小林秀雄メモ

その2 「感傷は感情の衰弱をいう」 (2007.7.24)

   感傷というものは感情の豊富を言うのではなく感情の衰弱をいう
  のである。感情の豊富は野性的であって感傷的ではない。感情が生
  理的に弱る事を人は見逃さないが、感情が固型化によって衰弱する
  事は屡々見逃す。心が傷つくという事はなかなかたいした事であっ
  て、傷つきやすい心を最後まで失わぬ人は決してざらにいるもので
  はない。(「文芸時評」)
  (『人生の鍛錬/小林秀雄の言葉』(新潮新書/P.25)

感情が豊かであることは「感情的」であることとは違う。
感情には器があって、それが豊かであるということは、
その器が大きいということであって、
「感情的」になりやすい人はその器が小さいので
すぐに感情がその器からあふれ出してしまうだけのことである。

しかし、世の中ではやはり器の大きい人のほうが少ないので、
感情を激しく花火のように打ち上げたり
自分の感情に溺れて飽きない人を感情が豊かであると誤解し、
静かにみずからの感情を熟成させることを
ある種の冷たさであるかのように勘違いしてしまうことがある。

これは、感情によらず、
人間の魂のあり方全般についていえることである。

考える器の大きい人は、考えが豊かであるので、
固定的な考えにしがみつき繰り言のような考えをしなくてもすむ。
考える器が小さくても細事にこだわり論理的であることや
知識を蓄えることはできるだろうが、
論理や知識にしばられたりする愚から自由であることができる。

意志する器の大きい人は、意志が豊かであるので、
単なる猪突猛進をして軌道修正ができなくなりはしない。
目の前に人参をぶらさげられて走り回る以外になすすべがなければ、
人は何のための走っているのかがわからぬまま
やがては走り回ることを自己目的化してしまうことにもなる。
ある欲望に火がつくと止まらなくなるのも同じである。

さて、そうしたときにとても大切なことは、
魂が常にやわらかくあり続けるということだろう。
決して傷つかぬ心というのは、
一見、魂の強さのようにも思えるが
そうした魂は柔軟さを失い
特定の形以外のものになりえなくなっている。

魂はときに大地のようでもなければならないが、
ときには水のように、ときには風のようにもあらねばならない。
ある型にはまった魂はメタモルフォーゼする可能性を失っている。

魂が成長するということは、
悲しいときはより悲しくなることであり、
うれしいときはよりうれしくなることであるだろう。
そして悲しみはそのひとを破壊するのではなく熟成変容させ、
喜びはその人ひとを麻薬のように麻痺させるのではなく
小さな喜びにも小躍りできるようになることだろう。