風のトポスノート587

 

ジャコメッティの目と手から


2006.9.13

 

 ジャコメッティは空間を何もない一様なもの無力なものとしてとらえず、
物が出没する隙間、物を呑み込む淵として感じていたように思われる。彼
の代表的なあのひょろ長い立像に見られるように、彼のプランはいわば空
虚に腐食され、そのため像の相貌が何万年という時のなかから不意に現わ
れ出たという感じがする。
 もちろん彼がその後半生において作ろうとしたものは、オブジェではな
く、十分見知っているモデルによる肖像彫刻であった。しかし彼は多くの
彫刻家がするように、顔貌の特徴や気質や性格をブロンズに形象化しよう
とはしなかった。彼は彼自身がよくいったように、ただ対象を見えるとお
りに表わそうとした。(…)
 私には彼の初期のオブジェよりも、この見えるものを見えるとおりに表
わそうとした後年の彫像の方が、先史芸術のもつ空間をいっそうはっきり
垣間見させると思われる。
(…)
 われわれは世界を秩序あるものとして、統一のある意味の束として受け
とろうとするので、かりに時代や文化圏を異にするために、まったくその
意味がわからない形に出会うと、何か落ち着かぬ不安を感じる。とどのつ
まり人は意味のつかめぬ形を関心の外に追いやってしまう。
 ひとり芸術家たちだけが、意味を離れて、形そのものの面白さに関心を
集中する。想像的なものはすべて不安定であるから、想像的な世界に住む
芸術家は、形が或る解釈をのみ可能にし、唯一の定式化だれた概念に置き
換えうるとは毫も考えない。彼は常に形formを形成作用formationの現成
として、いわば、形を発生状態においてとらえる。彼は形をとおしてその
形が発生してきた創造の根源に達し、そこからふたたび形を生きなおそう
とする。
 ジャコメッティやピカソやパウル・クレーのような真の芸術家たちの或
る種の作品が、まったくゆかりがなさそうな縄文土器や土器の形体にとき
に思いもかけない類似を示すのは、単なる偶然の一致ではない。
(…)
  眼はつねに手が行なったことを検覈し、見改め、見確かめる。眼は事
物をいわば手から切り離す。人間の視覚は、本能が完全に支配する動物的
な環境世界から人間及び事物を切り離し、人間にのみ固有な対象の世界を
作り出す。人間は眼に見える事物のみならず、みずらか作り出すものをも
対象化する。ホモ・ファベル(道具を作る人類)とホモ・サピエンス(知
を生む人類=現生人類)が別れるのはじつにその点にある。
 眼は従って、手が作りだしたものが、すでに地上にある他のものと同等
の権利で存在するために、作品に何が欠け、どこがぶざまであるかを点検
する。裁縫師が眼と手で仮縫をするように、眼は作品の真率性、品位、秩
序、魅力を見なおし、手が行なう是正を確認する。
(宇佐見英治『縄文の幻想』平凡社ライブラリー
  P.193-194/197-198/253-254)

先日、兵庫県立美術館の「ジャコメッティ展」に出かけた。

数ヶ月前より、矢内原伊作や宇佐見英治によるジャコメッティについての
さまざまな著作や対話などを読み、写真や画集でイメージできるジャコメッティを
自分なりにイメージする機会を持っていたのだが、
実際に眼にするジャコメッティの作品は、その枠組みをやすやすと超えていた。
というより、あのひょろながい立像にしても、絵画にしても、
どこかとても近しいものに感じられたのである。
見る前は、こんなに親近感を感じるとは思ってもみなかった。
どうしてなのだろうか。
そこには、おそらく見ることとさわること、作ることの
根源的ななにかがあって、それが伝わってきたのかもしれない。

シュタイナーは、ルシファーの影響がなければ、
人間の目は、手のように対象に直接さわってその視覚を得ただろう、
というこ とを言っていたと思うが、
ジャコメッティが「見えるものを見える通りに描」こうとしたことは、
現在のようなルシファー化してしまっている視覚の
その根源にあるものをつかみとろうとしていたということなのかもしれない。
「形を発生状態」においてとらえ、
「形をとおしてその形が発生してきた創造の根源に達し、
そこからふたたび形を生きなおそう」とした。
だから、サルトルが「ジャコメッティは、彫刻をするときには絵描きのように 仕事をする。
そして絵を描くときには彫刻家のように仕事をする」と言っていたように、
絵を描くということと彫刻をするということの違いは、
ジャコメッティにおいては意味を持たないのだろう。

しかし、人間の手と眼の間には驚くほどの距離がある。
見るものとそれを手で描く、または作ることとのあいだの距離。
また、眼を閉じてさわることだけでそこから得るということの困難さ。

先日、三宮麻由子『福耳落語』(日本放送出版協会)を偶然手にとって、
その著者が幼い頃視力を失っていることを知り、
興味をひかれて『鳥が教えてくれた空』や『そっと耳を澄ませば』といった
著者のさまざまな体験を綴った著書を読んでみたのだけれど、
視覚を頼りにできないがゆえに広がる世界の豊かさ、
視覚を頼りにしてその影響を受けすぎているがゆえに気づけないでいる世界のことを
さまざまに考え、感じなおして見る機会を持てた。

通常あまりに無造作に見ることだけに頼っている私たちが
さわることだけでイメージできる造形感覚(?)は
いったいどれだけの広がりを持つことができるだろうか。
形をその形が発生してきた根源から生きなおす可能性をどれほど持ち得るだろうか。
見えるがゆえに見えないもののことをもっと探求しなければならないだろう。

ジャコメッティは、見えるものを見える通りに描こうとした。
その「見える通り」ということがいったいどういうことなのか。
その問いをジャコメッティの絵画は、彫刻は喚起させてくれる。
ぼくの感じた親近感のようなものは、実際にあまりにも身近なところにありながら、
どこかで隔たりを感じてしまっているものから思いがけなく「挨拶」された
ということなのかもしれない。
「ほんとうは、きみはこんなふうに見ているのだよ。
でも、見えていないから、形がそこから生まれてくるもののことに気づけない でいる。」
即物的ということは、ほんとうは物に即しているはずなのに、
物から切り離されているがゆえの貧しさになってしまっているように、
ほんらいの生成するプロセスとしての即物視の可能性について
注意深く探求することで「見えて」くるものがあるような気がしている。