風のトポスノート638

 

支払うべき代価


2007.10.26

 

   失敗の原因ははっきりしていた。走り込みの不足・走り込みの不足・
  走り込みの不足。これに尽きる。エクササイズの絶対量が足りず、体重
  も落とし切れていなかった。42キロくらい、適当にやっていればなん
  としてでも走れるさ、という傲慢な思いが知らず知らず生まれていたの
  だろう。健康な自信と、不健康な慢心を隔てる壁はとても薄い。若いと
  きならたしかに「適当にやって」いても、なんとかフル・マラソンを乗
  り切れたかもしれない。自分を追い込むような練習をやらなくても、こ
  れまでに貯めてきた体力の貯金だけで、そこそこのタイムは出せたかも
  しれない。しかし残念ながら僕はもう若くはない。支払うべき代価を支
  払わなければ、それなりのものしか手にできない年齢にさしかかってい
  るのだ。
  (村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』
   文藝春秋 2007.10.15.発行 P.78-79)

古代においては、人は年齢に応じた叡智を身に付けることが
おのずとできていたのだけれど、
(「長老」というのもおそらくその名残だ)
現代においては、何もしなければ、
何もしないまま年老いていくだけになってしまうという。

若さには若さのもつ美点があり、
そのチカラを発揮したければ、
それはそれで存分にその力を発揮すればいいと思う。
しかし、それはそれ、それ以外のものへの応用はおそらくあまりきかない。

目に見えるようなチカラにだけこだわってしまうのも、同様である。
そのチカラは目に見えるもの以外には通用しない。

また、過去そうだったからといって、
その過去の栄光は、いま自分に身についていないとしたら、
過去は過去にすぎず、今は存在しない。
今は今、それだけだ。
今手にしているものだけが自分である。
手にしているというのは、知恵のことだといってもいい。

知恵を身につけるために必要なのは、まさに
「走り込み」「走り込み」「走り込み」、「これに尽きる」。
以前十分に走り込んだからといって、
今知恵が身についているとはかぎらない。
油断をすると、するりと逃げ去ってしまって、
後に残るのはノスタルジーでしかない。

しかし、知恵はおそらく肉体のチカラとは違って、
衰えるということはない。
鍛えれば鍛えた分だけ身についてくるのではないだろうか。
それは死をもらくらくと超える。
もちろん、知恵がなければ、
それもたくらくと死をこえて継承されてゆく。

特に、肉体的に下り坂になっていくと、
それに反比例して(できれば二乗に反比例するくらいで)
知恵を身につけるための「支払うべき代価」が必要になってくる。

たとえば、こういうことだ。

   大切なのは、魂が次のように言えることなのです。ーー「真実を
  求めることは、文化生活、個人生活を維持するための義務なのだ。
  だから欲求生活を抑えて、真実を追究しなければならない。」
   真実であるかどうかを決めるのは、個人の主観ではありません。
  だからこそ真実は、欲求生活を抑制するように命じるのです。真実
  が問題になるときは、安んじてその名に従うべきなのです。真実を
  追求するときには、自己感情を排除しなければなりません。そのこ
  とに迷いがあってはなりません。自分を振り返って、自分は真実追
  究のために判断能力をぎりぎりのところまで働かせて、客観的な態
  度に徹しようとしている、と思えるとき、私たちは安んじて自分と
  向き合えます。そのとき、真実の追究は、限りなく私たちを謙虚に
  してくれるのです。
  (ルドルフ・シュタイナー『人智学・心智学・霊智学』
   ちくま文庫 2007.10.10.発行 P.203)