風のトポスノート570

 

人とつながるということ


2006.1.11.

 

人が面白いと感じる話、しらける話の境界は微妙だ。
りっぱな話が、決して人を惹きつけるわけではない。
じゃあ、どんな話が人と一発でつながるんだろう?
・・・
「共通の話題」とか、「一般ウケ」とか、
「普遍的なテーマ」とか、
私たちは、人前にでると、つい、りっぱな話題を探し、
それを通して、人とつながろうとする。
・・・
いまの自分にとってあまりに切実だが、
あまりにも個人的なことで、
人前でこういうことは言ってはいけない、と
自分の中で隅っこに追いやられた部分がある。
そういう部分は、
だれにも、何かしら、あるのではないか。
だから、そういう部分を、表に出したとき、
自分とまったく同じ体験、
まったく同じ痛みの人はいなくても、
人の心の隅っこに追いやられた部分と共鳴するのだ。
ひとりが、そうした、
心の中で隅っこに追いやられた想いを解き放つことで、
聴いている方まで、なにかしら解放された気持ちになる。
一発でつながる話とは、たぶん
そういう方向にあるのではないだろうか?

(山田ズーニー『おとなの小論文教室。』
 Lesson282 人とつながるポイント 2006-1.11.Wed.より)

上の話は、人となんとかつながろうとする話であるが、
なぜ人はつながろうとするのだろうという問いもありだろう。

人とつながりたいか。
むずかしい問いである。

人といつも疎遠でいたいというのではないが、
なにがなんでも人とつながっていようとは思わない。
それよりもおもしろいことはごまんとある。

人前で話をするのが好きじゃないのも、
なんとかして人とつながっていたいとは思わないために、
そこであまりサービス精神をおこさないというのがあるようだ。

しかし、それはともかくとして、
つながりたいと思うときには、なんとかしなければならない。
話し方の技術ももちろんあるが、
やはり話題をどうするかが鍵になるだろう。
ウケをねらうというのは、そのときには人は注目するが、
悪くすればそれだけになってしますし、ハズせば悲惨である。

人が次第に引き込まれる話はどういう話だろう。
たしかにそれは「一般論」ではないだろうし
最大公約数を意図した話ではなさそうだ。
そういう話はほかでもきける。
「その人」からでしかきけない話である必要がある。

そのためには、(もちろん話す技術は伴っている必要があるが)
地を掘っていくようなところが必要なのだろう。
地を掘ることでみんなとつながるような何か。
その水脈、鉱脈は、人の意識/無意識に響く。

地を掘るというのは、
その人の足下ということでもある。
その人の踏みしめている大地の下。
自分の足跡が刻まれているところ。
そこを掘り進んでいき、それを話す。

最初から共感を強要するように話すのではなく、
みんながそうなんだと色目を使うのでもなく、
だからそうすべきなんだと教育的になることもなく、
自分で面白く足下を掘り進んでいく。
そしてそれが、「あなた」の水脈に「たまたま」つながる。
そういう話ができればいいと思う。

人とそういうつながり方ができるのだったら、
ぼくもたぶん、もう少し人前で話をすることを
楽しめるようになるのだろうけど、
なかなか道のりはけわしそうだ。
ぼくはいま、ある意味でようやく
自分の足下を掘り始めたところだから。
こうして書いているのもそのひとつなのだけれど、なかなか。