風のメモワール118

御伽草子〜鴉鷺一味


2009.2.2

室町期に成立しはじめた御伽草子についての研究書
◎徳田和夫篇『お伽草子百花繚乱』(笠間書房/2008.11.15.発行)
というのがでていたのでぱらぱらとめくって楽しんでいる。

これによると、「初期お伽草子」というのは
大和絵、説話絵、古拙な絵巻、真名本、片仮名書などのかたちで、
室町中期(14世紀〜15世紀)に成立してきたらしい。
今の日本の文化などは、ほとんどがこの室町期以降のものだといわれるが、
その成立期にこうした「お伽草子」が成立しはじめたというのには、
それなりの背景があると思われる。
もちろん、上記の研究書に神秘学的な洞察などがあるわけではないが、
たとえば、その成立の背景にある、能などの源流のひとつでもある
「田楽」などについても考えていくと、
そこにさまざまなものが見えてくるところがあって面白い。

田楽というのは、御霊を慰撫する神事・祭礼や
田植えを囃す農事儀礼として展開することから
芸能としてもてはやされるようになったわけだが、
この田楽は日暮れ以降にも演じられるようになっていったようである。

  人びとが田楽に忘我するさまは、まさに異常時に他ならなかった。
  その狂騒は、夜間のそれの恐怖感と重ねあわせることもあったの
  だろう。異類・異形の所為ととらえられていく。
  (・・・)
  室町後期の『百鬼夜業絵巻』にも妖怪の田楽行列が描かれている。
  (・・・)
  動物の擬人化それ自体は、詰まるところ、異類の造形である。時代
  人も、動物による人間の所作はありえず、非現実のものだと認識し
  ている。異界の出来事であるとするところに、異類を異形のものと
  して受けとめていく。およそ異類の物語の発想には、自然物も人間
  同様に霊魂をもつという自然崇拝がある。動物を神の使者とみて畏
  怖しているのであり、たとえば数かずの異類婚姻説話は神と人との
  通婚譚から展開してきている。そうした動物の霊性を、仏教は草木
  国土悉皆成仏という教理で説明してきた。
  (・・・)
  人間は異類異形による非日常を空想して、実しやかにもの語ってき
  た。その物語を現実化していくときに、方法として夢現の目撃談、
  体験談に仕立て上げる。お伽草子には、これがまた多い。

神秘学的な歴史の展開は、こうしたお伽草子についてみていくだけでも、
日本における展開は、西洋のそれとは別の流れがあることがわかる。
しかしお伽草子の成立が室町期中期頃からということを考え、
またある意味、こうしたお伽草子をいわゆるメルヘンの類と重ね合わせた場合、
この時期以降に、日本においてお伽草子が成立してきたというのは、
日本人の魂の変化に対応してきたものではないかということが考えられる。

この時代、能の成立においてもみられるように、
そこには「阿弥」号が用いられるようになっていることから推して、
芸能と宗教とが密接に絡み合ってきる
一遍の興した時宗という不思議な宗教の成立なども気になるところである。

さて、本書で紹介されているお伽草子のなかで、
一条兼良の作ともされ、「黒・白」のテーマを扱っているという
『鴉鷺(あろ)物語/鴉鷺合戦物語』に興味をひかれた。
都の祇園林に住む烏の東市佐林真玄の一族と
中嶋の森に住む鷺の山城守津守正素の一族が確執の余り合戦に及び、
闘争の果てに、真玄と正素が発心出家して、
烏阿弥陀仏、鷺阿弥陀仏と名のって修行し、
親睦を深めるようになったという物語である。

  作品のテーマは、物語展開からもうかがえるように、烏鷺の対立か
 ら共生への賛辞である。末尾近くに、「鷺は白く、烏は黒し。煩はし
 く何ぞ天性の形を改むべきや。然れども、利生、門に出づる時、しば
 らくの約束にや、髪を剃り、衣を着る。衣は鼠色にして白にあらず、
 黒にあらず。是、黒白不二にして鴉鷺一味の心を顕すかとおぼえたり。
 (略)善悪不二、邪正一如、思ひ合はせ候」とあるとおりだ。白と黒
 の中間である鼠色は出家体を意味する。すなわち、黒白を分かつので
 はなく、一体・融合させるのであり、そこに「鴉鷺一味」が確立する
 としている。
 (・・・)
  『鴉鷺』は、黒・白あるいは白・黒を対立概念でとらえるのではな
 く、外面は異なるが中身は同質であるとして「黒白不二」を打ち出し
 ている。極めてユニークな主題設定であり、作者はなかなかの手練で
 ある。この着想は、仏教界でもとくに天台宗や禅宗が用いた教条
 「善悪不二。邪正一如」「善悪一如(魔仏一如)」からのものであろ
 う。それは『ぼろぼろの草子』の構成にも発現している。ちなみ、類
 縁同士の確執が最終的には融和するという物語展開に関して、『酒茶
 論』『酒飯論』『酒餅論』などにも注目しておくべきである。二者の
 争いが中道者によって仲裁されるという、異類論争の物語である。こ
 の中道者は、対立・対極の存在が一体和合化した理想をかた取ったも
 びである。

ちなみに、絵画においてもこのモチーフ表現がある。
長谷川等伯筆の、右隻が鷺、左隻が烏の屏風『鴉鷺図』である。

  『鴉鷺図』は白と黒のコントラストを利かせている。それは類比と
 いう方法でかなうのであり、ゆえに鷺と烏の一体の世界が築きあげら
 れている。そこに、自然界の平穏と躍動が感得され、一双となってい
 よいよ高まっている。ゆえに、両隻は言うならば共生関係にある。互
 いのテーマは反発しあうのではなく、したがって、この屏風絵の左右
 には争いごとはイメージされない。そうであるならば「黒白一体」の
 境地を表わしたものとみて取ることも可能である。ここでは、等伯が
 『鴉鷺物語』を知識としていたかどうかを問うものではない。肝要な
 ことは、両者は室町後期の普遍的な発想を基とし、それぞれの領分に
 沿って作品化したということである。

この「黒・白」のテーマについては以前から気になっているもので、
黒と白が一体化したから鼠色という発想よりは、
「黒でも白でも灰色でもない」というのが、個人的な趣味ではある。
不二ではあるが、融合したり、一体化したりするのではなく、
それぞれはそれぞれのままに変容する可能性ということ。
自然界も「共生する」というよりも、
それぞれが変容するために展開していくというビジョン。

ともあれ、室町期において成立しはじめた「お伽草子」が
どのように成立しどのように受容、変化してきたか、
そしてそれが現代の私たちの意識のなかでどのように働き、
どのように変化・変容していくのかを考えるのは大変興味深い。