風のトポスノート409 

 


2002.6.3

 

        武久 僕は日本音楽の方はたいしてやってないんですが、日本人が「間」っ
        て言う時は、「間」の中にエネルギーがあるわけです。例えば祭囃子。祭囃
        子って一拍子目が「間」だったりする。あの一拍子目に、お囃子やっている
        人は心の中で「ツ」って言っているんです。「ツッドドドン」なんてね。こ
        の「ツッ」っていうところにものすごい力がこもっているわけです。で、そ
        れが抜けると「間抜け」になる。ヨーロッパ音楽の「間」、つまり休符は逆
        にリラックスしてるんですよ。音がニュートラルになって、脱力する。バロ
        ック時代の音楽修辞学では、休符がよく「死」を表すのに用いられたりしま
        す。ですから「休符に力を入れなさい」なんて言うヨーロッパ人はいない。
        そしてヨーロッパ人にとっては。この脱力から次のエネルギーが生まれるわ
        けです。(…)
         日本人の「間」っていうのは、圧縮されたものが、次の音に向かって弾け
        るプロセスです。だから、その場合は音を出すことの方が脱力の行為なのか
        もしれない。この二つのパターンは、エネルギーを生み出すシステムの問題
        だから、日本人の我々も、ヨーロッパ的な脱力法を使うこともできるし、そ
        の逆もありだと思います。でもとにかく日本では「間」の圧縮感を知らない
        やつは「間抜け」だと言われるわけです。お話していても、今言いたいけど
        グーッと一瞬こらえて、次の話でそれをポーンと出していく。そういう圧搾
        空気の効果で話にクッションが加わっていく感じがします。ヨーロッパやア
        メリカの人と話しているとそうじゃないですね。そこでは、どんどん「発展」
        していくことがエネルギーになっている。
        河合 そうそう、もっと前後を詰めよりますからね。組み立てます。日本は
        組み立てんでも、間が上手かったらもう何言うとったって間で勝負できるわ
        けです。
        (武久源造『新しい人は新しい音楽をする』
         ARCアルク出版企画/P158159)
 
日本では、対談とか鼎談とかいうのがわりとポピュラーだけど、
欧米のほうでは、そうではないらしい。
対談ではなく、聞き手がいて、インタビューとかいう形になる。
 
落語とか漫才とかいうのも、たぶん日本独特の在り方である。
俳句や短歌の五七五のようなリズムもそう。
そこには、「間」ということが深く関わっているように思える。
 
耳をすます、という表現が訳しにくいらしいのも、
その「間」と通ずるところがあるかもしれない。
 
当然のごとく、「間」は、なにもないのではなく、
そこにこそあらゆるものがある、ということもできる。
「空」というのがなにもないことでは決してなく、
一切空であり、色即是空空即是色であるように。
 
ところで、ゲシュタルト心理学とかで、
図と地の関係についての視覚について、
典型的な例が示されることが多いのだけれど、
この「間」についての、日本と欧米のとらえ方の違いは、
ひょっとしたら、互いが図と地の関係になっているのかもしれない。
両方の「間」のとらえ方を同時に行なうことは難しい。
 
しかし、その両方の「間」を使い分けることができるならば、
そこには、いわば円相的なあり方と直線的な発展の仕方とを合わせた
螺旋状の認識のようなものの可能性があるかもしれない。
 
「間」を「死」のようにとらえるか、
逆に「生」の充実のようにとらえるか。
そこにも、「死」と「生」を往還する可能性が開かれる。
 
そして、「間」は「魔」でもある。
「逢魔が時」という表現もあるようが、
それは「逢間が時」でもあるのかもしれない・・・。


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