「バガヴァッド・ギータとパウロ書簡」メモ 第1講


2006.4.24.

●人智学の出発点において、その精神潮流を示唆するために選ばれた連続講義のテーマ

1912年は、シュタイナーが決定的に神智学協会から離れ、
独自に人智学協会を立ち上げた年にあたる。
人智学協会設立のいわば出発点において、その精神潮流の重要さと意義を示唆 するために
この連続講義のテーマが選択されることになった。

テーマは、古代インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」と
キリスト教の出発点において成立した「パウロ書簡」。
この二つの精神(霊)潮流の近しさを理解するとともに、それをガイドとしながら、
現代の精神生活における精神潮流としての人智学を
理解していくための講義であることを踏まえておきたい。

●ギリシア精神からはじまる3つの千年期

さて、現代の精神生活ということを考える際の射程は、
個人(パーソナリティ)としての人間が精神生活に意味を持ち始めた紀元前一千年の
ギリシア精神以降の三千年であるといえる。
個人が個人として精神生活を求めるようになったは、
この三千年前頃にでてきた問題だという。

ギリシア時代においてはじめて、私たちが個々の人物、ソクラテスや ペリクレス、
フェイディアス、プラトン、アリストテレス、といった個人(パーソ ナリティ)を
見る、という事態が始まったのです。

最初の千年には、その出発点に秘儀のあるギリシア精神が突出していて、
アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスのような詩人、芸術家にせよ、
ソクラテス、プラトン、アリストテレスのような哲学者にせよ、
それらの源泉は秘儀のなかに探す必要がある。
とくに、ヘラクレイトスに至っては、
シュタイナーが『神秘的事実としてのキリスト教』でも述べているように、
まったくもって秘儀に立脚していたということができる。

そして、ギリシア精神が突出していた最初の千年が過ぎた後、
第二の千年期への転換点にキリスト・イエスがでてきて、
キリスト教的な衝動が精神進化のなかに流れ込み、
キリスト教は次第にギリシア精神と一体化していくが、
そのギリシア精神の受容は、無意識的なものであるといえる。
そして、ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルド・ダ・ヴィンチといった芸 術家を見ればわかるように、
第三の千年期には、直接、意識的な仕方でギリシア精神が作用を及ぼしている。

●ヴェーダ、サーンキヤ哲学、ヨーガの三つの精神潮流が合流している「バガ ヴァッド・ギーター」

19世紀には、東洋の古代からヨーロッパに多くのものが流れ込んでくるよう になったが、
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトも、それをもっとも深遠な哲学的な詩編と してとらえた
「バガヴァッド・ギーター」は、単に古代の東洋の文献だというのではなく、
むしろ「東洋の思考と感性と感情のあらゆるさまざまな方向と観点の合流」として
とらえることのできるものがそこから現われてくる。
それこそが、「バガヴァッド・ギーター」の重要性だということができる。

さて、その「バガヴァッド・ギーター」には、三つの精神潮流が調和的に合流 ・浸透している。
第一の精神潮流が「ヴェーダ」の流れ、第二が「サーンキヤ哲学」の流れ、
そして第三が、「ヨーガ」流れである。

●ヴェーダ/アートマンとブラフマン

ヴェーダ哲学は、その後ヴェーダンタにおいて完成されるスピリチュアルな一 元論である。

人間はその内にきわめて深遠な本来の自己を有していて、
その高次の自己はすべてを包括する宇宙的自己とひとつである、という。
そして、私たちは、身体的に息を吐いたり吸ったりするように、その宇宙的自 己を呼吸する。

私たちが宇宙自己の一部…のように私たちの魂のなかに取り込むもの、これが
ア ー トマン[Atman]です、呼吸(アートメン [Atmen])は、私たち自身に関
しては、 私たちに吸い込まれても普遍的な空気から切り離され得ない空気の一
部のようなものです。 このように、アートマンは私たちのなかにありますが、
すべてを統べる宇宙の自己 であるものからは切り離され得ないのです。そして
私たちが身体的に息を吐くよう に、魂の三昧[Andacht]というものが あります、
三昧を通じて魂は、自らの持つ最 良のものを、祈りのように捧げつつこの自己
に向けます。これは、ブラフマン [Bbrahman]は、霊的な呼気のようです。吸
気と呼気のようなアートマンとブラフ マンは、私たちを、すべてを統べる宇宙
自己に参加する者にします。

ヴェーダの言葉は、神の言葉であるという。

それは創造的であり、宇宙を貫いて生き活動する創造的な原理に人間の認識を
あのように引き合わせつつ、人間の認識のなかにふたたび生まれる神の言葉で
す。ですから、ヴェーダに書かれたものは、神的な言葉とみなされ、そしてこ
れに精通した者は、神的な言葉の所持者とみなされました。神的な言葉は、ス
ピリチュアルなしかたで世界にやってきて、ヴェーダの書物のなかに置かれま
した。これらの書物に精通した者は、宇宙の創造的な原理に加わったのです。

