風のトポスノート659

 

人間の成熟


2008.8.10

 

内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』(文春文庫519/2006.7.20 発行)を
久しぶりに読み返して、ちょっとした名著だとあらためて感銘を得 たので、
そのキーになる部分を少しだけ記しておきたいと思った。

それは「ユダヤ論」であるというよりも、
「人間の成熟」に関して深い示唆となっている。
「人間の成熟」とは、まさに「自由」に関わるものである。
シュタイナーの『自由の哲学』と比べてみることもできるだろう。

目には目を歯には歯を、という因果応報的な発想は
皮相なカルマ的な見方と似て、あまりに幼児的である。
幼児的であるというのは、間違っているというのではなく、
そのわかりやすさは、あくまでもプレであって
成熟をともなったポストではないということである。

幼い有神論は、神の指示した善を遂行することを良しとする。
その内容そのものは善きことかもしれないが、
それはたとえば、学校で先生が言ったとおりのことをする
「よい子」の善さでしかない。
「よい子」は「悪い子」でないが
自らがつくりだした価値によって善を得たわけではない。

みずからが善をつくりだそうとするためには
ときに「悪い子」となることを選択しなければならないことがある。
その意味で、無神論は幼い有神論よりも成熟しているといえる。
もちろん、無神論が、自ら新たに善を創造する方向に向かうとは限 らない。
その自由によって、混乱を招く危険性を孕んでいる。

しかし、「成熟」するということは、
罰や畏れによって「罪」を避けるのではなく、
「罪」をつくってしまう可能性のなかで、
つまり、「苦しみのうちで孤独」のなかで、
みずからの責任を引き受けるということである。

それは、それまで存在しなかったものを
存在せしめるということでもある。
その意味で、その「自由」は、「愛」の可能性でもある。

幼い愛は、既存の価値のなかで育もうとするものでもあるだろうが、
成熟した愛は、既存の価値の呪縛から解き放ち、
あらたなものを創造することなくしては得られないものなのだ。

  「罪なき人々の受難」という事実からただちに「神なき世界」、
  人間だけが「善」と「悪」との判定者であるような世界を結論
  するのはあまりに単純で通俗的な思考といわねばならない。お
  そらくそのような人々は神というものをいささか単純に考えす
  ぎているのだ。レヴィナスはそう告げる。
  「神は善行をしたものには報償を与え、過ちを犯したものを罰
  し、あるいは赦し、その善性ゆえに人間たちを永遠の幼児とし
  て扱うものであると思いなしているすべての人々にとって、無
  神論は当然の選択である」
   罪なき人が苦しみのうちで孤独であり、自分がこの世界に残
  されたただ一人の人間であると感じるとしたら、「それはおの
  れの双肩に神のすべての責任を感じるためである」。だから受
  難はユダヤ人にとって信仰の頂点をなす根源的状況なのであり、
  受難という事実を通じてユダヤ人はその成熟を果たすことにな
  る。
  (・・・)
   ユダヤ人の神は「救いのために顕現する」ものではなく、
  「すべての責任を一身に引き受けるような人間の成熟を求める」
  ものであるというねじれた論法をもってレヴィナスは「遠き神」
  についての弁神論を語り終える。神が顕現しないという等の事
  実が、独力で善を行い、神の支援ぬきで世界に正義をもたらし
  うるような人間を神が創造したことを証明している。「神が不
  在である」という等の事実が「神の遍在」を証明する。(…)
   勧善懲悪の全能神はまさにその全能性ゆえに人間の邪悪さを
  免責する。一方、不在の神、遠き神は、人間の理解も共感も隔
  絶した遠い境位に踏みとどまるがゆえに、人間の成熟を促さず
  にはいない。ここには深い隔絶がある。
   この隔絶は「すでに存在するもの」の上に「これから存在す
  るもの」を時系列に沿って積み重ねてつこうとする思考と、
  「これから存在させねばならぬもの」を基礎づけるために「い
  まだ存在したことのないもの」を時間的に遡行して想像的な起
  点に措定しようとする思考の間に穿たれている。別の言い方を
  すれば、「私はこれまでずっとここにいたし、これからもずっ
  とここにいる生得的な権利を有している」と考える人間と、
  「私は遅れてここにやってきたので、<この場所に受け容れら
  れるもの>であることをその行動を通じて証明してみせなけれ
  ばならない」と考える人間の、アイデンティティの成り立たせ
  方の違いのうちに存在している。(P.227-229)