日々の生活のなかで、音楽が必要なときがある。毎日、どんなときでも 音楽が空気のようにあればいい、などとは思わない。電車に乗っていれば 本も読むし居眠りもする。ぼんやりと考えごともする。歩いていれば、ま わりにあり、また通り過ぎてゆく音を、聞くともなく耳にしている。ホテ ルのロビーで人と待ち合わせたり、どこかの店に入れば音楽が流れている こともあるだろう。でも、自分で音楽を聴こうと、レコードなりヴィデオ なりをセットすることは、一日のうちそれほどあることではない。 ぼくは音楽のない日常的な時間と空間を大切に思っている。いや、大切 にするなんて意識さえ特にない。自然に、そうなっていればいい。たとえ 仕事だからといっても、朝から晩まで音楽に浸ることは可能なかぎり避け たい。音楽があることがあたりまえであるとは、けっして思えないから。 もちろんこれは個人的な考えにすぎないが。 音楽が渇きのように必要なとき、心身が欲してしまうとき。この渇きの 感覚を失くしたくないからこそ、音楽漬けでありたくない。 どんなものでもいいわけではない。レコード棚を前にして、端から端ま で指先で一枚一枚はじいてゆく。しかしどこか違う。ちょっとしたところ で、いま、いりような感覚にフィットしない。この一枚、この「一曲」が 欠けている。この一枚、この一曲見出せないとき、音楽を聴くことはむし ろ鬱陶しくさえある。いま、このとき、に、いりような、心身が欲してい る音楽はほんのわずかだ。これではだめ、あれでも違う、その狭い選択の 幅、あまり代替できないものをしっかりと気づいておきたいし保っておき たい。 音楽が必要となるとき、心身は何かを欠いている。元気さなのか、ある いはメランコリックであるがゆえにそれにもっと没入したいとか、孤独の かたちを曖昧ではなく縁どってみたいとか。それは、通常の、平静な気分 とはどこかしらはずれたり、大きくなったり小さくなったりしている状態 であるかもしれない。 (小沼純一『バカラック、ルグラン、ジョビン』 平凡社/2002.12.9発行P7-8) なぜあれほど音楽を必要としていた頃があったのだろう。 深夜などいつもラジオの音楽番組を聞いていたかった。 今はもうそんなことをする気には到底なれない。 聞きたくない曲を聞かされる音楽番組などはかなりつらい。 聞きたくない曲の多くというのは、 あまりにルーティーン化しているだけで、 そこに耳を開こうという気にさせない。 新しい音楽!を聞きたいという気持ちは変わらずあるのだけれど、 すでにそれらの音楽はぼくのなかでは 何ら新しいものではなくなっているからかもしれない。 音楽に乾いていた頃、買い求めたレコードは 隅から隅まで何度も何度も聞くことが多かった。 その頃聞いた音楽はぼくの心身に刷り込まれているのではないかと思う。 それらの音楽はかならずしも素晴らしいというわけでもなかっただろうけれど、 それらがある部分、ぼくの一部となっていることは否定できない。 だからその最初の一音が響くとぼくのなかではその曲の全体が浮かび上がり その全体を確かめるようにして聞いてゆく。 今でもそういう音楽はあるが、 それはかつてのように、そこに浸っているようなものではない。 気分をチューニングするために聞く気軽な音楽を別にすれば、 聞きたい!と思える音楽は、ぼくを開かせてくれる音楽とでもいえるだろうか。 たしかに、「音楽が必要となるとき、心身は何かを欠いている」のかもしれない。 なにかが欠けている…。 新しい音楽が聞きたい!というのは、ぼくのなかでそれらが欠けていて それをどこかしら補ってくれるものであると同時に、 それはぼくのなかでポエジーへの渇きがあり それゆえにその音楽によってぼく自身を変容させたいということでもあるのだろう。 それは、ぼくを開かせてほしい!という切なる願いでもある。 だから観光地で垂れ流されているBGMなどはただの憤りでしかない。 音楽がまったく必要とされていないどころか それが邪魔にしかならないような場所で スピーカーから流されてくる排泄物のような音楽。 そういう音楽はむしろぼくを別のところに閉ざしてしまうことにもなる。 音楽ではないが、選挙でがなり立てられる名前の連呼もそれに似ている。 何の内容もない、ただ名前を覚えさせるためだけの、 しかも多くは本人でさえなく、応援者が白い手袋を車の窓から振りながら アナウンサーなどが垂れ流す名前でしかなかったりもする。 そこには何のポエジーも存在しない。 |
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