風のメモワール146
森有正:人間が人間になること
2009.7.28

今度のNHK・知る楽8−9月期(水)こだわり人物伝のテーマは
グレン・グールド(宮澤淳一)と森有正(片山恭一)。
はじめ、グレン・グールドという名前に引かれて読み始めたが、
むしろ森有正のほうがぼくのなかで大きくなっていった。

そういえば、森有正のことをよく知らないことに気づいた。
しかし、片山恭一といえば、『世界の中心で、愛を叫ぶ』ではないか。
読んでもいないのに、ぼくのなかでどうなんだろうという疑義がわいたが、
毎日、偏見にひとつは気づいて克服することにしているので、
この日、片山恭一+森有正をそのネタにしてみることにしたが、正解だった。

そして片山恭一はともかく、
これまで森有正を読んでこなかったことを後悔するとともに、
その著作を読み始めてみて、
今になって読むことに意味があるようにも思えた。
ひょっとして学生時代に読んでいたら、
ぼくのなかを素通りしてだけかもしれないと。
ぼくとほぼ同世代の片山恭一も
学生のときはじめて読んで「ピンと来なかった」ということで、
それが30年近くたって、何気なくエッセー集を手にとって
「気分的にぴったりきた」のだそうだ。
確かに、森有正は若者向けではないかもしれないし、
少なくとも、多くの日本人のように、
ある種、集合的な感じで生きていたり、
なにかを教えてもらろうとして集団の中に位置しがちな人にとって、
森有正がいっていることは、ねじれの位置にあるようなことである。

森有正の言葉を読んでいると、
ぼくが、このように、シュタイナー関係にせよ、
そうでないところにせよ、
集団化されそうな傾向にあるところから
距離をとらざるをえないという必然性のようなものをあらためて感じる。
しばらくは、森有正・ひとりエポックが続きそうである。

では、片山恭一による上記テキストから少し引用しておきたい。

   大切な言葉は、人から教えてもらうことはできません。頭から何かを
  信じることによっては、いかなる価値も生まれない。それは自明なこと
  に思えます。「神」や「魂」といった言葉が、その人にとって価値のあ
  るものになるためには、誰かから教えられたものを、観念や習俗として
  受け取ってもだめだと思うのです。自分のなかの必然として、そうした
  言葉の価値が生まれてこなければ、本当はぼくたちを支えてくれるもの
  にはならない。それが森の言う「経験」ということだと思います。

森有正のいう「経験」というのは、
「体験」とは根本的に異なっている。
体験を積みそれを豊かにしようとすることはできるが、
経験はそういうものではない。

森有正は『遙かなるノートル・ダム』でこう言っている。

   経験という言葉で私が意味するものは、一人一人の個人の他と置き換
  えることの出来ないある形成されたものであって、その場合、個人とい
  うのは勿論抽象的な、生物としての一個の人間というようなものではな
  く、社会、歴史、伝統の中に、その問題をもって、また信頼と反抗とを
  もって内在する一人の人間をいうのであり、「経験」というものがその
  一人の人間を定義するのである。

森有正の生涯にわたる思索の主題は
「人間が人間になる」ということだったという。
そして、森有正はこう言っている。

  人は一人一人自分で人間にならなければならない。

この言葉を読んで、しばし感動のあまり声がでなかった。
そう、人間が人間になるためには、
一人一人の「孤独」と「絶望」を経なければならない。
それらを避けるために、集団化したりすることは、
人間が人間でないものになることなのだ。
愛は、「私たち」ではなく、
まず「私」と「あなた」でなければならないように。