風のトポスノート640

 

日常を見続けること


2007.11.7

 

   しかし確かに、私は世界に加担している。時には加害者として。時には
  「無関心」という形で消極的な傍観者として。私が享受している何かのた
  めに、世界のどこか、あるいは身近なところで、誰かが抑圧されたり、犠
  牲を強いられたりしている。
   世界を日常に置き換え、自分との関わりを想像してみると、世界と自分
  とが無関係だとは到底思えなくなる。
   世界は必ず、日常から始まっている。日常は、世界の末端であり、出発
  点でもある。日常の中に、きっと何かヒントがあるはずだ。
   私はとにかく、日常を見続けることから始めてみようと思っている。
  (星野博美『銭湯の女神』文春文庫P.276
   「文庫版のためのあとがき」より)

おそらく、人がもっとも目をそらしたいのは、
自分の日常なのではないかと思うことが多くある。
日常から目を逸らすことで、
自分が否応なくそこで「世界に加担している」していることに
直面しないでもすませられるからだ。

いや、自分は日常にまみれている・・・という人もいるだろうが、
それは日常を直視しているのではなく、
日常に飲み込まれているだけのことが多いのではないか。

日常に飲み込まれないで、
日常を出発点として、それを直視し続けること。
それは、きわめてむずかしいことだ。
しかし、ある意味、そこからしか、あらゆるものは始まっていかない。
ベクトルの始点がなければ、ベクトルそのものが存在しえなくなる。

日常からはじめるためには、
逆接的なことだが、まずは日常を非日常にする必要がある。
その上で、その非日常が別の次元で日常になるわけである。
それこそが、「花は紅、柳は緑」の世界にも似た、
いわば、「平常底」になり得る可能性をもったプロセスである。

おそらく、「悟り」というのは、
「私は世界に加担している」ということに、
否応のない縁起として直面することでもあるのだろう。
光明というのは、それまで見えずにいたものが
照らし出されるということでもある。
どんなことでも自分に無関係で無責任である
ということができなくなるということ。
「そんなの私のせいじゃない」とは決していえなくなること。
(逆説的な言い方ではあるけれど)

いまのぼくには、実感として到底耐えられるようなことではないが、
だれもがそこに向かっていかなければならないというのが、
進化のプロセスでもあるのだろう。
そしてその起点にあるのが、この「日常」である。
そこからは、誰も逃げることはできない。
逃げたと思っていても、
ただ目をふさいでいるだけのことにすぎないのだ。
しかし、「日常」を直視し、
そして、「私は世界に加担している」という実感を得るためには、
とほうもない勇気とそしてかぎりない愛が必要である。

さて、「星野博美」というのは、どこかで目にしたことのある名前だったが、
実際に手にして読んだのははじめてのことだった。
新刊の文庫で、『謝謝!チャイニーズ』という
「中国・華南へのへの貧乏旅行記」を手にとったのがきっかけだった。
今週もまたひとり、信頼できる人を見つけることができた気がしている。
それは、「私は世界に加担している」といえる方向へと
勇気をもって歩みだしている、という頼もしさである。