武久 僕は日本音楽の方はたいしてやってないんですが、日本人が「間」っ て言う時は、「間」の中にエネルギーがあるわけです。例えば祭囃子。祭囃 子って一拍子目が「間」だったりする。あの一拍子目に、お囃子やっている 人は心の中で「ツ」って言っているんです。「ツッドドドン」なんてね。こ の「ツッ」っていうところにものすごい力がこもっているわけです。で、そ れが抜けると「間抜け」になる。ヨーロッパ音楽の「間」、つまり休符は逆 にリラックスしてるんですよ。音がニュートラルになって、脱力する。バロ ック時代の音楽修辞学では、休符がよく「死」を表すのに用いられたりしま す。ですから「休符に力を入れなさい」なんて言うヨーロッパ人はいない。 そしてヨーロッパ人にとっては。この脱力から次のエネルギーが生まれるわ けです。(…) 日本人の「間」っていうのは、圧縮されたものが、次の音に向かって弾け るプロセスです。だから、その場合は音を出すことの方が脱力の行為なのか もしれない。この二つのパターンは、エネルギーを生み出すシステムの問題 だから、日本人の我々も、ヨーロッパ的な脱力法を使うこともできるし、そ の逆もありだと思います。でもとにかく日本では「間」の圧縮感を知らない やつは「間抜け」だと言われるわけです。お話していても、今言いたいけど グーッと一瞬こらえて、次の話でそれをポーンと出していく。そういう圧搾 空気の効果で話にクッションが加わっていく感じがします。ヨーロッパやア メリカの人と話しているとそうじゃないですね。そこでは、どんどん「発展」 していくことがエネルギーになっている。 河合 そうそう、もっと前後を詰めよりますからね。組み立てます。日本は 組み立てんでも、間が上手かったらもう何言うとったって間で勝負できるわ けです。 (武久源造『新しい人は新しい音楽をする』 ARCアルク出版企画/P158159) 日本では、対談とか鼎談とかいうのがわりとポピュラーだけど、 欧米のほうでは、そうではないらしい。 対談ではなく、聞き手がいて、インタビューとかいう形になる。 落語とか漫才とかいうのも、たぶん日本独特の在り方である。 俳句や短歌の五七五のようなリズムもそう。 そこには、「間」ということが深く関わっているように思える。 耳をすます、という表現が訳しにくいらしいのも、 その「間」と通ずるところがあるかもしれない。 当然のごとく、「間」は、なにもないのではなく、 そこにこそあらゆるものがある、ということもできる。 「空」というのがなにもないことでは決してなく、 一切空であり、色即是空空即是色であるように。 ところで、ゲシュタルト心理学とかで、 図と地の関係についての視覚について、 典型的な例が示されることが多いのだけれど、 この「間」についての、日本と欧米のとらえ方の違いは、 ひょっとしたら、互いが図と地の関係になっているのかもしれない。 両方の「間」のとらえ方を同時に行なうことは難しい。 しかし、その両方の「間」を使い分けることができるならば、 そこには、いわば円相的なあり方と直線的な発展の仕方とを合わせた 螺旋状の認識のようなものの可能性があるかもしれない。 「間」を「死」のようにとらえるか、 逆に「生」の充実のようにとらえるか。 そこにも、「死」と「生」を往還する可能性が開かれる。 そして、「間」は「魔」でもある。 「逢魔が時」という表現もあるようが、 それは「逢間が時」でもあるのかもしれない・・・。 |
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