2003

 

ピアニッシモ


2003.3.11

         ひきつづき静寂=ピアニッシモについて考えている。0と1、無と
        有、の間にはかぎりなく隔たりがある。だから「聞こえない音楽」の
        となりに、「かすかに聞こえる音楽」があるわけではない。
         けれど、「かすかに聞こえる音楽」が始まるとき、私たちは、それ
        を音の闇=静寂から生まれ出てきた音楽のように感じることができる。
        音の闇にかすかな幽かな光が差し込んでくる。
        …
         普通には聴くことのない極端なピアニッシモは音の異化作用を惹き
        起こす。ヴァイオリンの音であってヴァイオリンの音ではない。クラ
        リネットの音であってクラリネットの音ではない、そのような音を得
        ることは、つまり新たな音素材を得ることにも等しい。同時にそれは
        音楽の存在の仕方にも関わってくる。
        (新実徳英『風を聴く 音を聴く/作曲家がめぐる音宇宙』
         音楽之友社/2003.1.10発行/P56-58)
 
ピアニッシモはホメオパシーに似ている。
 
音が闇に向かって吸い込まれていき
しかも闇に消えてしまうのではないとき
そこに音の変容が起こる。
変容した音空間が現出する。
 
闇の向こうにある空間から
変容した音が訪れてくる。
宇宙の果てに向かう光が
その果てに逆方向から帰還してくるように。
 
「静寂」というのは無音ではないのだろう。
むしろそこはピアニッシモに満たされているのかもしれない。
 
瞑想もそんなピアニッシモに似ている。
私がいなくなるのではなく
私が変容して無から立ち現われてくる。
 
ピアニッシモを聴き取る耳は
みずからの変容に立ち会うことにもなるのかもしれない。
それはまさに「音連れ(訪れ)」。
 
 


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