風のトポスノート616

 

無用途人間


2007.3.27.

 

   この世界の人間には、それぞれの用途がある。誰もが何かしらの
   専用人間なのだ。ところが、ここに用途のない人間がいた。その
   無用途人間に、伝達用人間が用途を伝えにくる。しかし、伝達用
   人間は、伝えてしまえば用途がなくなる。またここに、無用途人
   間が誕生する。
   (・・・)
   「あー、しなきゃいけないことがなくなってしまった」
   (・・・)
   「しなきゃいけないことをください!」

   (『小林賢太郎戯曲集 home FLAT news』 幻冬舎より
    「無用途人間 」 2002.2.10発行P.010)

なにかをしなければならない、という思いだけがあって、
なにかをしなければならないのかを自分では決められない、
というのがこの「無用途人間」というコントの
世界観の背景のようなものになっている。

「用途」というのはいったいなんだろう。
自分はなにをしなければならないのだろう。
その「用途」はだれがきめたものなのだろうか。
ひょっとして自分がそれを決めていると思っていても、
どこかで刷り込まれてしまっているのではないか。

それがあれば生き生きと生きていけるという「生きがい」がある。
いわゆる「ボランティア」というのもそう。
そうしたものもある意味では「用途」である。
しかしそれらがないとしたら
その人は「無用途人間」になるのかどうかを問ってみる必要があるのかもしれない。
それらさまざまの「用途」をじぶんから
はぎとってしまった後に何が残るのかということ。

「用途人間」であるか 「無用途人間」であるかは
おそらくたいした違いはないのだろう。
注意深く見ておかなければならないのは、
「無用途人間」であることを楽しむことができるか
それに耐えられないでむりやり「用途」を見つけて
何かをしてしまうかということなのではないか。

五木寛之が「林住期」という本を出している。
古代インドでは生涯を25年ごとに四つの時期、
つまり「学生期(がくしょうき)」、「家住期(かじゅうき)」、
「林住期(りんじゅうき)」、「遊行期(ゆぎょうき)」に分けて考えたという。
ある意味、「林住期」以降が、
積極的な意味での「無用途人間」になり得る時期であるといえるかもしれない。
もちろん、人をそのように時期で分けて考える必要もないだろう。
すべての時期を同時進行としてとらえることもできるのだから。
人はいつも積極的な「無用途人間」として生きることもできるのだろうから。