風のトポスノート676

 

自我意識


2008.12.6

 

  無意識の巨大な「塊」・強大なエネルギーをもつ集合的無意識・
 の引力は、自我ー意識体系の特別な努力によってのみ一時的に克服
 され、あるいは特定のメカニズムを形成することによって変形・変
 態されうる。こうした慣性のために、研究によって明らかにされて
 いるように、子供とくに幼児は一度とった態度を続けようとする傾
 向をもち、刺激による変化や後の新しい状況・命令による変化を、
 ショック・驚き・不快・少なくとも不安・として体験する。
  自我意識はいずれにせよ心全体の一部でしかなく、さまざまな度
 合の覚醒状態においても、すなわちまどろみの状態やときどき注意
 を働かせる状態やぼんやりと目覚めた状態から始まって、ある内容
 への部分的な集中、強度の集中、および全面的な高度な覚醒の時期
 にまで到る各段階で働いている。健康な人間ですら意識体系がリビ
 ドーに満たされるのは生きている時間の一部分だけであり、睡眠中
 にはリビドーはほとんど、あるいはまったくゼロになるし、年齢ご
 とに活力も異なってくる。意識覚醒の範囲は現代人においてさえ比
 較的狭く、またその積極的な活動の強さには限界があり、病気・緊
 張・老齢は心的障害と同様この意識的覚醒を低下させる。意識とい
 う器官は今なお発達の初期段階にあり、まだ幼く不安定であると思
 われる。
 (エーリッヒ・ノイマン『意識の起源史(下)』
  紀伊國屋書店/1985 P.443-444)

自我意識というのは、氷山の一角というか
おそらくその一角というほどの部分さえ占めていない、
というのが通常の場合である。

どんなに意識が覚醒していても、
その意識できる部分はかなり限られているし、
覚醒できる時間も限られ、
すぐにそれは氷山の下の無意識の領域のなかに
呑み込まれてしまうことになる。

古代においては、人間の意識はほとんど集合的状態にあり、
自我意識というのはほとんど働いていなかったようである。
そしていわゆる「歴史時代」というのは、
ある意味、その自我意識の成長とともに出現してきた。
それまでは「神話」の時代であり、
そこでは、自我意識以前の集合的な状態が集合的なレベルで語られ、
そしてなおかつ、それ以降現れ展開してくるであろう
人間の自我意識の展開のひな形のようなものが語られてきた。
ある意味で英雄というような個人的に見える存在というのは
人間の自我意識の進化を先取りして示してくれている
ということもいえるのではないだろうか。

現代では、自我が我が物顔にのし歩いているともいえるのだけれど、
その成長段階としてはおそらくひどく幼児的なもので、
それが意識できる範囲も期間もほんのわずかに限られている。
とはいえ、そのほんの一部分である自我意識は
まるで無意識の領域を認めないまでにその力を
物理的に行使するようになってきている。

しかし、そのエゴイスティックな現れは問題であるとしても、
人間の進化の現段階というのは、
集合的な意識の段階、すべてが無意識の段階であるところを出て、
氷山の一角の部分である自我意識を少しずつ少しずつ
増やしていこうとしているのだろうと考えることができる。
その点、やはり意識できる領域は
できるだけ意識的であろうとすることは
単純に考えても必要不可欠な方向性である。
そういう意識化の努力は実際のところひどく骨の折れることで、
眠くなったときに起きているのがつらいように、
そして実際に多く眠り込んでしまうように、
意識化しないほうがずっと楽であるのはまちがいない。
権威や「そういうものだ」という慣性の法則への恭順などが
ひどく力をもつのも同じ現象である。

意識化、自我意識の問題はそれを絶対化することであって、
絶対化し、無意識からの働きかけを認めず、
その強大な無意識の力が
まるで働いていないかのように思いこんでしまうことで、
むしろその力を強く無自覚に受けてしまうことになる。
自我意識を育てていくということは、
逆に、そのわずかなわずかな陸地の上から
自分に強大に働きかけている無意識の海の力の驚異を、
その影響がどういうものかを
常に意識するということでもある。

その意味で、自分が眠りこけているときは
その眠りこけているということを認め、
起きていることが必要な場合は、
全力で起きていようとする努力をする必要がある。
グルジェフに
『生は<私が存在し>てはじめて真実となる』という著作があるが、
まさに、それである。
「私が存在し」ないときには、生の真実はないのである。

ともあれ、まず重要なのは、
人は多く、無意識であることを喜び、快とし、
意識することを苦痛に思い、不快とするのだということに気づき、
自分がいかに無意識であるか、
自分かいかに知らないか、
ということを認めることから始めるということだろうと思う。