風のトポスノート692
無伴奏
2009.1.25

 

 

  無伴奏、という。
  だが、これは日本語の、漢字で記されたありようだ。
  伴奏が、ない。伴奏がついているのがあたりまえ、ふつう、
 前提、という発想がここにはないか。
  ヴァイオリンでも、ピアノでも、フルートでもギターでも、
 「ソロ」は「ソロ」だ。しかし、ことさらにヴァイオリンでは
 「無伴奏」という。ピアノやギターではそんな必要はない。お
 なじようにひとつの楽器だけで演奏する。ただそれだけのはず
 なのに、無伴奏という言葉があることで、なにかしら特別なニ
 ュアンスをもってしまう。そうしてヴァイオリンやチェロは、
 独特な位置に立つ。
  いや、それだけ、弦楽器たちへのおもいいれがあるのかもし
 れない。他の楽器ではなく、ヴァイオリンであり、ヴィオラで
 あり、チェロであるというような。伴奏を「欠いている」とい
 うような。それは、伴奏がなければやっていけない、あるいは、
 いくつもの組であったり、集合名詞的に扱われたりするところ
 から、特別なところに引き出されてきたということか。
  あるいは、作品によるのだろうか。バッハか、イザイか、バ
 ルトークが、「無伴奏」とよばれてしまい、ものによっては、
 ただ「独奏」となってしまうような。たしかにバッハやイザイ
 を「独奏バイオリンのための」とよぶこともあるだろうけれど
 も。
 (・・・)
  伴奏がない、なにも他にはない、たったひとりの孤独の、ソ
 ロ。無伴奏の音楽は、生身のヒトの心身に、じかにむき合う。
 そこでこそ、音楽が成立する。もしかしたら、弾いているひと
 以外の聴き手さえ不要なのかもしれない。弾き手であり聴き手
 であるひとり、を最終的には要求する音楽。
  誰もいなくなった世界で、もし、ピアノもヴァイオリンも自
 由に弾ける能力があり、そのどちらかを「ひとり」の楽器とし
 て択ばなくてはならなかったとしたら、どうだろう。ひとり、
 だからこそ、ひとりが複数になりえるかもしれないピアノを択
 ぶか。それとも、ひとりでありつづけることをひきうけるため
 に、ヴァイオリン、だろうか。
 (小沼純一『無伴奏/イザイ、バッハ、そしてフィドルの記憶へ』
  アルテスパブリッシング 2008.11.30/P.23,200-201)

「無伴奏」と名づけられた音楽。
そこには、ほかでは感じることのできない不思議な感触がある。
たしかに「無伴奏」と名づけられる必要はないのかもしれない。
「独奏」であるとしてもいっこうにかまわない。

しかし、バッハの無伴奏チェロ組曲は、
ぼくのなかでは、Violincello Soloというのではなく、
「無伴奏チェロ」としてすでに場所を占めていて、
バッハやバルトーク、イザイのほかに、
コダーイ、ブリテン、ヘンツェなどの無伴奏チェロの音楽は
ぼくのなかではある種ひとまとまりのジャンルとして
i-Podのなかにおさめられていたりもする。

「無伴奏」ということで
ぼくのなかのある種の「個」であり「孤」であるなにかが
喚起されてくるということだろうか。

無伴奏のチェロをヴァイオリンを聴く。
演奏はしないので、夜、ひとりで聴く。
かつて、ひとりで弾くということはあっただろうけれど、
いまは、ひとりで聴くということは、
そんなにめずらしいことではなくなった。
街では、イヤホンでひとりだけで聴きながら歩くひとも多い。
すぐ近くにいるひとにさえ決して共有されない音楽。

だからこそ、ライヴ・コンサートが活性化され、
かつてのような、共有される音楽が指向されたりもしているのだろうが、
はたして、それらの音楽の多くは、共有されているのだろうか。
ライヴ・コンサートで聴こうとする音楽の多くは、
すでにひとりだけでイヤホンで聴き続けた音楽なのではないだろうか。
そしてその体験を持ってコンサート会場に赴き追体験をする。
ただそれだけ、とはいえないにしても、
そこで共有されるなにものかは、
かつてとはおそらく大きく異なっているのではないだろうか。

しかし、そのありようは、大きく二極化しているのかもしれない。
そこに「無伴奏」が、
「個」であり「孤」をその根底に持ち得るような
「無伴奏」が存在し得るかどうか。

ひとりで聴く音楽という体験の穴を埋めようとして
体験を共有しようとしてしきれない、
孤独であることができないがゆえに孤独にしかなりえない極と、
そして、むしろひとりで聴く音楽ゆえに、
自らが選んだ「個」であり「孤」の根底に降りてゆき
その根底を掘り続けることで可能になる水脈を聴く極と。
「他者」はおそらくその水脈からしか現れてはこないのではないか。
「無伴奏」の音楽からはそんな、
夜の静かな時間のなかでしかきこえてこない
言葉にならない声が聴こえてくる。

ひょっとすると、その水脈をじっと聴きとるためにこそ、
たとえば、バッハの無伴奏チェロをさまざまな演奏家で、
同じ演奏家でもさまざまな時代の演奏を
飽きることなく繰り返し聴こうとしてしまうのではないか。
少なくともぼくの場合は、同じ曲をさまざまな演奏家などで聴くことが
「無伴奏」の場合にもっとも多いようである。

それもすべて、ただ
「無伴奏」という言葉の魔術にすぎないのかもしれないのだが、
今夜もこうして「無伴奏」の音楽を聴きながら
こうしてなにがしかの自分から自分への言葉を紡いでいる。
ぼくのこうした言葉もまた、「無伴奏」なのだろう。
おそらくはぼくの「個」であり「孤」の根底に降りてゆくことでしか
どこにもたどり着くことのできないかもしれない「無伴奏」。