風のトポスノート647

 

統合のシャドー


2008.3.24

 

テレビドラマ『あしたの、喜多善男』の冒頭に、
こんなナレーションがあった。

  新たな道を見つけだすために
  時に人は大きな痛みを必要とする
  だが、この男は・・・
  まだ、そのことに気づいてはいない

このドラマには、喜多善男が
自分が見なくないものを背負わせた「ネガティブ善男」と
ひとつになるという象徴的なシーンがある。
ひとつになることで、統合され完全(インテグラル)になる。

ユング心理学に「影」という用語があるが、
この「ネガティブ善男」というのは、喜多善男の「影」であろう。
喜多善男が他の人には見えない別人格としてつくりだした存在。
たしかに、こういう二重人格的な状態になると
そこにはさまざまな問題が生じてくる。
だから、「影」との統合が必要になる。

ということで、ここではそうした
「影」との統合について考えてみたい・・・
という一見わかりやすそうにも見えるテーマを
ここで考えてみたい、というのではない。

むしろ、「影」ということで象徴されるものを
自分から分離するというプロセスと
それを統合するというプロセスの双方から
見えてくるものをひろっていきながら、
どちからというと、その「統合」という
ある種の「悟り」へ向かう状態こそが現出してしまいかねない
もっと根源的な「影」について考えていければと思っている。

ちょっと考えてみただけでも、
人は、簡単に自分が自分であるといえる、
つまり自分のことは全部知っている、というように
自信をもっていえるような存在では、まずありえない。

ぼくのようにすべてに忘れっぽく、
自分の意識から多くのことが無意識の闇のなかに
二度と呼び出されないデータのように
しまい込まれてしまいがちな人間はもちろん、
日常の細部に至るまでの記憶を持ち、
寝ている間に見る夢にしても
そのすべてを覚えているという人はまずいないだろう。
少なくとも、自分の体のなかには夥しい無意識(臓器意識など)がある。

「私」というのは、
ある意味、自分の記憶の総体であり
その中心にあるものなのだろうが、
その「私」が、自分であると想起できるような部分は
氷山の一角どころか、ほんの埃のようなものかもしれないのだ。

しかし、逆に考えてみると、
そうした氷山をすべて想起でき、かつその中心にある、
ということを想像してみると、
それがいかにとんでもないことであるかがわかる。
そういう一瞬を垣間見ただけでも、
ぼくというOSはすぐにクラッシュしてしまうことだろう。
つまり、ぼくがぼくなりに極めて不完全ながらも
自分として機能しているのは、
多くのことを忘れることができるという
その能力が機能しているからだともいえるわけである。

もちろん、あまりに分離が進みすぎて、
統合するOSが機能不全に陥ってしまったときには、
それなりに作動するOSを構築していく必要がある。
喜多善男が「ネガティブ善男」と統合する必要があるように。
そして、そのOSの統合という「新たな道」を見つけだすためには
時に「大きな痛みを必要とする」ことがあり、
システムが大幅にバージョンアップするときには、
それまで使っていた多くのソフトが
まったく使えなくなってしまうこともよくあるように。

さて、そうした統合・総合(インテグラル)のビジョンを
きわめて壮大なかたちで示唆しているのはケン・ウィルバーだろう。
先日、邦訳・刊行されたケン・ウィルバーの著書
『インテグラル・スピリチュアリティ』(春秋社)には
そのビジョンがかなりまとまった形で記されている。
ケン・ウィルバーは当初、トランスパーソナル心理学を提唱していたが、
その後、ある意味、その「部分性」への反省からか
もっと総合的なかたちで、心や間主観性や物質世界や社会などを
「インテグラル」にとらえようとしているようである。

この「インテグラル」というのは、
ある意味、おそらく、ぼくが「中道」としてとらえている
この「中」ということでもあって、
ぼくがずっと探求しようとしていたことと
さまざまな側面でつながってくるところがあるのは確かなのだけれど、
その「インテグラル」的なアプローチを見ていくときに、
どこかその「インテグラル」ゆえの「影(シャドー)」のようなものが
あるのではないかということを感じるようになった。

もっとも、この『インテグラル・スピリチュアリティ』は
単に、直線的な「一なるもの」へ向かうアプローチではなく、
いわば往相と還相のような往還さえも説かれているのは確かだし、
その「不二」としてのとらえ方もそれなりに納得できるもので、
そうしたビジョンが切に必要であることも確かなのだけれど、
その「一」へ向かうが故に、なぜこうした、さまざまなレベルで
分離したように現象している世界が現出しているのか、
そこで、マーヤにせよ、生きて(または死んで)存在している
私や私たちやその他の諸存在が存在している(ように見える)のか、
ということから、どこか眼を背けているのではないかということを感じる。

それはまるで、イザナミに追われたイザナギが、
地上と黄泉の国の境を大岩で塞ぎ、汚れを落とすために禊ぎをしたことで
三貴子(アマテラス・ツクヨミ・スサノオ)をはじめさまざまな神を産み落とし
その後、イザナミが忘れ去られたようになってしまっているのと似ているよう にも思える。
ひょっとしたら、「一なるもの」へと向かうビジョンそのものが、
どこか統合されないままの「イザナミ」を忘れ去ってしまったままであり、
それそのものがさまざまなレベルで「影(シャドー)」になっているのではないか。
そんなことを感じてしまうのである。

もちろんそれがぼくの大きな誤解・無理解だということも十分考えられるが、
ぼくの憧れてやまない唯摩居士のように(錯誤した唯「魔」になりかねないけれど)
そのことも含めて、自分なりに考えてみたいと思っている。