耳を閉じこめようとするのだろう。耳を閉じこめるということは、自分を分裂させるということなのに。

武久源造さんの音楽を聴いていると、その演奏されるジャンルが限られているにもかかわらず、その開かれた響きに驚いてしまうことがしばしばである。その言葉にも、同様の響きを感じる。今回の「目指すのは再統合をこそ、である」という言葉は、まさに人の「耳」を開かせるための音楽への希望の叫びのようにぼくには感じられた。

ぼくがなぜ音楽を聴くかと問われたとすれば、自分の狭く閉じこめられ分裂してしまった耳を、つまりは自分自身をひらくためだ、そう答えることもできるかもしれない。音楽に通じている人から見れば、馬鹿馬鹿しく見えるかもしれないが、この「風の音楽室」でときおり書いていることも、そのためのほんのささやかな試みであるといえるような気がする。

 

 

 

風の音楽室

響きの器


2000.10.4

 

■多田・フォン・トゥビッケル・房代「響きの器」

 (人間と歴史性/2000.9.29)

日本で、障害を持った人々を交えた子供と母親との音楽活動に携わった後、ドイツに渡り、音楽治療を学んだ著者による、「<生きていること>と音楽」についての、響き渡る詩=音楽ような名著

人間は響きをもつ器ーー。そのひとつひとつの音に耳を澄ませることから治療がはじまる。ドイツで音楽治療を学び実践する著者が、人生の諸場面で感じとった音を言葉にうつし、東洋と西洋の間、古と現代の間、医学と芸術の間に橋を架けるものとして、「音楽」のもつ豊かな可能性を示唆する。

(帯の紹介コピーより)

音楽を通じて人を癒やすということは、いかに自分が響くかということから始める必要があるのだと思う。つまり、自分を「響きの器」とすること。そのために、「ひとつひとつの音に耳を澄ませる」。

自分を「響きの器」とすることで、それを少しずつ相手の「響き」を共振させていく。そうすることで、「響き合い」を殺していたからだ、たましいが、「響きの器」となっていく。外的に押しつける治療ではなく、共鳴による癒やしとでもいえるだろうか。

本書のなかに、次のようなとても示唆的なところがあった。

「自分が何をするかWas ich macheより、房代は、自分が今どうであるか、Wie ich binがいつも先だから、ぼくは何も言えない」と主任は私に言いました。主任の言葉は、「二つの異なった道」として、このことを認識しているように響いたのですが、しかしその時の私は、「今、どうであるか」が澄まされたとき、はじめて「今、何をするか」が明らかになるのではないかと考えていたのです。

 そして、ある感覚(それを直感という言葉で表してもいいのかしれませんが)に達したとき、今度は何かを探していけるのでしょう。つまり、Was ich macheの中でWie ich binも確認していく。(P41)

「今、何をするか」からではなく、「今、どうであるか」によっておのずと明らかになる「今、何をするか」。往々にして、その順序は逆になってしまう。自分がどう響いているかを明らかにしないで、なにかをしようとする。たとえば、本書のなかでも、花伝書のなかの「体」と「用」ということで紹介されているように、「体」を疎かにして「用」にとらわれてしまう。耳を澄ませないで、音に強引に何かをさせてしまう。磔刑されたキリストが言うように、「自分が何をしょうとしているかわからない」ままに、Was ich macheにとらわれていく。

本書では、ドイツで知り合い結婚した方やお母さんとの話も、とても響いてくる。こんな響き合いのなかで著者は、Wie ich binを見続けてきたのだなあと。

ちなみに、近刊で、音楽療法をテーマにしている次のようなものもあって、こうしたテーマについて見ていくのにもふさわしい。世紀末の実りの秋だろうか(^^)。

■ミッチェル・ゲイナー

「音はなぜ癒すのか/響きあう、からだ、いのち、たましい」(無名舎/2000.9.10発行)

 

 

風の音楽室

礼楽


2000.10.4

 

岡野 当時の雅楽というのは、今の「みやび」とは違って、「正しい」という意味だったんですよね。同じ字だけれども。

芝 そうとっていただいていいですね。

岡野 ただ、今日本で雅楽と呼ばれている音楽というのは、孔子が作った音楽とは違うんでしょう?

