2003

 

聞こえない音楽


2003.3.9

         「聞こえない音楽」とはどんなものであり得るのか、考えてみたい。
         最初に、あるとき私たちの中で鳴りやまないなにかの曲の一節とか
        全体、といった体験。音楽を聴いたあと、その余韻がいつまでも心の
        中で響き続ける。あるいは自分の好きな曲をふと想い出す、と、その
        曲が内に流れ始める。それらはもはや現実の音楽ではなく、魂の中に
        浄化され甦った音楽であり、これも「聞こえない音楽」のひとつであ
        ろう。
         空想の音楽というものもある。それは私たちの空想の中にあって、
        いまだ形が与えられていないが、やがてはこの地上の音楽として楽器
        や声を借りて姿を顕わすはずのもの。しかし、この「聞こえない音楽」
        を「聞こえる音楽」にするのは至難の業である。
        …
         あるいはまた、これまで再三記してきたように、大自然の作り出す、
        人間には聴きとることのできないさまざまな音の「音楽」というもの
        もある。
         さらには、シンと澄みわたった無音の状態というものも私たちは体
        験する。現実にはなんらかの音を聴いているはずだが、なにも聞こえ
        ていない。そんなとき、私たちは無音を、いうなれば「零の音楽」を
        聞いているのだ。
        (新実徳英『風を聴く 音を聴く/作曲家がめぐる音宇宙』
         音楽之友社/2003.1.10発行/P54-55)
 
あすなひろしという漫画家の作品のなかで、
「風がきこえる」というシーンが印象に残っている。
物理的には聞こえることのない音がたしかにそこに響いているのを
登場人物たちがたしかに聞いている。
そんなシーンだったろうか。
 
聞こえないものを聞くというのは
いったいどういうことなのだろうか。
逆にいえば、聞こえるということは
いったいどういうことなのだろうか。
 
私たちはさまざまな音を
物理的に耳にしているのだけれど、
なんらかの振動を音として受け取っているのだけれど、
それを聞くということはいったい・・・。
 
耳は目のように閉じることはできない、とは
寺田寅彦のことばだが、
耳は開いていても、聞いていないことがある。
聞くということは、
物理的な振動とは必ずしも同じでない。
 
音楽を聞くというのは
ふつうの聞くということよりも
さらにただの物理的な振動とは重ならなくなる。
音は聞こえているのだけれど、
それが音楽として働かないこともある。
同じ音楽であるはずのものが、
ある人にはかぎりなく美しく響き、
ある人にはまったくのノイズとして響いてしまう。
その違いはいったい何だろうか。
 
見るためには、
私たちは内に太陽をもっていなければならない。
そう言ったのはゲーテだが、
聞くためには、
私たちは内に何をもっていなければならないのだろうか。
 
音楽と数学との関係もそこにあるのかもしれない。
私たちじしんがどんな楽器であり得るか。
そのことも重要なことなのかもしれない。
 
そうしたことを考えていくと、
聞こえる音楽と聞こえない音楽との差は
そんなに大きなものとは思えなくなる。
ときにはむしろ聞こえない音楽のほうが
私たちをかぎりなく大きな楽器にしてくれるのかもしれない。
 
 


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