デヴィッド・ボウイ:ヒーザン


2002.7.4

■デヴィッド・ボウイ:ヒーザン
 SICP153〜4 02.5.5
 
デヴィッド・ボウイの声をはじめて聴いたのは「スター・マン」。
金粉塗りたくりの姿とあの不思議な揺れかたをする声の妖しさ。
 
デヴィッド・シルヴィアンの低く響く声には
いつも溜息をつくばかりなのだけれど、
その声をかなり揺らがせながら、同時に、
甲高い、歯を見せてにやりと笑うような響きを伴ったような声。
いまだにこの声はぼくのなかで確かな位置を持てずにいたりする。
しかしそこが魅力だともいえる。
 
かつてはよく聴いていたデヴィッド・ボウイも、
その後ほとんど聴かなくなっていく。
とくにティン・マシーン以後。
あのティン・マシーンはぼくには聴けたものではなかった。
 
久々に聴いたのは、数年前(3年ほど前らしい)の「アワーズ」。
これは、そんなに気に入ったというわけでもないのだけれど、
ああデヴィッド・ボウイだな、という感じがしてわりと聴いた。
そして、この「ヒーザン」。
かつてのデヴィッド・ボウイがそこにいるのと同時に
どこか肩の力あが抜けた不思議なボウイの姿もそこに見えた気がした。
最近は、おりにふれて何度もこのアルバムを聴きたくなってしまう。
 
今回のアルバムは、69年の「スペース・オディティ」から
80年の「スケアスリー・モンスター」あたりを手がけたトニー・ヴィスコンティが
22年ぶりにプロデュースしたものだということだけれど、
(あまりそこらへんを意識したことはなかったのだけれど)
確かにプロデュースが変わるとやはりアルバムそのものがどこにいるのか、というか
その在り方そのものが変わってくるのだろうな、ということを実感。
最初の曲、Sundayの最初の声、
Nothing remainがきこえてきたときから、
その違いは確かに伝わってきたような気がする。
 
ところで、解説によると、最近のボウイは、
「きわめてオープンでフラットなものになってきた」。
オフィシャル・ウェブ・サイトでも、
ボウイはチャット・ルームやBBSなどにも気軽にでてくるらしい。
 
        作り出されたイメージ。例えば「有名人」「セレブリティ」だの「名声」
        だの、ぼくにはどうでもいいことだ。なんの価値もない。ぼくが大切だと
        思うのは「尊敬」だけだよ。アーティストとして作ったものに対して、人
        から尊敬を受けられるほど貴いことはない。でもそれ以外の「名声」なん
        てゴミ以外の何ものでもない。だからそういうイメージをくつがえしたり
        するのはおもしろいよ。神秘性なんていらない。だいたい神秘性ってなに?
        って感じ。だってぼくはロック・シンガーなんだもの。そんなの必要ない
        よ。
 
今回のアルバムはジャケットもかなりこったもの。
とはいえ、アントロ的な趣味の人は顔をそむけそうな
かなり背徳的なネタが使われてたりもする。
しかしそういう背徳的なもの、退廃的なもの、反抗的なものを避けるのではなく、
それを通りながらもそれを超えていくような在り方がないと
やっぱりあまりに面白くないなという感じもある。
ロックの魅力のひとつもそこにあるはずだから。
それに、精神科学的な意味での自我の展開も
そういうプロセスというのは不可欠なはずだと思う。
 
で、「だってぼくはロック・シンガーなんだもの」
その言葉は、すごいなと思う。
二十歳のシンガーがいうのではなく、
今のボウイがいっているのだから。
 
 


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