ルドルフ・シュタイナー

バガヴァッド・ギータとパウロ書簡 GA142

Die Bhagavad Gita und die Paulusbriefe


第1講

翻訳者:yucca

(1999.11.13登録/2000.11.26一部改訳)


1912年12月28日、ケルン

 今日私たちは狭義の人智学協会設立のいわば出発点に立っており、まさにこのような機会にこそ、私たちの問題の重要さと意義を今一度思い起こすことが許されると思います。人智学協会が新たな文明のためにあろうとする姿は、私たちがこのグループ内部で神智学として営んで参りましたことと、なるほど原理的にはまったく区別されるべきではないかもしれません。それでもこうして新たな名称をつけ加えることは、私たちの魂に誠実と尊厳を思い起こさせるにじゅうぶんかもしれません、この誠実と尊厳をもって私たちはこの精神潮流の内部で活動していきたいと思います、そしてこの連続講演のテーマもこの観点から選ばれました。ひとつのテーマを私たちの問題の出発点において論義したいと思いますが、これは、私たちの精神潮流の、現代の文化生活にとっての重要さと意義を示唆するのに、きわめて多種多様な意味でふさわしいものでしょう。

 二つの一見かけ離れたものと見える精神潮流、一方は偉大な東洋の詩篇バガヴァッド・ギーター(☆1)において、他方はキリスト教の基礎固めにあれほど親密に関係した使徒パウロの書簡において語られているものですが、このような二つの精神(霊)潮流が組み合わされていることに、もしかしたら驚かれた方もいらっしゃるかもしれません。きょうはひとつ導入として、一方では偉大な詩篇バガヴァッド・ギーターに関連するものがいかにこの現代に入り込み、他方ではキリスト教の出発点に設立されたもの、つまりパウロ主義がいかに入り込んできているかを私たちが指摘すれば、この二つの精神(霊)潮流の近しさをもっとも良く認識できるでしょう。とは言え、この現代の精神生活においては、比較的そう遠くない以前の時代とも、多くが異なっています、そしてまさにこの、まだ少し前に過ぎ去りつつある過去の精神生活と現在の精神生活が異なっているということが、神智学的あるいは人智学的な精神潮流であるものを是非とも必要としているのです。

 ひとつ考えてみましょう、比較的近い過去の時代の人間が、現在の精神生活へと飛躍したとき、すでにバーゼル及びミュンヘンでの連続講演(☆2)において強調いたしましたように、三千年、つまり紀元前の千年とまだ終わりきっていない{紀元後の}二千年、キリスト教的な精神潮流に浸透され、貫かれたこの三千年といったいどう関わり合ったかを。少し前、つまり今日私たちが言うような神智学的あるいは人智学的精神潮流の認可について語ることができなかったときに、人類の精神生活のさなかにいた人間は自らに何を言うことができたでしょうか。こう言うことができたのです、現代に入り込んできているのは本来、キリスト紀元に先行するせいぜい一千年に探究され得たものだ、と。と申しますのも、いわば個人(パーソナリティ[Persoenlichkeit])としてのひとりひとりの人間が精神生活に意味を持ち始めるのは、この紀元前一千年より前ではないからです。以前の時代の精神潮流のなかにはそれほど途方もなく大きく力強く私たちを照らし出すものがあり、個人(パーソナリティ[Persoenlichkeit])、個(インディヴィジュアリティ[Individualitaet])というものが、精神潮流の根底にあるものから際立って見えることはありませんでした。現在のような狭い意味ではなしに紀元前の最後の千年に私たちが加算することができるものを振り返ると、つまり古エジプトあるいはカルデアーバビロニアの精神潮流を振り返ると、私たちはいわば、互いに連関した精神生活を展望します。突出して、すなわち個そのものが私たちの眼前にまったく霊的に生き生きと登場するのは、ギリシアの精神生活においてようやく始まることなのです。偉大な、力強い教え、宇宙のはるかかなたまで達する力強い展望を、私たちはエジプト時代に、カルデアーバビロニア時代に見出します。ギリシア時代においてはじめて、私たちが個々の人物、ソクラテス(☆3)やペリクレス(☆4)、フェイディアス(☆5)、プラトン(☆6)、アリストテレス(☆7)、といった個人(パーソナリティ)を見る、という事態が始まったのです。個人(パーソナリティ)そのものが生じてくるわけです。これがこの三千年の精神生活の独自性です。私は単に有名な人物たちのことを言っているのではありません、精神生活が個々の人物ひとりひとりに及ぼす印象のことを言っているのです。こう言ってよろしければ、個人(パーソナリティ)というのはこの三千年に出てきた問題なのです。そして、個々人が精神的生活に参加する要求を持つことによって、個々人が精神的潮流を通じて内なる慰め、希望、安らぎ、内なる至福を見出すことによって、精神的潮流が意味を持つようになります。

 そして比較的最近まで、主として人々の興味の対象は、個人から個人へと経過する限りでの歴史であったために、この三千年の前にあったものに対しては、それほど深く徹底した理解は得られませんでした。つい最近になってからのみ理解できる歴史は、ギリシア精神(グリーヒェントゥムGriechentum)とともに始まります、そして最初の千年と次の千年の転換期に、キリスト・イエスという偉大な存在に結びつくものが入ってきます。