芝 そうです。今われわれが演奏しているのはもともと唐の時代の宴会音楽ですね。もうひとつは胡楽というのがあって、これは西域のほうの音楽ですね。うっかりするとインド、あるいはベトナムのほうの、ちょっと泥臭い音楽。それと休廷の芸術音楽である俗楽が一緒くたになって、唐の時代に日本に伝えられました。(…)

芝 孔子廟の音楽というのは演奏する楽器も違うし、私たちがやっているような音楽とはまったくかけ離れたものなんですね。

岡野 じゃあメロディがないとか。

芝 ほとんどない。

岡野 なるほど。

芝 それがまた孔子の思うところなのだと思いますね。国を興すには、さきほどの礼楽思想でもって、いい音楽をやらなければならない。心を穏やかにしなければならない。三歳で音楽と舞をやる、五歳で弓と馬をやって、十歳で礼儀作法を勉強するというのがあるんだそうです。自己を抑制し人のために尽くすとか、親に対する孝行とか、そういうものを案が得ていくうえで精神を落ち着かせていかなければいけない。だから音楽に動きがないんです。楽器は猛烈にあるんです。舞人もまたたくさんいたりしてね。ぐわーん、とやってしばらくわんわん鳴っているだけ。とにかくゆっくり、またしばらくすると合図があってジャーンと。こんな感じなんですね。飛んだり跳ねたりという感じじゃない。

(岡野玲子+芝祐靖「安倍清明と楽との関わりを探ること」鳩よ!10・2000・No198 マガジンハウス P33-34)

 孔子のいう「礼楽」のイメージはなかなかぴんとこなかったところがあるけれど、これを読んでなんとなくその在り方だけは少し腑に落ちたところがある。ピュタゴラスも音楽を重視したわけだけれど、人をある種の「響きの器」「楽器」のようにとらえて、ある種、調律しようとしたようなもののようにイメージできる。

 なぜその後、そういう方向性が途絶えたというか、流れが変わってしまったのかを考えてみると、そこにも、ある種のキリスト衝動が作用しているのかもしれない。

 「礼楽」は、やはり外から人を整形しようとするもの。ある意味では、自我が内から作用するのではなく、外から働きかけようとしたような在り方。だから、いかに稚拙であっても、人は内的な自我の音楽を模索していかなければならなかったのではないだろうか。

 西洋の近代音楽も、そうした視点からとらえてみれば、なんとなくその在り方が腑に落ちてくるところがある。そして、その向かう方向性についても。それは、ある意味では、内から自由において働きかける創造的な礼楽としての音楽、ということになるのかもしれない。「現代の音楽」のさまざまな模索も、そういう「耳」で聴いてみると興味深いかもしれない。

 

 

 

風の音楽室

DAVID SYLVIAN:EVERYTHING AND NOTHING


2000.11.7

 

■DAVID SYLVIAN:EVERYTHING AND NOTHING

 Toshiba EMI(VJCP-68248〜9)

 なぜか、ジャケットには藤原新也のマユゲ犬。とぼけた顔でこちらを不思議な目で見つめている。なぜデヴィッド・シルヴィアンがマユゲ犬なのか、とか思いながら、どこかこみあげてくる笑い。タイトルのEVERYTHING AND NOTHINGとマユゲ犬。

 デヴィッド・シルヴィアン初のベスト・アルバム。デヴィッド・シルヴィアンのソロはたいていもっているので、もったいないかなとか、せこく思ったりもしたのだが、なかには未発表曲、新録音、レアトラック、リマスタートラック等もあるようなので、やっぱり聴かないわけにはいかない。たとえば、DEAD BEES ON A CAKEにDobro#1が収められていたが、ここにはDobro#5とDobro#6というのも収められている。

