風のトポスノート656

 

キリスト教のおもしろさと不思議


2008.7.6

 

キリスト教やイスラム教、ユダヤ教などについての印象として、
宗教教義とか宗教論争とかいうようなことに
どうしてそこまでこわだるのか理解に苦しむようなところがある。
日本でもそういうこだわりをもっている方もいるだろうし、
ある種宗教化したような思想闘争のようなこともあることもあるが、
日本でなんとなく生きているとそこらへんのことはやはりピンとこない。
その点でいえば、信仰心的なものをあまり強調することのない範囲での
仏教や神道的なものに親しんでいると、
やはり、イスラム教、ユダヤ教はともかくとして、
とりあえずキリスト教に関していうと、
知れば知るほど(というほど知ってはいないけれど)
よく分からなくなってくるところがあるというのが正直なところである。
数え上げればきりがないほどである。

その点、まだしもグノーシス的な方向のほうが理解可能なところがある。
しかし、キリスト教は、グノーシス的なものを激しく拒んできた。
数々の異端宣告というのが、キリスト教の歴史そのものであるような
そんな印象を強くもってしまうことが多いのだけれど、
そのなかでも、たとえばカタリ派の問題のように、
グノーシス的なものをそこまで根絶しようとする、
ある意味激しい情熱とでもいえるようなものが
どうして生まれてきたのか、こざるをえなかったのか。

そこらへんのことが、単なる違和感というのではなく、
キリスト教がこだわってきたものの核にあるものが
ようやく少しだけ納得(というのとも違うか)できるような気がし ている。
しかも、「おもしろさ」として。

そこらへんのことについて、そうそう、そうなんだ、
ということをまとめて書いている著作が出ている。
かつて『個の誕生』という著書もある
(この著書は個人的にいっても大変啓発されたことがある)
坂口ふみの『信の構造/キリスト教の愛の教理とそのゆくえ』である。
そこから、少し長めにはなるけれど、引いておきたい。

キリスト教は、なぜか「人」が肉体をもつことに深くこだわり、
ときに、天使よりも優位にさえ論じるものがでてくるというのである。
だからこそ、肉体を拒否し世界を悪として規定しようとする
グノーシス的な方向性を許すわけにはいかなかったのだろう。

   もともと人となった神の宗教は、ギリシャ風に物質のにぶい重みを
  卑しとする思想とも、言葉と掟のみを通じて神と関わるユダヤ 教とも、
  ずいぶん違ったところがある。いわば全く無遠慮に、生身の、快楽を
  も評価し、弱々しく、見にくい姿をさえもさらす人が、ヘレニズム期
  すでにかなりの洗練度を持っていた諸超越宗教の中心にわり込んでき
  たわけである。当時の教養人たちのひんしゅくは想像にあまりある。
  これはまさにスキャンダルであったろう。
   しかし、キリスト教思想のおもしろさはまさにその点にある。抽象
  性を愛するギリシャ思想と、律法制度のまん中にわり込んで来た全く
  無防備な生身の人間の、存在論的・制度的傍若無人さと、そしてそれ
  を結局支持してしまい、国家の制度をも、哲学の枠組みをも、それに
  合わせてつくり変えてしまったローマの人々と。そこに何が起こった
  のか。おそらく単に社会的・経済的・政治的と言われる要因だけから
  は説明できないものがあるだろう。それが何なのか。イエスという人
  格の強烈な力はもとよりとして、古典古代文化のヒューマニズム、特
  にローマ的なそれが支えたか、あるいは何か農耕文化的な宗教性もそ
  れと結びついたか、そういったものの結ぼ合いは私にはまだ見通しが
  たい。しかし、コンスタンティヌスによって帝国を支配し、ニ カイア・
  カルケドンに代表される激しい教義論争の嵐をくぐりぬけてギリシャ
  思想を抑えつけ、勝ったのは結局この「人」であった。ほとんど信じ
  がたいことではあるが。
   この宗教はだから当然、ほかの宗教とは比較にならぬほど、肉体を
  高く評価する要素を持っている。パウロの倫理的な二元性や、アウグ
  スティヌスの禁欲的・二元論的傾向によって歴史的に強くかげらされ
  てはいるが、十二世紀から十三世紀にかけては、自然へのあたらしい
  興味のめざめに伴って、キリスト教の内のこの要素がきらめき出した
  時期であろう。その表現に、たとえば受肉論争がある。キリストはひ
  たすら人類の罪を贖うためにのみ受肉したのか、それとも受肉自体が
  宇宙の完成なのか。神と被造世界との融和、はじめなるもの神と、創
  造の最後に生じた人間と、アルファとオメガとを結ぶ円環の完成なの
  か。受肉が(ちょっと異端的にいえば)単なる神をも超える綜合であ
  り、全体性の実現であるというこの視点はまた、たとえば天使と人間
  の優位論争にも関連する。全く非物質的存在たる天使に対し、どうや
  って肉体を持つキリストを理論的に上位に置くかというのは、古い古
  いキリスト教とギリシャ思想の争点の一つである。十三世紀のボナヴ
  ェントゥラのように、キリストを重視する思想家は、当然ここでもス
  コラ理論の枠が許すかぎり人間の肩を持つ。彼が、ある意味で人間の
  方が天使よりすぐれているとする点はすべて、人間が肉体を持つこと
  に依存しているのもおもしろいことである。
  (坂口ふみ『信の構造/キリスト教の愛の教理とそのゆくえ』
   岩波書店 2008.3.7.発行)