風のトポスノート668

 

東洋と西洋


2008.10.5

 

ゲルハルト・ヴェーアの『ユングとシュタイナー』の
第10章「東洋と西洋の対立性と統一性」では、
シュタイナーとユングの東洋と西洋についての示唆が紹介、検討されている。

こうしたテーマを理解しようとする場合、気をつけておかなければならないのは、
ひとつには、ユングとシュタイナーは西洋の視点から示唆しているということ。
つまり、私たちは、ある意味、逆の視点を持つ必要があるということである。
さらに、ここで東洋といわれるのは、多くインドや中国であって、
それを日本とすべて重ねて捉えることはできないということである。
シュタイナーは、日本について、そのエーテル的な柔軟さ、
つまりものまねの能力の高さが唯物論と結びついたときの危険性について
示唆していたことがあるが、そういうことも含め、
日本人である私たちはその特性を自らがしっかりとふまえながら、
シュタイナーやユングの示唆をさらに展開させながら
受容する必要があるということを決して忘れてはならないだろう。
それを忘れたとき、たとえば西洋人が安易に呼吸法を実践し、
そのことで生じる危険性に無頓着であるような仕方で、
私たちはそこにさまざまな危険性を生じさせてしまうことになる。

さて、シュタイナーもユングも東洋の霊的伝統を高く評価し、
西洋人の心性をそれによって補う必要性を認めていた。
西洋だけ、東洋だけというのではなく、それぞれは半面であって、
なんらかのかたちで補い合う必要があると。
しかし、それを無条件に受け継いだり模倣したりすることはできないのだと。

   アジアの霊的伝統の評価に関する限り、ユングの見解は、ルドルフ・シュタ
  イナーのそれと二つの点で類似している。即ちまず一方でユングは、知性によ
  って支配された西洋人の心性を、何らかの形で補う必要性を認める。彼は次の
  ことをよく知っていた。即ち東洋と西洋はそれぞれ一つの精神的統一宇宙の半
  面を成すのであり、また「これら両者の立場は互いに相反するものであるが、
  それぞれに心理的正当性を備えている。両者は、自らの典型的な立場と相容れ
  ない諸要素を直視し、考慮することを怠るがゆえに、ともに一面的である。一
  方は意識の世界を過小評価し、他方は自らの霊の世界を過小評価する。その結
  果、両者はそれぞれの極端な姿勢によって、統一的宇宙の半面を失うのである。
  その生は統一的実在から切り離され、作為的な、非人間的なものとなりがちで
  ある」。ーー他方で、ユングは、自らが西洋的・キリスト教的特性を持つ伝統
  に根を下ろしていることを隠さない。そしてそれがゆえに、ユング自身も称賛
  してやまなかった東洋精神の形成物を、ヨーロッパの人間が無条件に受け継い
  だり模倣したりすることは不可能であると、ユングには思えたのであった。こ
  こにまた、我々がシュタイナーにおいて非常に際立った形で出会った東西の対
  立性という視点が、認められることになる。即ちC.G.ユングにおいても、我々
  は対立と統一への努力に出会うのである。
  (ゲルハルト・ヴェーア『ユングとシュタイナー』
    第10章「東洋と西洋の対立性と統一性」/人智学出版社1982/P.346-347)

シュタイナーも、西洋人がヨーガの修法をするを戒めていたところがあるが、
同様にユングも、学ぶことと用いることとの違いを強調する。
学ぶ必要があるが、それを用いてはならない、というのである。

   更にユングは、西洋人と東洋人とを質的に分かつ「魂の素質」に着目する。
  とはいえ彼は東洋の精神生活を全く無視するように進めたりはしない。
   「私はできるだけ多くの人に言いたい。ーーヨーガを学びなさい。そうすれ
  ばそこから限りなく多くのことを学び取ることができるでしょう。しかしそれ
  を用いてはいけません。なぜなら私たちはヨーロッパ人であって、ヨーガの方
  法をそのままに正しく適用しうるような素質を持ってはいないのです。・・・」
  (同上/P.352)

これはまったく視点の違ったところだけれど、
グアテマラのマヤ人の末裔は、日本人と同じく
牛乳を飲むとおなかがゴロゴロする人が多いという。
これは乳糖分解酵素をほとんどなくしているからなのだけれど、
西洋人は、この乳糖分解酵素を生来もっていてそんなことはない。
さらにアルコール分解酵素もたくさんもっているという。
これは肉体上の差異なのだけれど、
こうした差異は、魂の上でもさまざまにあるだろうことは想像できるわけである。

