武満徹レゾナンス PARTIII

「ひとつの音に世界を聴く」ノート4

法竹


2003.1.2

        海童 これは何わざにしてもみんなそうですが、結局は、ほんとうの音と言い
        ますか、すべての音は、なんにもない音が基本です。
         たとえば法竹をききながらイビキをかく人がいます。それで法竹の音をそれ
        に合わせつつすーっと消していくと、イビキだけが残る。イビキだけが音楽と
        して、現在ただいまに露現して、私と調和した音を出しているのです。また法
        竹を吹上している側で、すき焼きの音を立てている。そのときは、すき焼きそ
        のものと自分が同化するのです。自分がすき焼きの音になるのですが、側の皆
        様はすき焼きと法竹を別ものと思っているけれども、実はすき焼きを吹いてい
        るわけです。法竹とすき焼きが音によって一如ですが、法竹のほうを聞かせる
        からなんですが、法竹を止めさえすれば、すき焼きの音に化した自分が天地い
        っぱいに、この部屋ならこの部屋中に満ちているわけです。それを皆様はすき
        焼きの音とばかりに思って法竹の音も食っています。そうしたことはみな機縁
        によってできるわけでございます。自然の風景を見ながら、法竹の音を段々細
        めて、自分をのせますと、自分は針みたいな精神になります。つまり張り切っ
        た微妙音になり切った神秘の姿です。が、そういう工合になってくると、宇宙
        の精神に通じて、隣の部屋で針が落ちる音も聞こえてくるのです。
         このように微妙音につれて自己は一切になり切って世界観が広くなったとき
        には、有音は逆に邪魔になる場合があります。だから、統一の精神というもの
        を音であらわす場合には、音は非常に細くなります。呼吸に関係するからでご
        ざいます。これまで音、音といってきましたが、音じゃなくて、ほんとうは呼
        吸なのです。呼吸が、澄んできて、精神が、統一の最高調になってくるほどに
        音も同時に、澄みとおってくるのです。それを大気と一如のようにさせていけ
        ば、このまま、自分の吹いた音というのは、宇宙に遍満するわけです。心の面
        から、このことを宇宙心の躍動というのです。
        (…)
         すき焼きの音を記譜するというのは、まだ七音階にとらわれている考え方で、
        それでは微妙さがありません。
         宇宙の音階ーーそれは無です。無というのは無数のことで、宇宙間には人間
        の考えた音階だけでなく、けだもの、鳥類。山川草木たちの音階があると思い
        ます。すき焼きの音も記譜しようと思えば、どの音階からでもできます。人間
        ができないからといって、記譜できないことはないのですが、そんな記譜より
        も宇宙心が音のはたらきと化すことを知るのが大事です。
        (「海童道の世界」海童道祖・ジョンケージ・武満徹
         武満徹対集『ひとつの音に世界を聴く』晶文社より/P72-74)
 
この対談での海童道祖の話はかなりすごい。
「法竹」とかいうのもぼくはまるで知らなかったのだが、
こういう世界があるということを知り、
それが武満徹の音楽とリンクしているのを知ると、
またひとつ武満徹の音楽への関心が深まっていく。
 
面白いことに、この対談のなかで、海童道祖は、
武満徹が「先生のおっしゃることは、ほんとうに私が考えていることと一つなんですね」
と言うのに対して、このように応じている。
「さきほど私を音楽家だとおっしゃっていただいたことはありがたいやら閉口です。
別に音楽家とは思っていなかったですから、そのへんのところですか、意見の違いは。(笑)」
「とにかく私は、音楽家が嫌いで、宗教家が嫌いで、芸術家が嫌いです。
それではいったい何だ、と言われれば、何でもないということになりますが。……」
そして武満徹は「私には、自分は音楽家でしかないという考え方があります。」と言う。
 
どちらにも頷いてしまう。
その矛盾は矛盾ではない。
その矛盾こそがおそらくは世界を展開させていく。
 
「私」はほんらい何者でもない。
そして「すべての音は、なんにもない音が基本」である。
しかし、「私」は、ペルソナであるにせよ、
何者かという顔をしてこの地上を生きていて、
その顔でなにがしかのことをなしている。
そしてさまざまな音はなにがしかの音というペルソナを持ちながら、
この世界に多彩に響いている。
これが「一即多」ということであり、
世界が存在しているということそのものではないのだろうか。
 
山川草木悉皆成仏ということのほんらいには、
すべてのものが「一」であってかつ「多」であるということがあり、
それゆえにその限りない多様性、それぞれの「音階」を持ちながら、
その根底にそれぞれの「音階」を根底で響かせている「宇宙心」がある。
そして「宇宙心」がある「音」として顕現するのを聞き取ること。
その聞き取ったものをどのように具体的に表現していくか、
それを課題にしていた(とぼくには思われる)武満徹という音楽家がいる。
 
人にはそれぞれに顔があって、
その顔なくしては表現ができない。
それはペルソナ=パーソナリティで、
それが窓となってその窓から世界を臨むことができる。
その窓の一つが音楽家だったり、宗教家だったり、芸術家だったりする。
 
窓の開け方次第で世界はさまざまな見え方をする。
そしてその窓はその人のものだけではなく、
人の窓を知ることで窓の可能性は開かれていく。
しかし人はさまざまな窓があることに対して自らを閉ざそうともする。
今ここから見えている景色こそが中心であってそれ以外は些末だとさえする。
または他の窓のことを知るのがこわい。
自分というペルソナの別の可能性を見るのがこわい。
それとも自分のペルソナ=仮面の下の顔が
ひょっとしてのっぺらぼうであることがこわい。
あるときには、人が「こんな顔かい?」といって
のっぺらぼうをひょいと見せられることがこわい。
そのために、自分のペルソナ=仮面に後生大事にしがみつく。
 
しかし逆に自分のペルソナがペルソナであることを自覚しながら、
そのペルソナゆえにできることを追究していく向きもある。
そのために音楽家は音楽家として聞き取ったものを表現していく。
そのおかげで、ぼくはこうしてその音楽をきくことができる。
その喜び・・・。
 


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