風のトポスノート625

 

信じることと疑うこと


2007.6.14

 

    多くの人は誤解しているけれど
    人を疑うとはつまり
    その人間を知ろうとする行為なんだ
    
    『信じる』
    その行為は紛れもなく高尚な事だ……
    しかしね
    多くの人間が『信じる』の名の下に
    やっている行為は実は
    他人を知る事の放棄
    それは決して「信じる」行為ではなく……
    無関心
    無関心こそ疑うより 
    はるかに忌々しい行為である事に
    多くの人間は気づいていない

    俺はかつてとある巨大マルチを潰したときに
    その内部の多くのひどい人間を見てきたよ
    だがマルチで最もタチが悪かったのはーーー
    いい事をしていると思いこんで
    結果 人を騙している人間の多いこと
    そいつらには人を騙しているという自覚が全くない
    なぜならそいつらは
    自分のせいで相手がどれだけ苦しむかを
    想像することから逃げている
    完全な思考停止
    究極の無関心状態だ

    疑うことは決して「悪」じゃない
    本当の「悪」はーー
    他人に無関心になる事なんだ

   (甲斐谷忍『ライアーゲーム IV』集英社 2007.5.23.発行)

疑いもなく信じこんでしまうとき、
私のなかでは何が起こっているのだろう。
おそらくそのことが明らかになるのは、
騙されてしまったときの私の反応からだろう。

「信じていたのに・・・」というとき
私は何を根拠に「信じ」ていたのだろうか。

「疑う」ということと「信じる」ということは
ふつう相容れないものであるかのようにイメージされがちだが
実際は、懐疑ゆえにこそ導かれる信こそが、信にふさわしいのではないか。

『ライアーゲーム』が扱おうとしているのは
「嘘」のむこうにある真実なのだろう。
きれいごとにしてしまっているさまざまなことが
騙したり疑ったりすることを通じて明らかにされる。
疑って疑って疑うことでしか見えてこないものがあるのだ。

「信じる」ことの素朴な状態はあまりに無防備であり、
そのときには、「信じる」ことの責任をとることなどできないだろう。
「信じる」ことは、さまざまな「疑い」によって研磨されなければならない。
そのとき「信じる」ことは、パウロではないが、山をも動かすことになるのか もしれない。

世の多くの混乱は「無知」ゆえに生まれる。
その「無知」は多くの「ライアー」の格好の餌食である。
しかしその「ライアー」自身の落とし穴というのは、
その行為そのものがみずからをも騙していることにもなることではないだろうか。
「ライアー」の多くはそのことで利益を得ようとするわけだが、
その行為そのものは多く「疑い」にさらされてはいない。
その行為そのものが自らをもっとも傷つけてしまうのだということを
おそらく考えてもいないのかもしれない。

しかしこの世の中というのは、
そうしたルシファー的な役目をもった「ライアー」たちの引き起こす混乱のおかげで、
こうして驚くほどの豊穣な「信」の可能性に向かって開かれている場所だ。

さて、上記の引用にもある「他人に無関心になる」という「悪」だが、
その「関心」というのは相手の感情に敏感になって迎合することあってはなら ないだろう。
その「関心」は、「疑い」というフィルターをもとおした深い理解に向かう
厳しさを持たねばならない。
もちろんその「関心」の矢は、みずからへも激しく向かう必要がある。
みずからを疑わないとしたら、みずからを信じるということができるはずもな いのだから。