風のトポスノート629

 

バン・マリー


2007.7.29

 

   給食の冷たい牛乳を子どもたちの口にあうようにあたたかく
  あまい飲みものに変容させてくれた湯煎のことを、もしくは湯
  煎鍋じたいのことを、フランス語で「バン・マリー」bain-marie
  という。(…)
   ホットミルクにするのかアイスミルクにするのか態度を鮮明
  にしろと二者択一を迫った有人の言葉に違和感を覚えたのは、
  それがどうやら重度の視野狭窄に見舞われつつあった時代の雰
  囲気を代弁しているようにも受けとりえたからだ。白黒がつけ
  られないのではなく、白黒をつけない複眼的な思考に共感して
  いた、そいていまも共感している私には、マリアの力を借りた
  湯煎に相当する中間地帯を設けることと表面的な優柔不断は、
  あくまでもべつのものだったのである。
  (堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』岩波書店 2007.5.18発行/P.6-9)

白黒をはっきりつけることにはある種の嫌悪感が伴う。
だからといって灰色を選ぶというのではない。
灰色を選ぶというのも、白か黒かを選ぶ延長線上にあるのだから。

もちろんなにがしかの選択を余儀なくされることのほうが多く、
その都度、溜息をつきながらも、それなりに選択をせざるをえないことは
ずいぶん多くあるのだが、それでもその抵抗感は常にある。

美が醜さを生み、善が不善を生む、
長いがあるから短いがあり、
高いがあるから低いがあり、
前があるから後ろがある。
そうした老子風の見方を初めて知ることになった高校の頃、
あまりに息苦しかった日々が、そのことで
ずいぶん救われた気持ちになったことがあった。

この白黒をはっきりつけることをできれば避けたいという性行のために、
ぼくは、小さなころからわりと誤解されてしまうことが多かったように思える。
もちろんそれはある種の優柔不断であることもあったのだけれど、
そしてそれとともに、鬱からくる面倒くささも多分にあったわけだけれど、
なにかが主張されているとき、それ以外の見方の可能性が見えると、
その主張する人の顔が、にんじんをぶらさげられて、
それ以外のものを見ないようにして走る馬のように見えてしまうのである。

もちろん自分のある種の見方が、
ふりかえってみると、ずいぶん視野狭窄に陥っていて、
ああ、自分はこういうにんじんをおっかけて走っていたのだなと
けっこうな自己嫌悪を生じさせてしまうこともずいぶんあるのだが、
それでも、できうれば、白か黒かとか、灰色でしかないような
そんな見方から自由でありたいと願う。

その見方は、ある種、少し前に書いてみたことのある
「かるみ」ともどこかで交わっているようにも思える。
その「かるみ」は、「重さ」の対極ではないのはもちろんであり、
あらゆる視点が弁証法的かつリゾーム的に混交しながらも、
それらが変容してつくりあげられる、浮遊的な自由の感覚だともいえるかもしれない。
だからそこには、悲しみや喜びや叫びやわびやさびなどがまるごとはいっていながら
それらの個々の白や黒や灰色からは自由であり続けることができる。
そして、時に白に遊んでみたり、黒に遊んでみたり、灰色に遊んでみたりしながらも、
それらから同時に自由なのである。

そういうものに、わたしはなりたい。