武満徹レゾナンス PARTIII

「ひとつの音に世界を聴く」ノート1

花鳥風月


2002.12.30

        武満 竹本義太夫の言葉ですか、「口伝は師匠にあり、稽古は花鳥
        風月にあり」
        山城 元祖義太夫の言葉です。
        武満 花鳥風月というのは、どういうふうにお考えになっていらっ
        しゃいますか。私はひじょうにいい言葉だと思います。
        (…)
        やはり私がいちばん知りたいのは、いま俗にいわれている詠嘆的な
        花鳥風月じゃなく、もっとひじょうに大きな、東洋といいますか、
        日本独特の、ある意味では哲学的な、宗教的な考え方…
        綱大夫 そういう文章のむつかしいことはわれわれはわかりません
        けれども、さきほどの師匠の話にでた昔の三味線の大名人で、豊沢
        団平という方があったのです。その方がある後輩の三味線弾き、そ
        の方もりっぱな方ですけれども、その方になにか用事をいいつけた。
        それで八百屋さんかなにかに、女中さんがわりにお使いにいったわ
        けです。そうして帰ってきたら、「早かったな」用事から早く帰り
        すぎたといって団平師匠がおこるのですよ。なんでおこられたかと
        いったら、「おまえ、道を歩きながら、なんでもっといろいろのも
        のを見てこぬ」という。「お豆腐やさんはお豆腐屋さんのかつぎよ
        う、金魚屋さんは金魚屋、みなかつぎ方がいろいろ違うやろ。その
        風を見ておいて、そういう人物が登場人物として出ているときに、
        それを三味線で表現するように心がけないかん」用事をしていても、
        さといって、ぱっと帰ってきて叱られたのははじめてやとゆうて、
        その叱られた師匠が私に言うてくれましたがね。そういうところに
        も、いろいろ教えられるところがあるじゃないかということ、これ
        も花鳥風月のひとつだと思うのです。
        (「義太夫の世界」豊竹山城小掾・竹本綱大夫・武満徹
         武満徹対談集『ひとつの音に世界を聴く』晶文社
         1975.10.30発行所収/P31-32)
 
ここでいう「花鳥風月」は示唆に富んでいる。
道を歩きながらいろいろ見るものも、たしかにまさに「花鳥風月」。
そういう「花鳥風月」に対して自分はいかに鈍感なことだろうか。
 
私が世界に対して開いている「窓」は、思いのほか狭い。
それなのに自分ではふつうはそうは決して思ってはいない。
五感(シュタイナーによれば十二感覚)で
ありのままに世界をとらえているように思い込んでいても、
実際のところはきわめて抽象的な形で条件化された仕方でしか
世界をとらえてはいないのである。
そのとき世界は最初からがんじがらめでカチコチと硬直した姿をして現われる。
そしてその姿をとって現われたものに対して、戦ったり恐れたりする。
すべては自分のひとり相撲に近い投影でしかない。
そこではなにも始まらないし、妄想以外なにも創造されることはない。
世界はまさにマーヤーとして現われる。
 
シュタイナーは、外界(自然界)に対しては羊飼いたちのように素朴で敬虔な眼差しを、
内界に対してはマギたちのように厳しく冷静でくもりない眼差しを、
ということを述べているが、
引用で述べられたような「花鳥風月」に対して
私たちはどれほど羊飼いたちのように素朴で敬虔な眼差しを注げているだろうか。
 
「おまえ、道を歩きながら、なんでもっといろいろのものを見てこぬ」・・・
 
ほんとうに私たちは世界に対して「敬虔な眼差し」を失ってしまっているのではないか。
また自らに対してはマギたちのように
厳しく冷静でくもりない眼差しを向けているだろうか。
その両輪があって、外界と内界はともに手を携えて宇宙を創造していくことができるのだろう。
 


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