 2枚組。一枚はEVERYTHINGディスクで緑色のEで全14曲。もう一枚はNOTHINGディスクでオレンジ色のNで全15曲。なかなかききごたえがある。とくに、この季節にはぴったりかもしれない。なにせ、デヴィッド・シルヴィアンの憂いに満ちた耽美で繊細な声。やはり、この声はピカイチだと思う。たぶん、このディスクも一生ものなんじゃないかと思う。

 こういう声を聞いた直後、日頃よく聴いているカウンターテナーなどの声を聴いてしまうと、ちょっとついていけない感じになってしまう(^^;)。とはいえ、やはりカウンターテナーも好きなのだけれど・・・。

 ちなみに、今日、FMかなんかで、「ゆず」の声が流れてきたのだけれど、これはもういけない。デヴィッド・シルヴィアンの声を聴いたあとの「ゆず」。これは、はっきりいって罪です。こういう美意識の徹底しない中途半端さは、むしろ変な感じで耳についてしまう。思いきりでいうなら、布袋寅泰なんかのほうが、ずっといい。やはり、こういうのを公共の電波で流してはいけないと思う。声に美意識がない人はやはり歌を公共化してはいけない。そんなことを偏見に満ちて思ってしまう(^^;)。

 ちなみに、価格調査をすると(下世話な話(^^;))、タワーレコードで3,090円、ヴァージンで3,500円。この差はなんなのだろうと思ってしまう。しかも、版権のあるのは、Virgin Records。なぜなのだろう。これも、マユゲ犬の秘密なのか・・・。

 ちなみにの2。インターネットで検索すると、デヴィッド・シルヴィアンの公式HPというのがあった。インタビューなんかもあったので、ファンはのぞいてみると楽しめそう。

 ちなみにの3。ジャケットにデヴィッド・シルヴィアンのの昔の顔から今の顔までがあった。これはなかなかスゴイのではないかと思う。この変化。

 ちなみにの4。このCD、シンプルな2枚組だけじゃなく、もうちょっと豪華な装丁というか、たぶんいろいろ盛りだくさんの2枚組の2種類があるようだ。ちなみに、その価格はタワーレコードで3,800円くらいだった。ちょっと気になる・・・。

 

 

 

風の音楽室

つのだたかし「静かな音楽」


2000.11.12

 

■つのだたかし「静かな音楽」

 VICL-60619

・つのだたかし/リュート・バロックギター・ラウタ

・ゲスト/ 佐野健二・リュート

 近藤郁夫・ハンマーダルシマー・マリンバ

世の中、世紀末なのか、かなり騒がしい。その上に音楽もやたら騒がしいのが多い。威勢のいいのだとまだいいのだが、内容のない騒がしさのほうがずっと多い。

 それに最近とみに、さわがしいのが疲れるようになった。テレビやラジオをつけっぱなしにしているなんぞは、もってのほか。静かなのがいい、と思っていたところ、そのものずばり、「静かな音楽」というタイトル。しかも、つのだたかしのリュート演奏。ただ静かなだけで内容のないのが多いヒーリング音楽などというものとは違って、なにより味がある。つのだたかしの個性である。

 このアルバムには、少しまえに発売された、

●シチリアーナ〜リュートのためのアリア VICL-35099

に収められている、そのタイトル曲、カゴメ「アンナマンマ」CMテーマ曲「シチリアーナ」も別ヴァージョンのものが収められている。

 その他、中世、ルネサンス、バロックの古曲から、つのだたかし自身のオリジナル作品まで、古楽器の音色が静かに響いてくるなかなかのアルバムになっている。

 ちなみに、つのだたかしによる「ダウランド アンド カンパニイ」というHPがあり、そこに次のような曲の紹介があったので、それを。

http://www.linkclub.or.jp/~dowland/

「雨のミロンガ」はバロックギターのためにつのだが書いた作品。ミロンガとは、アルゼンチン・タンゴで演奏される曲の形で、タンゴ好きのつのだらしいオープニングになりました。

