風のトポスノート642

 

今学ぶ・対峙するにふさわしいもの


2007.12.19

 

   六十歳を超えた小林秀雄は、「ベルグソンを分かって分かれなくはない。
  しかし、それを分かることにどれほどの意味があるだろうか?」と考えたー
  ー私には、それ以外の理由が考えられないのだ。
   自分がもう「若者」ではなく、「若者である必要」も感じられなくなった
  時、小林秀雄は「ベルグソンを学ぶ」ということの意味を手放したのではな
  いかと思うのだ。六十歳を越えて、既に「小林秀雄であることの実質」を備
  えてしまったはずの人が、その上にベルグソンを学ぶということをしてどれ
  ほどの意味があるのか?それは、「なおも若者であることを続ける」という
  ことでしかない。小林秀雄は、「自分がなおも若者であり続ける」というこ
  とに疑問を抱いたのだーーそれが『感想』中絶の理由だとしか思えない。だ
  から、ベルグソン論の『感想』は、小林秀雄の著作の中に存在しなくてもい
  いのである。だからこそ小林秀雄は、ほとんど「ただちに」と言ってもいい
  素早さで、本居宣長へ向かったのであるーー私には、そうだとしか考えられ
  ないから、そのように解釈する。
  (橋本治『小林秀雄の恵み』新潮社 2007.12.20.発行/P.65-66)

橋本治の小林秀雄についての著作がでるというので楽しみにしていた。
橋本治特有の饒舌は、ときにはとても疲れてしまうけれど、
あの饒舌が小林秀雄とどう絡んでいくのか、興味津々なところがあって
早速読み進めているが、ちょっと面白い指摘(解釈)があった。
ベルグソンに関する『感想』の中断と発表の禁止表明についてである。
なぜなのか、いろんな人がいろんな仕方で語っているが、
そのなかで、今回の橋本治の「解釈」には頷けるところがあった。
たしかに、小林秀雄は、あるとき「ベルグソンを学ぶ」ことを
それ以上しようとは思わなくなったのである。
それよりも取り組むにふさわしいもののほうへ向かっていった。

小林秀雄にかぎらず、
人にはそのときどきに学ぶにふさわしいものがある、
ということを思い立つことがある。
それが正しいか正しくないか・・・といってもはじまらない。

それに、「学ぶ」ということに対して、
自分のある程度見渡せるものについて、というか
ある程度、もうちょっとこうすればなんとなく理解できるだろうな、
と思えるようになると、「学ぶ」ということの意味の大半が
そこでなくなってしまうということもある。

今、まさに、「学ぶ」もしくは「対峙する」にふさわしいものは
ある意味で、今見渡せないにもかかわらず、
今自分にとって不可欠であろう何かであることが
直観されるような何かであって、
すでに自分のなかで位置づけがかなり定まったものについて
それを机の引き出しのなかをあらためて整理するようなかたちで
相手にするのは正直決して面白い作業にはなならない。

ぼくは、まだまだ娑婆気が強いので、
いろんな俗的なものを日々漁って生きているところがあるが、
この歳になって、今自分にとってもっとも切実なものである
この地上における「高次の自然」への探求、とでもいえるもの
(それはキリストとも深い関係をもっているわけなのだが)以外は
次第に、ある意味、二次的、三次的な意味しか持ち得なくなっている。
それは、単に忙しいのでテーマを絞る、というのとは異なる。
ある意味「若者」であるときに必要としたものも
それはそれで今だ重要ではないとはいえないにしても、
すでに「ただちに」やめてしまっても、
そんなに心残りにはならないものは確実に増えてきている。

「何からでも学べる」という姿勢が常に必要であることには
まったく変わりはないとしても、
そのフォーカスの当て方にはおのずと変化が訪れる。
まさに、訪れる、のである。
人が年を重ねていくということの意味も
歳を重ねることを通じてしか持ち得ない「訪れ」のなかに
見いだせることもあるように思える。
そういう意味でも、歳を経るのはそれなりに興味深いのである。