2003

 

BCJ・J.S.バッハ:マタイ受難曲(BS2)


2003.6.14

バッハ・コレギウム・ジャパンによるJ.S.バッハ:マタイ受難曲が
6月14日24:00-27:00、NHKの衛星第二放送でありました。
この4月18日の東京オペラシティでの演奏会を収録したもの。
 
最近は早寝早起きなので、ひさしぶりの夜更かしになりました。
3時間ほどに及ぶ演奏なのでいつも聴くというわけにはいかないのですが、
とくにこの演奏は聴くごとに覚醒してくるような素晴らしい演奏。
CDにもなっているBCJのマタイ受難曲(1999年の演奏)が
さらにダイナミックかつ繊細になり豊かで完成度を高めている印象があります。
BCJの演奏はつねに進化し続けていることを実感させられました。
 
ぼくがチラシなどを手伝っている「高知バッハカンタータフェライン」にも
出演しているカウンターテナーの上杉清人さんが
今回はソロのひとりとして出演しているのもうれしい驚きでした。
その「高知バッハカンタータフェライン」の3月の演奏会では、
その上杉さんは、カウンターテナー、テノール、
それからリコーダーとひとり三役の大活躍でした。
それからその演奏会でヴィオラ・ダ・ガンバを演奏されていた
櫻井茂さんも出演されていたのも印象に残りました。
 
また、ヨハネ福音書が秘儀的であるのに対して、
マタイ福音書は人間イエスを描いているとシュタイナーがいっているように、
ヨハネ受難曲に対して、ほんとうに人間的なドラマチックなマタイ受難曲。
最後の合唱で、「お休みください。苦しみ抜いた御体よ」とあるのも
象徴的といえるでしょうか。
ヨハネ受難曲もBCJは二度CD化していますが、
このマタイ受難曲と比べてきいてみるのも感動が深まりますね。
 
ところで、今回は映像付きで鑑賞できたということもあり、
たとえば全体が第一グループと第二グループに分かれた
重奏構造になっていたりするような
複雑な演奏形態など、かなりイメージしやすくなりました。
 
その点について、CD(KICC293/5)にある
鈴木雅明さんの解説から少しひろってみることにします。
 
         そもそも、バッハの受難曲の演奏に際しては、作品の基礎をなす3つの異なった
        層をどのように捉えるか、がまず第一の課題でしょう。エヴァンゲリストとイエス、
        そして群衆(Turba)が担う客観的な事実描写としての聖書記事、個人的な信仰を歌
        う自由詞によるアリア(と一部の合唱)、そして教会的信仰告白としてのコラール、
        というこの3つの要素が、異なった時間と空間からこの作品を立体的に構成してい
        るのです。
        (・・・)
         しかしこれらの3つの層は、決して3つの演奏者群に分担されたのではありませ
        んでした。バッハが残したオリジナルパート譜を見ると、上記のテキストの機能と
        は無関係に、全体が第1と第2グループに分かれ、それぞれがこれらの重層構造を
        持つように設計されているのです。その上、合唱はもちろん、エヴァンゲリストや
        イエス役でさえ、決してそれらの役に徹するのではなく、同時に合唱部分もアリア
        やコラールをも歌っていたことがわかるのです。これは、考えてみると非常に滑稽
        なことです。なぜなら、ある時は信仰を告白し、ある時はイエスの愛のわざを称え
        るアリア役が、こぞってイエスを嘲り、断罪するユダヤ人の叫びにも加わることに
        なり、イエス役に至っては、自分自身を「十字架につけよ」と叫ばねばならないか
        らです。
         実はこの不思議な構造にこそ、本質が宿っているのかもしれません。つまり、こ
        の作品の本来の姿は決して、オペラのように登場人物が別々の役を担い、物語を追
        って劇を演ずるのではなく、演奏者すべてが、ある時はユダヤ人であり、ある時は
        忠実な(つもりの)弟子であり、またある時は、イエスへの信仰を告白するシオン
        の娘ともなるのです。
        (・・・)
         バッハの受難曲演奏の構造は、イエスの弟子が「(裏切るのは)私ですか、私で
        すか」と問うた直後に、その同じ合唱の口をもって、「私です」という罪の告白を
        なさしめる一方で、一瞬のうちに「バラバ!!」と叫び、「十字架につけよ」と罵
        るユダヤ人にもなりうる自分を体験させてくれます。
 
「演奏者すべてが、ある時はユダヤ人であり、ある時は忠実な(つもりの)弟子であり、
またある時は、イエスへの信仰を告白するシオンの娘ともなる」。
それはもちろん、聴くほうの私たちも、あるときはイエス自身となり、
弟子となり、イエスを断罪するユダヤ人にもなるような
とても矛盾した、しかしそれゆえにみずからを重層化させる聴き方が
ドラマチックなかたちで可能になるということでもあります。
 
今回の演奏で、そうした部分もまた
あらたな感動のもとにより効果的にクローズアップされたのではないかと思います。
 
 


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