●サーンキヤ哲学/サットヴァ、タマス、ラジャス

サーンキヤ哲学は、ヴェーダ哲学のような一元論とは反対の
多元論的な哲学であるということができる。
それによれば、人間の魂も神々の魂も、その出発点は一元的に収斂させること はできない。
個々の魂は、ライプニッツのモナドのように、ひとつひとつ完結し独立しなが ら進化する。

しかし、魂の多元性に対して、「プラクリティのエレメント」と呼ばれるもの に目が向けられる。
魂は、それが「外的に存在するためのエレメントをそこから取り出す源流のような 」
基本的なマテリアルなエレメントをまとい、それによって魂はさまざまな形態 をとることになるが、
サーンキヤ哲学では、魂そのものではなく、
魂が身にまとうその覆いとしてのマテリアルな形態に目をむけるのである。
魂的なものがいかに諸形態のなかに組み込まれていくかが探求される。

まず源流となるエレメントがあり、さらに次の形態であるブッディ、
さらにアハムカーラ、マナス 、感覚、より精妙なおよびより粗雑なエレメン トというふうに
どんどん濃密化したエレメントに包み込まれていく。
サーンキヤ哲学では、こうしたエレメントはすべて魂の覆いとしてとらえられる。

そして、魂が独立性を守ろうとするか、物質のなかに沈み込もうとするかを見るのが
サーンキヤ哲学の本質的特徴でもある。
三つのグナ(構成原理) であるサットヴァ、タマス、ラジャスである。

外的形態のなかに沈められてはいるけれども、自らを魂的なものとし て告知し開示
する、そういう魂的なものはサットヴァーエレメントのなかに生きています。
形態のなかに沈み込んでいるけれども、いわば形態によって覆いつく され、形態に
逆らわない魂的なものは、タマスーエレメントのなかに生きています。
そして、魂的なものがそのなかで形態の外的なものといわば平衡を保つもの、
これはラジャスーエレメント[Rajas-Element]のなかに生きています。

●ヨーガ

サーンキヤ哲学が、魂の覆いであるエレメントの形態についての考察であるのに対し、
ヨーガは、魂的なものに向かい、魂の高次の力を目覚めさせる。
魂を高次の霊的世界へと導いていく道である。

ヴェーダにおいては、魂はアートマンでありブラフマンであり、
いわば神的自己そのものであったが、
サーンキヤもヨーガもすでにそれが可能でないがゆえに、
高次の霊的存在をめざさなければならなくなった魂たちのためのものだともいえる。

ヴェーダにまだインスピレーションを与えていた、あの恩寵のように上から
到来するインスピレーションがもはやそうあることができなくなったときに、
ヨーガは大きな意味を獲得しました。
ヨーガは、のちになってからの人類期に属する魂たち、もはや自ずから開示
されるものは何も持たず、低次の段階から霊的存在の高みを目指して上昇し
ていかねばならない魂たちに用いられなければなりませんでした。

●三つの源流と神秘学概論の対応

ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガという三つの潮流は、精神科学のなかに見出す ことができる。

『神秘学概論』でいえば、最初の章で、人間の構成/眠りと目覚め/生と死について
記述されていることは、今日的な意味でのサーンキヤ哲学に、
土星紀から現在までの宇宙進化についての章は、ヴェーダ哲学に、
そして、最後の人間の進化についての章は、ヨーガに対応していることがわかる。

たとえば、『神秘学概論』における宇宙進化についての記述とヴェーダの言葉は
おのずと響きあっている。

私たちはヴェーダのある特定の箇所で宇宙的進化について読みます、これは
たとえば以下のような言葉をまとわされています。太初において闇は闇に覆
われていた、これらすべては分かちがたい流れであった。力強い空が生まれ、
それは至るところで熱に浸透されていた。ーーさて土星の構成についてその
事実自体から引き出されたものは何か、どこで土星の実質について熱実質と
して語られているか、どうか思い出してください、そうすれば皆さんは、神
秘学におけるいわばこのもっとも新しいものと、ヴェーダのこの箇所で語ら
れていることが調和して響き合っているのを感じられるでしょう。 次の箇所
はこうです、それから、まず最初に、意志が生じた、思考の最初の種子であ
った、存在するものと存在しないものとの連関である。それらはこの連関を
意志のなかに見出した。ーーさらに思い出してください、意志の霊たちにつ
いて、いかに新たに刻印付けられて語られるかを。

●太古の時代における血の絆が弱まってくることによる大きな戦いとクリシュナの教え

バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナがアルジュナに伝える偉大な教えは、
太古において特別な意味をもっていた血の絆、民族の連帯、種族の連帯が
次第に弱まっていったことにおいて現われてくる。

