風のトポスノート660

 

日本人のユングとシュタイナー


2008.9.7

 

基本的に十数年まえから同じことを考えてはいるのだけれど、
日本でのシュタイナー受容の問題点のことがずいぶん気になることが多い。

もっと受容され理解が深まればいいと思う分野である
自然学的な部分や医学での受容もどんどん行われればいいとは思うのだけれど、
内容が内容だけにそんなに簡単にはいかないとしても、
たとえばウェレダの製品が確実に市場に出回っているように、
ある種直接的な結果のでるものに関しては、
それなりの時間の経過である種の受容はなされていくだろうし
そこに遅れてではあるとしても技術にともなうなんらかの理解は
それなりの仕方でついてはくるのかもしれないと楽観している。

受容にあたってもっとも問題になりそうなのは、
やはり日本人の自我の問題なのだろう。
シュタイナーはあれだけの広範な問題について示唆を行っているが
やはりシュタイナーが東洋的な部分を色濃くもっていたとはいっても
その際の受容者が西洋の人たちだということもあって、
しかも、「精神科学」という学問として基本的には提示している関係で、
受容における自我の違いということについては
受容する際にきわめて重要になってくると思っている。
「私」「自我」といっても、シュタイナーが著作や講演で使う際の意味が、
プラグマティックな意味で同じとは最も言いかねる部分だということである。
そのことは、とくに、模倣好きな日本人の受容態度を考えると
どんなに注意深くあっても注意深すぎるということはいえないだろう。
しかも、お受験的というか偏差値的な意味での断片的な知識の受容で
理解できたと思いがちな日本人のことである。
全体像をある程度咀嚼しようという態度が深まるとはとても思えない。
しかしぼくの理解する範囲でも、シュタイナーほど、その背景として
西洋の広範な歴史や自然学などに関して理解がもとめられる内容は
ないのではないかと思えてならない。

そんななかで少なくとも、
日本人が自分が自我のありように対して
しっかりと、いわば自己分析しておくことは
単なる模倣やその副次的産物としての過剰な権威化の危険を避けるためには
どうしても必要なことなのではないかと思う。
シュタイナー受容の前段階として、そういう態度があれば
自動的にそうした制御装置は作動するのだろうけれど、
そうでない場合、おそらくはある種、集合的な形で自我が自動運動をはじめ、
ある種宗教組織的な傾向を持ちかねないのではないか、と危惧する。

自己分析というか自我形成への省察に関しては、
日本では、ユングに学んだ河合隼雄さんの示唆が有効だとあらためて思い、
このところここ20年以上の間読んできていた著作を読み返してみて
あらためてその思いを強くしている。
ユングに関しては、秋山さと子さんの著作からも
仏教との関連でさまざまな示唆を受けてきたが、
やはりまとまった示唆がなされているのは河合隼雄さんである。

そんななかで、やはりユングそのものをある程度読んでおこうと思い、
自伝や主な著作など読み始めているが、以前より腑に落ちることが多い。
やはり30年ほど前よりは、理解できる部分が多いし、
歳をとってそれなりに切実な問題として迫ってくるところがあるのだろう。
そしてあらためて感じたのは、シュタイナーを読み始める前に、
十数年間、哲学や仏教やこうした分析心理学的な内容で
自分なりに自己分析や思考のベースができていたというのは
シュタイナー受容にあたってのぼくなりの基礎になっていたのだろうということだった。

逆にいえば、そういうのがないままに受容していたらどうだろうと思う。
たとえば、ニューエイジ系の軽さだけを身につけていた方が受容すると
自分の自我形成をぬきに考えた「超感覚的」内容のほうばかりに目がいくかもしれない。
また、ただまじめに現代の知識教育だけを受容してきた方にとって、
きわめて部分的な受容になる側面と理解できないままに学校での知識受容のように
ただその内容をレジュメ的に記憶するだけになってしまうのではないか。

そんなことを思いながら、やはりユング的な分析心理学を
この際、できるかぎり理解しておきたいと思うようになった。

しかし、すっかり忘れていたのだけれど、
ほんとうにちょうど10年前のこと、
林道義『ユング思想の神髄』(朝日新聞社)をガイドに
「ユング・ノート」を書いたことがあった、
http://homepage.mac.com/kazenotopos/topos2/sinpigaku/Jung.html
これまでなにかユングについて書いてみたことがあったっけ?とか思い
トポスのホームページに登録してあるデータを見てみたらあるではないか。
そしてその当時も、少しは同じような問題点を感じて
ユングまわりをいろいろ読んでいたことがあったのでした。

とはいえ、やはり10年経つと、
かつて書いてみたことも自分のなかで発酵している部分もあるだろうし、
視点もずいぶん変わってきているところもあると思うので、
この際、新たにアプローチしてみることにしたいと思っている。

テーマは、「ユングとシュタイナー」であるが、
これも、かつて読んだ
◎ゲルハルト・ヴェーア『ユングとシュタイナー』(人智学出版社/1982)を
あらためて読んでいるところで、その視点もあらたに理解しながら、
さらに、河合隼雄さんが日本人の魂のあり方について行ってきた示唆を含め、
いわば「日本人のユングとシュタイナー」とでもいうことを
少しでもクローズアップできればいいかと思っている。

さて、ユングも西洋人が自分の立場を忘れて
猿まねのように禅やヨガに夢中になることに対して批判的だった。
曼荼羅や易などをユングに紹介したリヒャルト・ヴィルヘルムは
中国的な自我への没入の後、西洋への「再同化」をせざるをえなくなり
そんななかでいわゆる「東洋と西洋の対立」をすさまじいばかりに体験し
そのなかで命を失ってしまうことになったそうである。

みずからの自我のありように対して、無自覚なままの受容は
せっかくのシュタイナーやユングの営為を生かすどころか
みずからの自我をスポイルしかねないところがあることを
しっかり考慮にいれるためにも
「日本人のユングとシュタイナー」について
ぼくなりの自分エポック授業をはじめてみようと思っている。

最近どうも以前以上に書くのが面倒になっているし、
書けば書くほどなにか違う感じのほうが強くなっていることもあって
なかなか書かない癖が抜けないが、
ユング関係で、たとえば神話学のジョーゼフ・キャンベルとかも読み始めていて
久しぶりに徹夜で興奮して読んでいたりもするうれしい体験もしているので、
無謀であっても少しなにかノートでも残しておけば
また10年後でも見直すことができるのかもしれないと思っていたりもする。