武満 私、なんとか流とかいうようなことではなくて、ほんとうの琵琶の音色、 それは、ただ一つしかないのではないかと思うのです。 辻 そうです。琵琶の音色は共通した一つしかないのですよ。 武満 それがなにか形にとらわれて、そういう紆余曲折のなかだけに、抹消の ことに力を注いでいるように思うのです。それは間違いじゃないでしょうか。 辻 そういうことは、琵琶の音色のその真髄をつかんでいないからでしょう。 ただ叩けば鳴るから、押さえれば鳴るから。ただそれだけではほんとうの真髄 はつかめない。たとえば撥で打とうと思ったとき、その撥がはずれても、そこ にはなにか残っているということですね。そういう境地というか、そういう雰 囲気というものがないのですね。ですからまねごとになってしまうのです。だ けれども真のものをつかむということはなかなかむずかしくってよういに出来 ない。やはり信ずる師匠の芸風にほれ込んで充分に修練していかないとだめで しょうね。 武満 その真の音色、はたしてそれは何か、それはきっとわからないと思うの ですけれども。それがわかれば話はごく簡単でしょうが、みなが何百年も歴史 をかけてもとめている音色というものの実態がよくわからないのと同じで、結 局これは人間というものはなんだろうかということになるんですね。 辻 それは人間はなんで死ぬんでしょうかということです。どうして死ななけ ればならないのかということですね。これは自然の法則なんだ。種子が土のな かに入って、春になれば芽を出し、秋になれば実を結んで、そいつをみんなに 食べてもらったりして、また土のなかに入る。それと同じことではないかと思 うのですね。自然の中に飛び込み、すばらしい修練の結果生まれて来た音は、 やはり美しい真のある音であろうと思う。ただ人間は欲があってその美しい音 にいろいろの邪欲をぬりつける。そこに真実の音を破壊してしまう。人間とい うものは心身を鍛えながら自然にかえり清々しい気持ちで琵琶を弾く。そこに 美しい琵琶の音が生まれてくると思うのです。 武満 私、それはいままでの東洋のすべてのもの、それが最後の、そし、は じまりの地点だと思います。日本の音楽というより、禅とか宗教であったり、 哲学であったりするわけですね。 (「薩摩琵琶の世界」辻靖剛・武満徹 武満徹対集『ひとつの音に世界を聴く』晶文社より/P36-37) ただ一つしかないほんとうの音色。 その音色はおそらくほかの音色を排除したただ一つなのではなく、 ほかの音色すべての可能性をそこに含んだものなのではないか。 一が即多であるように。 しかしそれはどんな音色でもいいということではなく、 ただ一つしかないほんとうの音色へと向かうことによってしか 聞き取ることのできない音色でもあるのだろう。 原植物はそこにはないが、たしかにあるように、 原音色はそこにはないが、たしかにそこに鳴り響いている。 そのただ一つの音色を聞き取ること、 そしてその途方もない経験を その音を響かせることに向けて修練していくこと。 ぼくは単に音楽を聞くのが好きであるにすぎず、 その好きをただただ自分なりに納得させたいだけという きわめてわがままな素人でしかないのだが、 いつもなにか「ただ一つしかないほんとうの音色」を 求めているというところもあったりする。 それは決して行き着けない望みでもあるのだけれど、 ときおりかすかな予感を感じさせてくれる、 そんな音に出会えることもある。 それは、その音そのもののことでもあり、 またぼく自身の絃がちょうどいい張り方をしているときでもあるだろう。 おそらくその両者は別者ではない。 ぼくと世界が共振できる希有のときを求めて、 ぼくは音を探し続けているのかもしれない。 |