風のトポスノート673

 

自我意識の発達と退行の危険性について


2008.10.30

 

   方向づけを失ない・原子化され・無意識から分裂した・合理主義的な・
  現代人の意識は生気を失っている、というのは十分理解しうる。大衆結合
  は彼の心を支えてくれないので自分だけで責任を負わねばならないという
  孤独に耐えきれなくなっているのである。個々人は人類発達に習って英雄
  の任務を成し遂げなければならないのに、それは彼にとってあまりに難し
  い。かつて平均的人間を支えてくれた元型的規範の網目構造は崩壊してし
  まい、新しい価値のための戦いを引き受けることのできる真の英雄は当然
  ごく少数の個人でしかない。
   生気を失った現代人の自我は、反動的な大衆化過程において人格内部の
  大衆人間である集合的な影の手中に陥ってしまう。統一のとれた心の内部
  においては、否定的なものが解体者や死としてしかるべき地位を保ってい
  たし、混沌・《第一質料》・鉛の錘・として成長するものを大地にしっか
  りと繋ぎ留めているのに対して、生気を失った退行した自我をもつ分裂し
  た心の中では、否定的なものが癌や虚無的な危険になる。自我意識が分解
  される中で今や、精神病の場合と同様に、人類発達の中で築き上げられて
  きたあらゆる地歩が退行的に破壊されてしまう。
   人間と個人の自我領域は再び解体されてしまう。人格的な諸価値はもは
  や普遍的には通用せず、個々人においても、最高の成果であった個人的人
  間的なあり方は解体され、集合的な行動様式に取って代わられる。魔神や
  元型が再び自律的になり、個人の「こころ(ゼーレ)」は恐ろしい母によ
  って再び呑み込まれ、それとともに個人が声を体験すること・人間や神に
  対して個性的な個人が責任をもつこと・は意味を失ってしまう。
   大衆現象は統計的に悪しき平均への退行であることは自明である。とい
  うのはまさに意識の立場が解体されてしまうからである。しかし同時に、
  圧倒的な情動性を備えた脳幹人間の再活性化ももたらされる。意識と、文
  化側面によって押し流されてしまうという意味での「女性化」が登場し、
  これはコンプレックス・劣等機能・影・の爆発という形をとって、最終的
  には元型の疑似精神病的侵入となって現われる。意識の防御姿勢はすべて
  崩壊してしまい、その結果これと結びついている精神的価値の世界も崩壊
  してしまう。個人的な自我領域も、人格の自足も、中心志向のすべての重
  要な現われも、失われてしまう。
   これらの現象の一つ一つは、大衆状況や再集合化現象の中に確かめるこ
  とができる。
  (エーリッヒ・ノイマン『意識の起源史』
   付論II「大衆人間の形成と再集合化現象」より
   紀伊國屋書店/2006.10.5発行/P.512-513)

ユング派のエーリッヒ・ノイマンの主著『意識の起源史』は、
「個人の自我意識の発達は、人類が歩んできた意識発達の元型的諸段階を辿る」
という仮説をもとに、それを神話や宗教、文学、美術などで辿っている。
つまり、「母子未分化のカオスの状態から、意識が広大な無意識の海に出現し、
試練を経て無意識を統合する過程を、ウロボロス、太母、英雄の誕生、母殺し・
父殺し、対立の結合による個性化の段階に分類し分析」している。

上記の引用は、その「付論」である。
自我意識を発達させてきた個人は、現代のような大衆化過程においては、
アトム(原子)化し孤立することにより再び解体され、
再び無意識の世界に呑み込まれてしまいがちになるというのである。

個人が自我意識を発達させてきたとはいえ、
その背景にはさまざまな「元型的規範」があり、
それを「集団」的なかたちでささえてきたのだが、
現代のような大衆的な状況においては、そうした支えが失われてしまい、
その支えの喪失によって、かつて人間がそうであったような状態に、
今度はまさにカオス的に呑み込まれてしまうことになる。

このことは、マスメディアの、子供に迎合したような稚拙な視点や
インターネットのネガティブな側面にもみられるように
今ではきわめて平凡で日常的な風景にさえなってしまっている。

神話学者のジョーゼフ・キャンベルはそうした現状を踏まえ、
新たな神話が必要であるということを示唆したわけだが、
もちろんそれはかつてのように集合的な形でなされるものではなく、
個の自我の新たな発達段階において創造されなければならないだけに
現状ではむしろ退行的な現象ばかりが目につくことになっている。
つまり、既に失われてしまった神話的な物語を擬似的になぞることで
なんとか現状を乗り切ろうとするような方向性である。
ナショナリズム的な方向もそれにあたるように思える。
その現象は、西洋のような自我発達の段階をとびこえて
いきなり新たな課題をつきつけられてしまった地域に特に強いようにも見える。

そうした問題を解決していくためには、
新たな段階において個における自我意識の発達を経る必要があるだろうし、
そのためには、ウロボロス、太母、英雄の誕生、母殺し・父殺し、
対立の結合による個性化といったプロセスを経る必要があるのだけれど、
このプロセスの背景にあるのが、この新たな段階においては、
大衆的な状況という環境において為されなければならないわけで、
その困難は、少し想像してみるだけで恐ろしいほどのものである。

ある意味で、村上春樹が、井戸の底に下りていき、
そこで壁抜けをしたり、水が湧き出したりしてくるなどと描いているのは
ひとつのそうしたイニシエーションにあたるもので、
だからこそ世界各地でその作品がこれほども読まれるようになってきているのだろう。
集合的な仕方ではなく、個においてなんとか成長できる可能性を探して。

シュタイナー的にいえば、意識魂の時代における自由な個の確立と
精神科学的な認識の必要性とでもいうことになるだろうが、
その際にも、やはり地球紀においてはじめて獲得したばかりの
自我の成長のプロセスについて理解するためにも、
こうしたノイマンの『意識の起源史』に描かれているような視点を
理解しておくことはとても重要なことのように思える。
自我を未発達のままにして
集合的で荒々しい無意識の世界に呑み込まれてしまいためにも。