そういう意味で、私たちはその差異の部分も含め、
深く学ぶ必要があるということに意識的である必要があるように思う。
そして、みずからの霊性を、原罪欠損しているものを補うことも含め、
新たに気づいていかなければならないわけである。

   「汝はインドで何をしているのか」とカール・グスタフ・ユングは自ら問う
  た。そしてルドルフ・シュタイナーは、同様の問いに次のように答えている。
   「もし我々が、東洋をその霊性のゆえに尊ぶとしても、なお次のことは明確
  にしておかねばならない。即ち我々は、我々自身の霊性を、我々の西洋から出
  発して形造らねばならないのである。しかしその際我々は、世界中に存在する
  あらゆる見解、ことに古来より尊重されてきた見解との間に相互理解を打ち立
  てつつ、自らの霊性を築かねばならない。中央(即ち中欧)に位置する西洋的
  人間として、我々が『我々の世界観と生命観には欠けるところがある』という
  言葉が何を意味するかに気づくに至ったとき、それは可能となるであろう」。
 (同上/P.359)

さて、ちょうどその東洋と西洋というテーマを、
とくに日本人の視点からとらえることのできる
小坂国継『西洋の哲学・東洋の思想』という著書が少し前に刊行されている。
もちろん、それは単に西洋と東洋の比較というよりは、
それぞれの思考様式の違いの比較であって、
西洋人だから西洋思考、東洋人だから東洋的思考という単純なものではない。
あくまでもタイプとしての対照ではあるけれど、大変示唆的なのでご紹介しておきたい。

   西洋思想と東洋思想の間にはいくつ基本的な考え方の違いが見られる。両者
  の発想は驚くほど対照的である。けれども、よく考えてみると、そうした違い
  は西洋人と東洋人の考えや発想の違いというよりも、人間一般の思考様式の違
  いである場合が多い。つまり西洋人だからこう考え、東洋人だからああ考える
  というのではなく、むしろ人間の思考様式にはいくつかの類型(タイプ)があ
  って、その各々の類型が比較的に西洋に多く見られるか、それとも反対に東洋
  に多く見られるかの相違に過ぎない場合が多いのである。(…)
   けれども、もともと人間の考えや思想は個人の独創によるものではなく、育
  った環境や受けた教育、さらには時代の精神等によって大きく左右される。ヘ
  ーゲルのいうように、人間は「時代の子」であり、「社会の子」である。なか
  でも各々の民族の文化的伝統が個人に与える影響はきわめて大きい。それで、
  文化が異なると、まったく違った物の考え方をする場合がしばしば見られる。
  そして、こうしたケースにおいては、人間類型の相違による思考様式の相違と
  いうよりも、文化類型の相違による思考様式の相違という局面が顕著にあらわ
  れる。それは人間一般に見られる思考様式の相違ではなく、むしろ異なった伝
  統を背負った人間の間に見られる思考様式の相違である。(…)
   このように西洋と東洋の思考様式の違いを考える場合、東西の思考様式の違
  いというよりも人間一般の思考様式の違いと思われるものと、東西の文化的伝
  統の違いにもとづいていると思われるものとがある。前者は人間の類型の違い
  であり、後者は文化の類型の違いである。前者には人間の性格や性向や気質が
  含まれ、後者には宗教や風土や歴史が含まれる。無論、人間の類型と文化の類
  型は相互に密接に連関していて、切り離しえないものである。また、両者を明
  確に区別することは困難である。このことを十分に念頭に置きながら、以下、
  主として西洋と東洋の文化的伝統の違いから派生すると考えられる思考様式の
  違いを見ていくことにしよう。
  (小坂国継『西洋の哲学・東洋の思想』講談社/2008.7.17.発行/P.14-17)

ちなみに、本書で主なテーマとなっている比較対照は以下の通りである。
それぞれのテーマについてできればそれぞれが深く検討してみることを通じ、
みずからがこれから構築していかなければならない新たな霊性へ向かっての
深い示唆を受けることができるのではないだろうか。
これらのテーマについては、また別の機会にとりあげてみたいと思っている。

◎驚異の感情と悲哀の意識
◎自然の形而上学と心の形而上学
◎分別的思惟と平等的思惟
◎有の思想と無の思想
◎肯定の論理と否定の論理
◎外なる自然と内なる自然