 この血の絆がゆるむとき、まさにこのゆるむことによって、バガヴァッド・
ギーターをその一挿話として含んでいるマハーバーラタのなかで私たちに描写
されるような大きな闘いが起こります。私たちはここに、二人の兄弟の後裔、
つまりまだ血縁者である者たちが、その精神の方向性に関して互いに 分かたれ、
以前は血が統一的な見解としてもたらしていたものが解消するありさまを見ま
す。そしてこの境目において闘いが起きなければならないがゆえに、ここで闘
いが起こるのです。このとき血の絆は、霊視的な認識に対しても意味を失い、
これを境として、後の霊的な編成が起こります。古い血の絆に意味を見出さな
いひとたちにとって、クリシュナは偉大な教師として登場します。クリシュナ
は、古い血の絆から抜け出した新しい時代の教師でなければなりません。

血の絆によって保たれていたものがなくなってしまうと、
魂をどのようにして精神(霊)生活のなかで据えることができるのか。
血の絆が壊れてしまうとすべてが破壊してしまう。
アルジュナにはそう思われてしまう。
しかし、そうした血の絆によって成立していたものが変わっていく必要がある、
というのが偉大なクリシュナの教えなのである。

●クリシュナの三重の教え/言葉、法則、および三昧

クリシュナの教えは三重になっていて、
そこにヴェーダ、サーンキヤ哲学、ヨーガそれぞれの本質的なものを見出すこ とができる。

まず、ヴェーダ/宇宙言語、創造する言葉についての教え。

いかにも、創造の原理そのものを内包する創造的な宇宙言語がある。 人間が語る
とき、その音が空気を貫いて波打ち揺れ活動するように、そのように あらゆる事
物は波打ち揺れ活動し、存在を生み出し秩序づける。このようにヴェ ーダ原理は
あらゆる事物に吹き渡っている。それはこのように人間の認識によっ て人間の魂
生活のなかに受け容れなければならない。働きかけ活動する創造の言 葉があり、
働きかけ活動する創造の言葉がヴェーダ古文献に再現されている。言 葉は宇宙を
創造するものである、ヴェーダのなかにはこの言葉が顕現している。 これがクリ
シュナー教理の第一の部分です。

続いて、サーンキヤ哲学/存在の形成についての教え。

クリシュナはまた、人間の認識が個々の形態を認識できること、つま り宇宙法則
を自らのうちに受け容れることができることを、弟子に理解させま す。ヴェーダ
のなかに、サーンキヤのなかに再現された宇宙言語、宇宙法則、これ をクリシュ
ナは弟子に啓示します。

そして、ヨーガ /魂の三昧による深化のための教え。

さらにクリシュナは、再びそこで宇宙言語の認識に加わることができ るよう弟子
のひとりひとりを高みへと導く道についても語ります。

精神科学は、新しく刻印づけられた仕方で、この三つの流れを求めなければならない。
 
●クリシュナの三重の教えがパウロ書簡において再び姿を見せる

ヴェーダは、生きている創造の言葉である神的ロゴスとして、
サーンキヤ哲学は、古代ヘブライの啓示における律法、モーゼの教えとして、
そして、ヨーガはキリストの力が魂を貫き、受け容れるとき、
人間は神性の高みへと上昇するという意味で
「私ではなく、私のなかのキリスト」となって、復活したキリストへの信仰として、
パウロ書簡において、いっそう具体的で生き生きとしたしかたで再び姿を見せる。

ヴェーダは再び、キリストの直接的存在そのもののなかに姿を現しま す、今度は
具体的に生きて歴史の展開のなかに現れるのです、空間と時間のかな たに抽象的
に自らを注ぎ出すのではなく、ひとつの個として、生きた言葉とし て。法則は、
サーンキヤ哲学において、マテリアルな基礎、実在的なものがどのよ うに粗雑な
物質へと下降して形成されていくかを私たちに示すもののなかに現れ てきます。
これは、古代ヘブライの律法論のなかに、モーゼの教え(ユダヤ教) であるもの
すべてのなかに姿を見せます。パウロが一方においてこの古代ヘブラ イの律法を
指す場合、パウロはサーンキヤ哲学を指しているのです。パウロが復 活した者へ
の信仰を示す場合、彼は、ヨーガのなかにその曙光が輝いていた者の 太陽を示す
のです。

●バガヴァッドギーターとパウロ書簡の関係を把握し
 三つの 精神的(霊的)な潮流を現代において結びつけるという課題

バガヴァッド・ギーターにおける三つの霊的潮流の合流である、ヴェーダ、サ ーンキヤ、ヨーガ。
これらは、上記のように、キリスト教とパウロによって生きたかたちでより具 体的に現われてくるが、
今日、私たちは、これらの潮流を、魂と宇宙の深い奥底から正しいしかたで
現代においてふたたび相互に結びつけるという課題を持っている。

そのためにも、私たちは、ラファエロが芸術において、トマス・アクィナスが 哲学において、
立ち戻ろうとしたような単なるギリシア精神を超えて、
紀元前の最初の千年より前にある、 バガヴァッドギーターという東洋古代の 深みに入り込み、
まざまな精神潮流をすばらしい調和的統一をもたらさなければならない。