一・五次元サラダ


2002.5.14

        じゃあ今ならどうなんだ、と聞かれれば、少なくとも僕らの音楽活動を一
        枚岩にしてゆこうということは言える。僕らはジャズの経験もあり、ロック
        をやった経験もあり、クラシックも古楽器もやってきた。それらはみんなで
        一つの雲になるわけです。それを有り体に認めてやっていこうと。みんな同
        じでありながら違う、違っていながらおんなじ、という禅問答のような言い
        方しかないんですけど、そこがこの一・五次元という考え方の含蓄のあると
        ころで……。例えば、今日はチェンバロのコンサートに行ってバッハを聴い
        たけれども、そこで聴いたものは、一・五次元的な意味でジャズだったかも
        しれない、というようなことになってきているんじゃないか。それがある程
        度当たり前のことになってきたら、グレン・グールドの時代もチェリビダッ
        ケの時代も残念ながら終わりで、懐かしい二十世紀の一時代だったというこ
        とになるのかも知れません。
         つまりバロックの終わりにバッハやヘンデルが直面したことと、ある種似
        ているんです。バッハが生まれたときも時代は行き詰まっていました。バロ
        ックの爛熟とともに一種の閉塞感もあった。例えばコラール前奏曲の大家で
        あったラインケンは、もうこの芸術はおしまいだと思っていたのが、若いバ
        ッハの演奏を聴いて安心したという話があるんだけれど、一般的に個別のジ
        ャンルの中での純粋な発展はもう望めないという感じが多かれ少なかれあっ
        たようです。そこへバッハやヘンデルやスカルラッティらが出てきたわけで
        す。彼らがやるべきことは何だったか。それはサラダを作ることだったんで
        す。彼らが苦心したのはまず大きなお皿を作ることだった。そこに盛り付け
        る素材はすでに十分にあったし、極上の物がそろっていたんです。しかし、
        それを小皿に盛っていたのでは限界があったので、大きなお皿を作り出すこ
        と。それさえあれば、そこに何でも乗っけてかきまぜて、美味しいドレッシ
        ングをかければいい。バッハもヘンデルもそういう意味で大きなお皿を作る
        ことに成功したわけです。そのお皿には何でも乗っけられたわけ。そこに、
        それまでの人たちがやってきたことをもらってきて、組み合わせて盛りつけ
        た。それにバッハならバッハ・ドレッシングというものをかけたわけです。
        これをかけると不思議や不思議、全てがバッハに聞こえるようになる。それ
        がまたあまりに美味しかった。それに、なにしろそのデカイお皿でシャッフ
        ルされるということもそれまでなかったことだし。それぞれの素材はその前
        の時代を背負っている。それをかきまぜてバッハ・ドレッシングをかけたと
        いうことは、さっきの話でいえば、一・五次元なわけです。
         ーー一・五次元サラダですか(笑)。
         そうそう。これからの音楽家たちは、自分が持っているお皿の大きさが問
        われることになるわけです。そして、そのお皿に盛ったものに、どれだけ美
        味しいドレッシングがかけられるか。これも一つの課題ですよね。いくらデ
        カイお皿に山盛りであっても、ソースがまずかったら台無しですからね。こ
        の二つだと思います。
        (武久源造『新しい人は新しい音楽をする』
         ARCアルク出版企画/P97-98)
 
行き詰まって閉塞感のあるときのほうが、
むしろ使えるネタはそろっている、
というふうにとらえることもできるということに気づいた。
 
使えるネタが多いときに、
小さいお皿をもってうろうろしていても、
そのネタを生かすことはむずかしい。
せっかくいろんな飲み物がたくさんあるのに
小さなお猪口をひとつだけしかもっていないのは寂しい。
 
でも、ともそればそうしがちなのが現実なのかもしれない。
専門とかジャンルとか役割とかいうことに閉じこもって
ほかを見ようとしないほうが、不安を感じないで済むから。
 
しかしせっかくそういう可能性のある時代であるならば、
まずはどんなネタがあるのかを知るほうが豊かだし、
可能性に向かっても開かれている。
今は小さいお皿しかもっていなくても、
大きいお皿を探そうと思い始めることはできるし、
いろんな小さいお皿の種類を集めてみる楽しみもある。
 
もちろん、ただ大きいお皿であればいいというのもでもなくて、
それなりに一生使っていて飽きそうもないようなお皿を
探してみる必要はある。
というか、お皿は自分なわけだから、
自分で土を探してきて、それをこね、
釉薬をかけて焼く作業を楽しもうとすることが必要だ。
 
そこにいろんな気に入ったお料理を
気に入った仕方で載せてみる。
その美意識がその人の持ち味になる。
上記の例でいえば、特性のドレッシングをかける。
 
たしかに、音楽にしても、
思想や神秘学にしても、
現代は使えるネタには事欠かない。
かつて三蔵法師が砂漠を越えてお経を取りに行ったりしたような
そういう作業でさえ必要なくなっている。
そうしたことが容易になったぶんだけ、
その分、比較検討吟味への作業は不可欠になる。
それがなければただのカオスである。
すべてをぐちゃぐちゃにまぜて台無しにしてしまったお料理のようになる。
そして、そういうどうしても食べる気にならない料理も世には満ちていて、
味のわからない人がいて、それを平気で食べていたりもする。
 
さて、要は、自分はどうするか、だ。
 
 


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