「グリーンスリーブズ」はルネサンスの曲としては非常に有名です。16世紀のイギリスではこのメロディが大変流行し、さまざまな替え歌が作られました。シェイクスピアの芝居の中でも歌われたと言われています。

「ロシニョール」「レディー・ケアリー」も同じ頃に作られた作者不詳の作品です。ロシニョール(ナイチンゲール)の歌声のようにかれんな響きをきかせてくれます。

どこか遠い南洋の島を思い浮かべる「カラモイレの樹」。とてつもなく大きなカラモイレの樹からは、ひらひらと花びらが降り注ぐのでした。

「ココ」もつのだによるバロックギターの曲。リュートより小ぶりで共鳴する胴も小さいこの楽器の華奢で上品な音色は、すましたフランスの女の子のようではありませんか? 実は「ココ」とは、演奏している楽器のオリジナルを17世紀に作った楽器製作者の名前です。

16世紀イタリアのリュート曲「イタリアーナ」「シチリアーナ」「白い花」の3曲はいずれも明るく、どこか懐かしい音色です。

「コラショーネ」とはリュートを細身にしたような首の長い楽器の名前です。シルクロードを思わせるような哀愁のある響きを聴かせてくれます。

「私のヴィエール」と「ダイヤモンドより硬く」は中世のフランスの音楽。不思議な線を描くメロディが遠い時の流れを思わせます。

「月とりんご」のなかでかすかに聞こえるのはハーモニクスという奏法で出している倍音です。静かに聴いてみて下さい。

「コントラプント」はイタリアらしい華やかな装飾の二重奏。

「パヴァーナ」「ハカラス」「カナリオス」は17世紀スペインのギターの名手サンスの作品です。どこか今のフラメンコにも通じる雰囲気があります。使われているリズムは現在も共通しているものです。これもまたフラメンコ好きのつのだの手によって鮮やかに輝きました。

最後の「ガラタ橋から」はトルコのイスタンブールのイメージで書かれました。ガラタ橋はイスタンブールの旧市街と新市街を結ぶ橋です。使っている楽器はイスタンブールで買ったアンティークのラウタという楽器。独特の骨太の響きです。

 この「ダウランド アンド カンパニイ」からでているCDは、なかなか素晴らしいものが多く、波多野 睦美(ソプラノ)&つのだたかし(リュート)によるJ.ダウランドのリュートソング集「悲しみよ、とどまれ」TH4628や、つい最近話題になった「タブラトゥーラ」の「蟹」WPCS-10462など、どれも一度手にしたらなかなか離せない名アルバムぞろいです。

 

 

 

風の音楽室

最近聴いたCDから


2000.12.11

 

この1ヶ月くらいのあいだに聞いたCDなどのなかから、記憶にとどめておきたいものを、自分なりのメモリーのためにも、メモっておくことにしたいと思い立ちましたので、おつきあいください。なかには、どなたか聴かれたかたもいらっしゃるのではないかと思います。

 

■鈴木雅明/バッハ・コレギウム・ジャパン

 J.S.バッハ/教会カンタータ 全曲シリーズVol.13 〜ライプチッヒ1723-6〜

 BIS CD-1041

 「見よ,父の我らに賜いし愛の」 BWV64

 「汝の怒りによりて」 BWV25

 「我が魂よ,主を頌めまつれ」 BWV69a

 「汝の主なる神を愛すべし」 BWV77

 「いまや、われらの神の救いと力と」BWV50

 ソプラノ:野々下由香里ほか

 アルト:キルステン・ゾレク=アヴェラ

 カウンターテナー:ロビン・ブレイズ

 テノール:ゲルト・テュルク、櫻田 亮

 バス:ペーター・コーイ

  99/6、10録音 2000.11発売(輸入)

 BCJのJ.S.バッハ/教会カンタータシリーズも13枚目になった。ぼくのバッハ再発見の旅は、このシリーズで始まった。今年はバッハ没後250周年ということで、バッハ全集ものが流行。ぼくは全集までは手がでなかったが、廉価版シリーズをかなりたくさん購入して、この秋は、バッハ漬けになっていた。バッハのオルガンだけでもCDを20枚くらいは聴いただろうか。チェンバロのPieter-Jan Belderという人の演奏も感動ものだった。バッハの時間は、まだまだこれからも続いていくことだろう。

