風のトポスノート610

 

声の身体


2007.3.3

 

  (DEENA)
  OH,I'M SCREEMING OUT
  AND MY DREAMS WILL BE HERAD
  THEY WILL NOT BE PUSHED ASIDE OR WORSE
  BENT TO YOUR OWN
  ALL 'CAUSE YOU WON'T
  LISTEN
  LISTEN
  (映画『ドリームガールズ』より、ディーナ(ビヨンセ)の歌)

「聞いて」というのと「耳をすませて」というのは
ずいぶん違うということをこの歌をききながら感じた。

映画『ドリームガールズ』は全編ソウルフルな歌に満ちていて、
とても楽しめる映画なのだけれど、
(個人的にいえば、エディ・マーフィの歌とノリがとくに)
あらためて感じたのは、ここで歌われる音楽たちの
なんと肉体的なことだろうか、ということだった。

映画のなかのエフィーの台詞(歌)にある
AND I AM TELLING YOU・・・
というのも印象に残っているが、
引用にある「LISTEN」というのも、
「私の主張することを聞きなさい!」ということ。
I'M SCREEMING OUTなのである。
だから、そこにある声はすべて物理的に表現されるものとしてある。
物理的に表現されなければ声を出したことにはならないし、
たしかにそこではそうしなければだれも聞いてはくれない。
そこでは強烈な自我がきわめて物質的な声そのものになって押し出されてくる。

声を出す、といっても、
出される声と訪れる声という二つの極があるのではないだろうか。
言葉をかえていえば、「聞きなさい」という声と
「耳をすます」ことで自分のなかにできる器に注がれていく声。

その二種類の声はおそらく別の身体のありかたをしていて、
一方は、スポーツでエネルギーを絞り出すような物理的な身体の声で、
もう一方は、みずからを場として差し出すことで
そこに注がれてくるような非物理的な身体の声なのだろう。
もちろんそのどちらかだというのではなく、
それぞれにそれぞれの特質があって、
そのときどきに必要な声の身体について理解し、
それをその人に応じて修得していく必要があるのはいうまでもない。

ハズラト・イナーヤト・ハーン『音の神秘』(平河出版社)の
第一部・音楽の章の第9章「声」に次のようにあるのを思い出した。

  重要な三種の声があります。ジャラールの声、ジャマールの声、
  カマールの声です。ジャラールの声は力を、ジャマールの声は
  美しさを、そしてカマールの声は知恵を表します。

声の持つ、力と美しさと知恵。
ソウルフルな歌声というのは、
力や強烈なリズムとバネのようなしなやかさが
全面に押し出されてくる。
しかしそこには、耳をすまさなければきこえてこない何かを
ききとろうとするところが希薄になってしまうところがあるように感じる。

力と美しさと知恵。
その3つを兼ね備えた声と歌はなかなかみつからないが、
そういう声や歌に出会えたときの喜びは何者にも代え難い。

自分の声もそうありたいと思うのだが、
すぐにいろんなところで目詰まりを起こしながら、
力も美しさも知恵もなくしてしまいがちで、ほんとうにむずかしい。