2003

 

若林忠宏『世界の師匠は十人十色』 


2003.1.2

■若林忠宏『世界の師匠は十人十色/民族音楽レッスン記』
 (ヤマハミュージックメディア/2003.1.10発行)
 
以前見かけて少し気になっていた巻上公一の本を読んでみようと音楽のコーナーを探していたら、
それが見つからず、代わりに民族音楽の修行についての面白そうな本が見つかった。
著者の若林忠宏は、この25年間で120人ほどの師匠から
さまざまな民族楽器のレッスンを受けたという。
 
パキスタンのシタールの「ウスタード・シェール・ムハンマッド」、
インド古典音楽太鼓タブラの「パンディット・サンジャイ・ムケルジー」、
エーゲ海伝統民族音楽の「イリアス・ユズマルドゥス」、
アフガンミュージシャン「ズィアウッディン」、
ウズベク共和国の古都ホラズムの弦楽器タールの「ウスタード・アタジャノフ」、
現代トルコ音楽最高水準のサズ奏者「ジェム・チェレビ」、
プエルトリコのクワトロの名手「エドウィン・コロン・サヤス」、」
インド古典音楽弦楽器サロードの巨匠「ウスタード・ウマール・カーン」、
・・・などなど。
ほとんど名前など聞いたこともなく、
また楽器さえイメージが浮かばないような民族楽器とその名手たち。
 
いったいそんなことが可能なのだろうか?
そしてなぜそんなことをしようと思い、
またそれを実行してしまったのだろうか。
そもそもこの若林忠宏という人は何者なのだろうか。
 
そういえば、ぼくがはじめて意識して民族音楽を聞いたのは20年ほど前、
そのころ地方ではめずらしかったアラブ料理の店で、
マスターからモンゴルとピグミーの音楽を収録したテープを借りたときだった。
もちろんその店にはときおりアラブ系の音楽が流れてはいたし、
インド音楽とかいうのも聞いたことがなかったわけではないけれど、
民族音楽というのを意識して聞いたわけではなかったのだ。
そのテープがきっかけになって、その頃にはまだあまり手に入りにくい民族音楽を
おりにふれて聞いてみたりするようになった。
とはいうのの、その後もそうなのだけれど、
それは「新しい音」「聞いたことのない音」を聞いてみたいという
好奇心を超えるものではなく、ホーミーなどもわりと早く知ってはいて、
自分でも少し練習してみたりもしたことはあったものの、
やはりその上を好奇心が通り過ぎてゆくだけのことだったように思う。
それでこの若林忠宏という名前さえ初耳だったのだろう。
 
その頃は、まだクラシック音楽などさえほとんど聞いているわけではなく、
ぼく自身今ふりかえっても、その頃の自分の「耳」が
そんなに開いているとは到底思えないような状態だった。
今も似たようなものではあるのだけれど、
少なくともぼくなりに耳を開かなくてはという気持ちだけはもてるようになっていて、
聞き方だけは以前とは少しは変わってきているように思う。
ただただ新しい音楽というのではなく、
そこに多様性の中にあるその理念を聞き取りたいという思い・・・。
 
さて、著者も自問しているように、「師匠」とはいったい何なのだろう。
 
         思い返してみると、僕の場合師匠に裏切られたとか幻滅したということがない。
        誰に話しても「ひどい先生だネ」という人もいた。」が、それによって学んだ音楽
        の価値が損なわれたわけではないし、逆に素晴らしい先生に丁寧に学んだからとい
        って、その分多く身についているというものでもないように思える。いいかえれば、
        その人格あっての芸なのだ。その芸に惚れ込んで学びながら、人格に幻滅するのも
        変だし、逆に人柄が嫌になったからといって、芸まで魅力がなくなるって思えるの
        もおかしい。
        (…)
        「どんな先生がよかったか?」と自問した。「音楽馬鹿」という言葉が浮かんだ。
        たかが音楽されど音楽に、子供のように無心にはまっている先生は素敵だったなァ
        と思う。この本を素敵な音楽馬鹿列伝として読んでいただければと思う。
 
実際、こんなに面白く、共感できる「音楽馬鹿列伝」は少ないかもしれない。
こんな人がこの同時代に生きているというのは、それだけでうれしい気持ちになる。
 
ぼくにはこれまで「師匠」といえるようは人はいなかったし、
これまでと同じ意味でいえば「師匠」といえる人は
これからもいないのだろうけれど、
この本を読んで少し見方を変えてみようという気になった。
著者のスタイルとはまったく違うとしても、
この著者のようにあるテーマについて集中的に
ぼくなりに「師匠」を決めてそこから学べばいいのだ。
もちろんそれはこれまでにもある程度そうしてきたつもりのだけれど、
これまでよりももう一歩踏み込んだ形でそこから学ぶことで
得られるものも飛躍的に増えるのではないかということだ。
そして、ぼくはこれまでにも十二分に馬鹿だったのだけれど(^^;)、
「○○馬鹿」といえるような自分でもありたいと思う。
 
 


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