風のトポスノート584

 

他なるものと他者


2006.8.18

 

 アブラハムの荒野への旅とオデュッセウスの冒険の旅のあいだにはいくつか
根本的な違いがある。オデュッセウスは熟慮の結果、自らの意志で航海に出か
け、十年の冒険ののち故郷イタカの島と妻ペネロペのもとに帰る。それまでの
あいだ、オデュッセウスはたしかに多くの「他なるもの」に遭遇する。だが、
彼が冒険の途次に出会う「異邦人」たち(喰人族、妖姫、冥界の王、 一眼鬼ら)
は「未知のもの」ではあるが、この異類たちもオリンポスの神々が統べる世界
の正規のメンバーたちであり、オデュッセウス「とともに」有機的な全体性を
構築していることに変わりはない。
 オデュッセウス的冒険において、「他なるもの」は「自己」とともにある全
体性を構築している。だから、「他なるもの」との出会いの経験をオデュッセ
ウスは故郷の島に帰ったのち、「冒険譚」として語り聞かせることができるの
である。異形のものたちの異他性は、冒険に彩りを添えはするけれ ど、「自己」
の優位性を根源的な仕方で脅かすことはない。オデュッセウス的「自己」はそ
のようにして「他なるもの」を「享受」しているのである。
 これに対して、アブラハム的な「主体」が出会うのは「他なるもの」ではな
く、「絶対的に他なるもの」(li'absolument autre)すなわち「他 者」(Autrui)
である。「他なるもの」と「他者」は言葉は似ているが、峻別されなければな
らない。「他なるもの」と「他者」の決定的な区別について確認をし ておこう。
(・・・)
 「他なるもの」はオデュッセウス的「自己」が世界を享受するときの「糧」
(noutriture)である。「私」は「他なるもの」を捕獲し、享受し、必要とあ
れば「殺す」こともできる。「他なるもの」のうちには「他の人間」(autre
homme)も含まれる。
(・・・)
 「他者」の私への抵抗は、世界内的な抵抗ではない。「私より強い」力を持
つものは、「私より強い」という仕方で私と比較考量されているわけだから、
「度量衡」を私と共有している。ひとつの全体を私と分かち合っている。その
とようなものをレヴィナスは「他者」と呼ばない。
 「他者」の抵抗力を構成するのは、その「予見不可能性」 (imprevisibilite)
である。不思議な言葉だ。「予見」するのは私である。私があることが「でき
ない」ということが「他者」の抵抗力の淵源なのである。つまり、「他者」の
超越なるものは、「他者」の側に属性としてあらかじめ具備されているのでは
なく、私の無能力を媒介して、はじめて顕在化するのである。私が「私はこの
人を認識することも知解することもできない」という無能の覚知に至るときに
はじめて「他者」は私の前にその姿を現わす。
(内田樹『レヴィナスと愛の現象学』せりか書房/2001.12.15.発行/P.75-78)

世界の外について、ぼくは想像することができない。
想像することができないということさえいうことができない。
世界の外とぼくにはまるで接点がない。
ぼくのなかには世界の外にあるものがまるでない。

ぼくは世界の内にいて、
そこでどんなものと出会い、
思いがけない人や物がそこにあったとしても、
それはたんなる「他なるもの」でしかない。
「他なるもの」は、それがぼくとどんなにかけ離れているとしても、
可能性としては、それを「捕獲し、享受し、必要とあれば殺すこともできる」。
つまり、なんらかのかたちでぼくと「比較考量」することができるのだ。

レヴィナスのいう「他者」と「他なるもの」は、
ある意味で、そうした世界の外と内の違いなのだろう。

レヴィナスの「他者」についての言葉を知ると、
それは「愛」の可能性なのかもしれないということに思い至る。

愛の原点は、我と汝である。
私ではない存在が私に対している。
そして私の世界のなかにあなたが押し入ってくる。
ある意味で、それは私の世界を否定し、破壊してしまう。
破壊というのは、否定的な意味ではなく、
それほどに、つまり私が私を無にしてしまうほどに、
あなたを求めるということである。
私の世界がそのまま私の世界でしかないとしたら、
そこに愛はない。

「他者」が姿を現わすとき、
それは私がそのまま私ではないということである。
私は途方もなく無にされ私であることが否定される。
いや、されるのではなく、私でない私がそうなってしまう。

愛は私を根こそぎにする。
世界がそこで終わる。
終わりは始まりとなる。
あなたは私にはならない。
私には途方もない存在である。
私の世界のなかにはいない存在。
「予見」できない存在。

故に、私は世界の再創造の可能性を得る。
私が私でないものとなることによって。

もちろん、通常使われる意味での愛のことではない。
それは萌芽としての愛ではあるが、
それは所有や世界への取り込みによって、
愛でないものとされてしまうことがあまりに多い。
愛であるかぎり、世界の内にはいられない。
私はただただ私でないものへと化し続ける。
しかし、その私でないものこそが私にほかならないことこそが、
世界の秘密だといえるのかもしれない。