人が面白いと感じる話、しらける話の境界は微妙だ。
りっぱな話が、決して人を惹きつけるわけではない。
じゃあ、どんな話が人と一発でつながるんだろう?
・・・
「共通の話題」とか、「一般ウケ」とか、
「普遍的なテーマ」とか、
私たちは、人前にでると、つい、りっぱな話題を探し、
それを通して、人とつながろうとする。
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いまの自分にとってあまりに切実だが、
あまりにも個人的なことで、
人前でこういうことは言ってはいけない、と
自分の中で隅っこに追いやられた部分がある。
そういう部分は、
だれにも、何かしら、あるのではないか。
だから、そういう部分を、表に出したとき、
自分とまったく同じ体験、
まったく同じ痛みの人はいなくても、
人の心の隅っこに追いやられた部分と共鳴するのだ。
ひとりが、そうした、
心の中で隅っこに追いやられた想いを解き放つことで、
聴いている方まで、なにかしら解放された気持ちになる。
一発でつながる話とは、たぶん
そういう方向にあるのではないだろうか?
(山田ズーニー『おとなの小論文教室。』
Lesson282 人とつながるポイント 2006-1.11.Wed.より)
上の話は、人となんとかつながろうとする話であるが、
なぜ人はつながろうとするのだろうという問いもありだろう。
人とつながりたいか。
むずかしい問いである。
人といつも疎遠でいたいというのではないが、
なにがなんでも人とつながっていようとは思わない。
それよりもおもしろいことはごまんとある。
人前で話をするのが好きじゃないのも、
なんとかして人とつながっていたいとは思わないために、
そこであまりサービス精神をおこさないというのがあるようだ。
しかし、それはともかくとして、
つながりたいと思うときには、なんとかしなければならない。
話し方の技術ももちろんあるが、
やはり話題をどうするかが鍵になるだろう。
ウケをねらうというのは、そのときには人は注目するが、
悪くすればそれだけになってしますし、ハズせば悲惨である。
人が次第に引き込まれる話はどういう話だろう。
たしかにそれは「一般論」ではないだろうし
最大公約数を意図した話ではなさそうだ。
そういう話はほかでもきける。
「その人」からでしかきけない話である必要がある。
そのためには、(もちろん話す技術は伴っている必要があるが)
地を掘っていくようなところが必要なのだろう。
地を掘ることでみんなとつながるような何か。
その水脈、鉱脈は、人の意識/無意識に響く。
地を掘るというのは、
その人の足下ということでもある。
その人の踏みしめている大地の下。
自分の足跡が刻まれているところ。
そこを掘り進んでいき、それを話す。
最初から共感を強要するように話すのではなく、
みんながそうなんだと色目を使うのでもなく、
だからそうすべきなんだと教育的になることもなく、
自分で面白く足下を掘り進んでいく。
そしてそれが、「あなた」の水脈に「たまたま」つながる。
そういう話ができればいいと思う。
人とそういうつながり方ができるのだったら、
ぼくもたぶん、もう少し人前で話をすることを
楽しめるようになるのだろうけど、
なかなか道のりはけわしそうだ。
ぼくはいま、ある意味でようやく
自分の足下を掘り始めたところだから。
こうして書いているのもそのひとつなのだけれど、なかなか。 |