風のトポスノート775
「役になりきる」ことができるということ
2010.10.27



  「役になりきる」はどこからくるか?

  大竹さんが、自分の失恋で泣いているのでないとすれば、
  じゃあ、いったい、大竹さんは、だれの悲しみを
  表現しているのか?

  ヒントが、香川照之のインタビューにあった。

  (・・・)
  とにかくびっくりしたのが、
  役によって、香川照之が、全く別人であることだ。

  あの役と、この役で、まったく、人が違う。
  つくっているようには見えない。
  まさに、
  別のなにものかが憑依しているかのようだ。

  「役づくりって、いったいどうやってするんですか?」

  ある日、テレビをつけると、
  香川照之が、そう聞かれていた。

  (・・・)
  「自分、自分!
   ぜんぶ自分ですよ。」

  香川照之は、こともなげに、笑って、
  さらっと、そう言った。

  (・・・)
  あの多種多様な別人格を、
  「表現」しているというのだ。

  (・・・)
  「無いものは表現できない」

  と私は、常日頃、言っている。
  自分のなか、どこを探しても無いものは、
  表現できない。
  もしも、自分の中に、1ミクロンもないものを
  出したとすれば、それは、すでに表現ではない。
  良い悪いではなく、表現とは別のものだ。

  (・・・)
  「役になりきる」はどこからくるか?

  技術と計算で、全く自分でない仮面をかぶるのではなく、
  かといって、自己を表現するのでもなく、
  ましてや憑依でもなく、

  自分の中から湧き出た成分で、
  別人格を表現する。

  まるで、自分の血を流して他人の肖像を書くように。
  これが「役になりきる」ことではないか、
  いま、私は、そう思う。

  (山田ズーニー「おとなの小論文教室。」Lesson513
   http://www.1101.com/essay/2010-10-27.html
   「大竹しのぶはなぜ食わず嫌い王で勝てないのか
   ーー“役になりきる”は、どこからくるか?」より)

私たちは、それがどんなに破綻していようとも
自分という「役になりきる」ことで生きている。

そしてそこで「表現」できることというのは、
(外的なアウトプットだけでなく内的な「表現」も含めて)
自分の中になにがしかあるものである。

そしてある意味で、自分という存在の可能性というのは、
その自分の中にあるものの範囲を超えることができない。

ある人が自分を「善人」だと思い、
自分は「悪」とは無関係だと思っているとしたら、
その人の「表現」から「悪」は排除されてしまっていることになる。
だからその人の「世界」においては「悪」は存在できないで、
自分の「外」にあるものだということになる。

「全世界」というか、世界の総体においては、
「善」だけではなく「悪」も
(それを相対的にとらえるにしても実体的にとらえるとしても)
含まれている(そうでなければ、世界の総体にはならない)。
もちろん、それを自分の「外的な表現」として
行うかどうかということは別である。
そして、自分の内なる「悪」を認めるということと
その「悪」を外的な表現としてあえてなさないということは矛盾しない。
むしろ、「悪」をあえてなさないためには、
自らの内なる「悪」への自覚がないとするならば、
自分がいったい何をしているのかさえわからないだろう。

また、「他者」ということをいう場合、
その「他者」を自分とまったく切り離された存在だととらえるか、
その「他者」との間に一見まったく関連性を見いだせないとしても、
それぞれの井戸の底に通底しているなにがしかの水脈を見いだせるかで、
その「他者」そのものの持つ意味はまったく変わってくるだろう。

「愛」についても同じ。
内野聖陽の演じていたテレビドラマ『ゴンゾウ』では
「この世界に愛はあるの?」というセリフがキーになっていた。
その問いにおける「この世界」というのは、
その問いにおけるそれぞれの「愛」の可能性に関わってくる。
もし「この世界に愛はあるの?」に対して「ない」と答えるならば、
まさにその人の世界には「愛」は存在しないのである。
だからその「表現」の可能性も奪われている。
逆に「ある」と答えるならば、
もちろんその人の理解の範囲内ではあるとしても、
その人の世界において「愛」はその「表現」に向かって開かれている。

そうした意味において、
自分という存在の可能性というのは、
「自分、自分!ぜんぶ自分ですよ。」
という香川照之の話のように、
その自分の内にあるものすべてだということがいえる。

私たちは、自分という「役になりきる」ことで、
「できる」ことと「できない」こととのせめぎあいのなかで生きている。
キリストが死後地下深くに下っていったのは、
その意味で「できない」ことを「できる」ことにするためだったともいえる。
でなければ、その地下深くの世界は「自分ではない」ものになってくるからである。
しかも無闇に地下深くに降りたのではなく、明確な自覚のもとに降りることができた。
そこに大きな意味がある。

私たちが日々体験するさまざまなことに関しても、
どれが「自分」でどれが「自分」でないのか。
そして「自分」の可能性を広げるために
どんな「自分」の「別人格」を種として育てていくのかが鍵になる。
「別人格」に乗っ取られるのではなくあくまでも「世界」を拡大するために。