風のトポスノート412 

 

世界解釈


2002.7.5

 

X         「世界解釈の基本問題」という表題を提出いたしましたけれども、世界解釈
        というのは、べつに特別な言葉の使い方をしているわけではありません。世界
        の理解のあり方とか世界観と言っても同じことですけれども、世界観とか世界
        の理解ということは、解釈ということにならざるをえない面がありますので、
        一応、世界解釈という言葉を使わせていただきました。
         「解釈」という言葉で思い出すのですが、私の学生のころ、哲学者は世界を
        解釈することばかりに一所懸命になっているが、ほんとうに大事なのは世界を
        変革することであるというようなことを、非常に勇ましい声でよく聞かされた
        ものです。当時は、私は気の弱いほうですから、そういうことを聞かされます
        と、なるほどそうかなというふうに思っていたわけですけれども、今にして思
        いますと、むしろ大切なのは、世界の解釈ということをできるだけ正確にきち
        んとすることなのではあるまいか、粗雑な解釈に基づいて変革をやられますと、
        はた迷惑といいますか、場合によっては人類に大害を与えることにもなりかね
        ないのではないか、そういう意味で、哲学はあくまで、世界をできるかぎり正
        確に解釈することをこそ心がけるべきではないか、というふうに考えている次
        第であります。
        (藤沢令夫『世界観と哲学の基本問題』岩波書店/1993.5.26発行/P2-3)
 
人は存在しているということだけで、
自分の解釈に基づいた世界をそこにつくりあげているのだといえる。
カスタネダ風にいえば、ある種の「集合点」を固定させることで、
自分にとっての世界をそのようにあらしめているということ。
 
だから、その「解釈」が異なれば、当然のごとく
世界は異なって現象することになる。
しかし、ふつう人はそういうふうには考えないで、
世界はいわば「客観的」に存在していて、
たとえば、考えてばかりいないで行動!実践!というような言葉も、
そういう当然のごとく存在していると思い込んでいる世界を
いやがおうにも固定化させるための行動を促しているということになる。
 
その行動がよく吟味された世界解釈に基づいて、
そうあらしめたい、ということであるならまだしも、
ほとんど無意識に思い込んでいる吟味されているとは到底思えないような
幻のような世界解釈をまったく疑わないままに行動が促されるとき、
その結果というのは、きまった入口と出口しかない構造のように、
ほとんど最初から見えているのだともいえる。
 
逆にいえば、最初からそれ以外の可能性は
閉ざされてしまっているということがいえる。
まったくもって自由ではない。
自由に向かって開かれているためには少なくとも、
世界解釈の可能性を閉ざしてしまわないことが必要である。
 
世の中には、さまざまな紋切り型で表現できるような
きわめて単純なかたちで無前提に信じ込まれている世界解釈があるが、
もちろんそういう人のほうが、世の中ではいわば「成功」しやすいともいえる。
「世の中は金次第だ!」というような世界解釈もそのひとつ。
世界は多くそういう世界解釈が張りめぐらされることで
今のような状態になっているのだともいえる。
世界解釈が複数あってはならないのだ。
それがひとつであるからこそ、目の前に人参をぶらさげられた馬のように
激しく走り回ることができる。
 
だからこそ、ごくごくまれではあったとしても、
目の前に人参をぶらさげられても、面倒で走る気にならず、
「今おれの前にある人参とはいったいいかなる存在なりや」とか
さまざまに思いをめぐらしてみるような人も必要なのだろうと思う。
もちろんそれができうるかぎり正確であって、
しかも固定的なものでなければそれに越したことはない。
 


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