 

■富田勲「源氏物語幻想交響絵巻」

 ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

 DENON COCQ-83482 2000.11.18発売

 富田勲といえば、宇宙幻想がぼくのなかでは記憶に刻まれているが、これは、富田勲の源氏物語をテーマとした、オーケストラと日本の伝統楽器による音楽絵巻。かつての大河ドラマなどを手がけた富田勲とシンセサイザーを駆使した富田勲など、いろんな富田勲がここでは聴ける。

 

■人間みな兄弟〜夜がくる

 小林亜星コマーシャル・ソングズ

 CRCP-20254 2000.8.23発売

サントリー・オールドの名CMソングを19バージョン収録。ぼくの大好きなCMソングが、ここまでいろんなバリエーションで聴けるともううれしくなってしまう。

余談だが、このCMソングとよく似たメロディをかつてミッシェル・ポルナレフの曲で聴いたことがあるような気がする。ご存じの方はぜひ教えてください。

 

■矢野顕子 Home Girl Journey

 ESCB2181 2000.11.1発売

天才シンガー・矢野顕子のピアノ弾き語りシリーズのスーパーフォークソング、ピアノ・ナイトリーに続く3作目。今回も、やっぱりすごい。このスゴサはなんだろうと思う。ほとんどオリジナルよりもすごくなっている。最初の山下達郎のPaper Dollなんか、もう胸が張り裂けそうになってしまう。このシリーズは、もう一生の宝物になるだろう。果たして何作まで登場し、どこまでテンションが持続するか楽しみ。

 

■沢知恵「いいうたいろいろ2」

 CMCA-2002  2000.8.19発売

 これも、ピアノ弾き語りによるもの。なんだか、矢野顕子の別ヴァージョンっていう感じもするが、もちろん、矢野顕子ほどクオリティは望めない。それでも、なかなかいい味をだしている。選曲が、ちあきなおみの「喝采」や寅さんの「男はつらいよ」など、ちょっと土俗的なノリの部分もなかなか聴かせる。さだまさしの「風にたつライオン」なんかも、やはり泣ける。

 

■小林桂「ジャスト・ユー」

 TOCJ68050 2000.10発売

21歳の男性ジャズシンガー。クラシック・バレー、ミュージカルの主役なども。21歳でこんな声で歌っていいのだろうかという驚き。他のミュージシャンたちがいまひとつ味を出し切れていない、という感じもあるのだけれど、この小林桂のヴォイスは秀逸。この人が、ぼくぐらいの歳になったら、どんなふうに歌うんだろうか。とか想像してみると、なんだか想像もつかないほどスゴイかもしれない。今後、目が、いや耳がはなせないシンガーのひとりになりそうだ。

 

■宮沢和史「詞人から詩人へ」

 河出書房新社/2000.9.11発行

本書に収められた22篇の詩をTHE BOOMの宮沢和史が朗読したCDがついているおもしろい本。高校の頃から朗読などを聞くのが好きだったので、たまにはこうしたのを聞いて、耳を澄ませてみる時間はなかなかにいい体験になる。詩をよむときには、たまには自分で声をだしてみたり、だれか自分の好きな声の人をイメージして、その声を自分のなかに響かせてみるのもいいかもしれない。

 

■青木由有子「光は銀河の果てに」

 LYRA-3013 2000.9.21発売

「リラ・ヴォイス」による宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」などをテーマにした自然療法的音楽。ヒーリング・ヴィオイスとか、あまり聴かなくてもいい感じがするし、あまりこういうのばかり聴きすぎるのも情緒的すぎてどうかと思うのだけれど、たまにはこういうのを聴いてみるのもいいかもしれない。「リラ・ヴォイス」というとすごそうだけれど、そうでもない、と思いながらも、どこか不思議な魅力があったりもする。

 


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