武満徹レゾナンス PARTIII

「ひとつの音に世界を聴く」ノート2

外側に立ってみる


2002.12.30

        武満 世阿弥の言葉ですけれども、最初はへたで、中くらいにひじょうにうまく
        なって、それからもう一度へたに戻って、それでほんとうにうまくなるというこ
        とで、私はそのへたということは、ひじょうに大事ではないかと思います。
        (…)
        綱大夫 それで自分の修行中といいますか、一生の長いあいだにおもしろいのは、
        自分で少し上達してきて、はじめの初心のあいだは、まずいまずいといっており
       ますが、途中でうぬぼれてきまして、おれはなんてうまいのだろうと思うときが
        あるのですよ。天狗の鼻がツーッと高くなってきてね。それからしばらくすると、
 
        途中でカチンと鼻を打ってしおれてしまって、もうやれませんというときがあり
        ますよ。ところが、くさっていると、上のえらい人が「くさりな、くさりな」と
        慰めてくれましてね。くさって悲観しているときは、芸が上がっているというの
        ですね。
        武満 物事が見えてくるわけですね。
        綱大夫 それと、しじゅう自己反省していなければいけませんね。自分の芸を自
        分がやりつつ、外側に立って見ているという。これはむつかしいことなんですけ
        れども……。これは師匠の前でもあまり話さないことですけれども、自分の崇拝
        している師匠は、絶対崇拝でしょう。だから崇拝している師匠一本で、ある程度
        までは必ずくるわけです。そこにある年限たってくると、師匠の芸に疑いをもっ
        てくる。いちおう疑うのですよ。疑ってみて、またほかのものを探してみる。師
        匠にかわるものを探してみて、それでなおかつやはりうちの師匠はすぐれておっ
        たいうて、もういっぺん戻ってくる人が、つまりほんとうの師匠の崇拝者であり、
        師匠の弟子であると思うのですよ。あくまでも崇拝しながら、一生わき目もふら
        ない。これはひじょうにいい言葉なんですよ。師匠一本でくるということはいい
        けれども、それだけでは、ある程度狭いところがあるのですよ。つまり私なら私
        が山城少掾一本でくるということはね。だから私が先に申し上げたように、師匠
        がおやりになっているやり方と違ったやり方をあいだにします。しかしそれは決
        して脱線しておらない。ある型があって、それをやる。師匠はそれを聞いて、そ
        の型はだれがやったといわれる。「お師匠はこないおやりになるけれども、私は
        この型もいいと思います」というと、じっと考えて、「それはいいな。わしもそ
        れをやろう」と言います。これは師匠を礼讃するわけやないけれども、たいへん
        えらいことで、ぼくはどこへいっても自慢するのです。普通の人なら、「わしの
        言うのがどこがいかん。わしの言うとおりやったらいいのだ」と言いますよ。
        芸のためには、師匠のご機嫌にさからっても、師匠と議論をやってもいいと思う
        のですよ。
        (「義太夫の世界」豊竹山城少掾・竹本綱大夫・武満徹
         武満徹対集『ひとつの音に世界を聴く』晶文社より」/P36-37)
 
百足が自分の足を意識して歩けなくなる。
それまで百本の足はなめらかに順序よく動いて身体を動かしていたのに、
今自分は何本目の足を動かしている、とか
次にはどの足をどのように動かそうとか意識してしまうと、
自分がそれまでどのようにして足を動かしていたのかわからなくなり混乱する。
 
自己意識というのも同じで、
意識が自分に向かわないときにはとくに混乱のなかったものが、
つねに自分の意識を鏡に映しながら意識を働かせるようになると、
百足が自分の足を意識したような状態になってしまう。
 
そのとき自分は自分でありながら、
自分の外にも立っているということになる。
つまり、自分は自分でありながら他者でもある。
 
そうした自己意識の希薄な人は、ともすれば自己意識を持っている人を笑うかもしれ
ない。
どうしてちゃんと歩けないんだい!おかしなやつだなあ、と。
しかし自己意識の希薄な人が歩けるのは、
自分のなかに他者を抱え込んでいないからにすぎないのだ。
自分だけ歩いたり走ったりすればそれで住む。
 
自分のなかに他者がいると常に自分のなかに対話が生じる。
自分のなかに自己ー他者がいて
その両者の矛盾を常に弁証法的に解決しなければならない。
いや自己ー他者どころか、自分のなかはまるでカーニヴァルなのだ。
自分のなかでさまざまな主体が遊戯している。
 
その遊戯の質と量がどれほどのものかによって、
おそらくその人の「芸」が決まってくる。
もちろんここでいう「芸」は特定の芸のことではなく、
その人の生、いや生ー死を超えた存在としてカヴァーできる宇宙のこと。
 
人間が「個」的存在となり、
個的な自我を有するようになり、
自由な思考の可能性に向かって開かれるようになると、
かつてもっていた集合的な叡智や
それまで自分の属していた集合的なさまざまから離れざるをえないし、
それゆえに非常な稚拙なまでのあり方を余儀なくされるのだが、
そういう「もう一度へたに戻」るという運動は
前に進むための大きな一歩でもある。
ハムレットは常に悩んでいるが、その悩むことそものが、
いわばキリスト衝動による大きな一歩でもあるのだ。
 


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