武満徹レゾナンス PARTIII

「ひとつの音に世界を聴く」ノート5


2003.1.2

        海童 禅のほうで、喝、ということがございますね。あれも音楽でございます。
        喝を音楽と解釈しないところに間違いがあるのです。あれは音楽ですよ。音楽
        的なリズムを入れていないだけです。宇宙はありとあらゆるものを包含した一
        大響音体です。石を叩いても音を発するわけです。喝というのも、宇宙心によ
        る音楽なのです。この音はなにものぞと言うわけで、その音をどう聞くかによ
        って、聞き方に幾通りのものがあるのです。つまり差別的な聞き方があって、
        最後はやはり喝の一字に還元します。ふつうには、禅で喝と言ったら、それは
        音楽ではないとして、楽器を使ってやるものが音楽だと思っているのですが、
        そうじゃなくて、喝を平等の観点からすれば、心の作用、即ち全体作用を直に
        具現するもので、差別の観点からすれば、一声で色々な感覚を表現しており、
        即ち音楽の一つの基本でございます。
         喝と同様に、私も随時に、夜通し山へこもって、一つの音だけを勉強するの
        です。すれはたった一つピーという音ならピーに徹して、この音だけを錬磨し、
        曲調を錬磨するのではないのです。それで、音楽を発する時に最初出る音とい
        うものに、非常な妙味があるのですね。(…)
        音は宇宙露現の境からみますと、鳴らさなくても鳴っているのです。茶碗でも、
        箱でも、部屋自体でも、みな鳴っています。私の用いる法竹たちも、真昼間に、
        勝手勝手に鳴ることがあって、ミリミリという音や、ボーという音を出してい
        るのです。この法竹をとつかまえると音が止まり、どの法竹が鳴っているのか
        わからず、気味悪くなります。テーブルでも叩き方で、もう音が生きてきます。
        これを、修行に来た人にやらせるんですが、音が生きないのです。ところが、
        露現を体してやってみると、音が躍動するのです。
        (「海童道の世界」海童道祖・ジョンケージ・武満徹
         武満徹対集『ひとつの音に世界を聴く』晶文社より/P80-81)
 
私は一個の楽器であるように、
世界にあるすべての存在は楽器である。
 
しかし同じ楽器でも奏者が変わるとその演奏が違ったものになるように
同じ楽器だからといって同じ音を出せるとはかぎらない。
 
私は一個の楽器であると同時に奏者でもある。
楽器であるとともに奏者であるというのは
人間であるということにほかならないのではないだろうか。
 
また人間は自分という楽器を創ることのできる存在でもあり、
ほかの諸存在の音楽を聞き取ることができる存在でもある。
 
そうした存在が音を発することの可能性を思う。
可能性というのは、両面に開かれている。
 
死んだ音を出すのは容易なことで、
死骸の踊る音楽のようなものは夥しくこの地上にたれ流され、
その音楽に合わせてまた死骸のような存在たちが歌って踊ったりもしている。
ある意味では世界そのものが音楽であることがわからなくなって、
死骸の踊る音楽のようなもの以外を音楽だと思えなくなる。
 
「喝」というのは、
そうした死に生を吹き込む音楽でもあるのかもしれない。
しかしそれを音楽だと思えないうちは、
「喝」はただの恫喝でしかないのだろう。
 
ところで、ぼくはどんな音楽たりえているだろうか。
ほとんど死んだ状態なのかもしれないが、
ほんのときおりどこかでなにかの音楽を聞き得る耳になるときもあるのかもしれない。
そうしたときの「喝」を聞き逃さないようにしたいのだけれど・・・。
 


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