 最初の千年には、ギリシア精神が私たちにもたらしたものが突出しています。そしてこのギリシア精神は独自に突出しています、つまりギリシア精神の出発点には秘儀があるのです。そこから流れ込んできたものーーしばしば指摘しましたようにーーは、あらゆる分野の偉大な詩人や哲学者、芸術家たちに入り込んでいます。と申しますのも、正しいしかたでアイスキュロス(☆8)、ソフォクレス(☆9)、エウリピデス(☆10)を理解したいなら、私たちはその理解のための源泉を、秘儀から流れ込んだもののなかに探さなければならないからです。ソクラテス、プラトン、アリストテレスを理解したいなら、私たちは彼らの哲学の源泉を秘儀のなかに探さなくてはなりません。ヘラクレイトス(☆11)のような傑出した人物についてはまったく語ることができません。ヘラクレイトスについて皆さんは、私の『神秘的事実としてのキリスト教』という書物のなかで(☆12)、彼がいかに秘儀に立脚していたかを見ることができるでしょう。

 さらに私たちは、次の千年とともにキリスト教的な衝動が精神進化のなかに流れ込むのを見、そしてこの第二の千年が、このキリスト教が次第次第にギリシア精神を受け容れ、ギリシア精神と一体化する、というふうに経過していくのを見ます。この第二の千年全体は、ギリシア精神から生きた伝統、活き活きとした生全般のなかにもたらされたものと、力強いキリスト衝動が一体化していく、という経過を辿ります。したがって私たちは、たいへんゆっくりと徐々に、ギリシア的叡智、ギリシア的感情、ギリシア的芸術家精神がキリスト衝動と有機的に結合していくようすを見るのです。これが第二の千年の経過です。

 次いで、個人文化の第三の千年が始まります。この第三の千年のなかに、別のしかたでギリシア精神が作用を及ぼしているのが見えると言ってよいかもしれません。たとえば、ラファエロ(☆13)、ミケランジェロ(☆14)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(☆15)、といった芸術家たちを見るとき、私たちにはそれがわかるでしょう。第三の千年においてはもはや、第二の千年の文化におけるようにギリシア精神がキリスト教とともにさらに生き続けるのではありません。第二の千年において人々はギリシア精神を、歴史的に偉大なもの、外的に観察されるものとして受け容れたのではありませんでした。第三の千年において、人間は直接ギリシア精神に向かわなくてはなりません。ふたたび明らかになる偉大な芸術作品を、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロが自らに作用させ、ギリシア精神がますます意識的なしかたで受け容れられるのを、私たちは見ます。第二の千年にはそれは無意識に受け容れられましたが、第三の千年においては、いっそう意識的に受け容れられるのです。

 私たちは、このギリシア精神が世界観のなかに意識的に受け容れられるのを見ます、たとえばトマス・アクィナス(☆16)の哲学形成において、彼はキリスト教哲学から流れ出すものをアリストテレスの哲学と組み合わせることを余儀なくされたのです。ギリシア精神はここでも意識的に受け容れられ、その結果、ここで意識的なしかたで、ギリシア精神とキリスト教が哲学的な形態をとって合流します、ラファエロ、ミケランジェロ、レオナルドの場合は芸術的な形態をとって合流するように。そしてこの動向全体が精神生活を貫いてさらに上昇し、ジョルダーノ・ブルーノ(☆17)、ガリレイ(☆18)において、ある種の宗教的な敵対として現われます。にもかかわらず、いたるところに、ギリシア的理念と概念が、とりわけ自然観と関連して浮上してくるのが見出せます、つまりギリシア精神の意識的な吸収です!

 けれども、これはギリシア精神より以前には遡りません。あらゆる魂のなかに、たとえば学識があったり高い教養を身につけた人たちばかりでなく、きわめて素朴なひとたちにいたるまで、あらゆる魂のなかに、このような精神生活、ギリシア精神とキリスト教が意識的に合流して入り込んだ精神生活が広がり、生きているのです。大学から農民の小屋のなかにまで、キリスト教的表象をともなったギリシア的表象が、概念とともに受け容れられます。

 十九世紀になって、ある独特なものが生じます、根本的に、これを形成し行なうには神智学あるいは人智学が適任であるようなものです。どんな力強いことが起こっているかは、ここで個々の現象において見られます。バガヴァッド・ギーターというすばらしい詩篇がはじめてヨーロッパで知られるようになったとき、この詩篇の偉大さによって、深遠な内容を意味する精神によって、心を奪われるのが見られます。ヴィルヘルム・フォン・フンボルトのようなあれほど深い精神の持ち主が、バガヴァッド・ギーターを知ったとき、これは自分が目にしたもっとも深遠な哲学的な詩篇である、と言い得たのは忘れがたいことでしょう。そしてフンボルトは、バガヴァッド・ギーターを、太古の聖なる東洋から響いてくる偉大な精神の歌を知ることができたので、これほど長生きしたかいがあった、という名言(☆19)を発することができたのです。

 そして、まだそれほど広範囲にわたってではなくとも、十九世紀において東洋の古代から多くのものが、まさにこのバガヴァッド・ギータからゆっくりと流れ込んだ、というのは何とすばらしいことでしょう。と申しますのも、このバガヴァッド・ギーターは実際、東洋の古代からこちらにそびえる他の文献のようなものではないからです。他の文献は、東洋的な思考と感情を、あれこれの観点から私たちに告げるのを常としています。ところがバガヴァッド・ギーターにおいては、私たちがこれについて、これは東洋の思考と感性と感情のあらゆるさまざまな方向と観点の合流である、と言うことができる何かが現われてくるのです。これがバガヴァッド・ギーターの重要なところです。

 ひとつ古代インドの奥底を見てみましょう。あまり重要でないものを度外視しますと、私たちはまずインドの遠い太古の時代から、いわば三つのニュアンスを帯びた精神潮流がわき上がってくるのを見出します。すでに最初期のヴェーダ(☆20)において私たちに姿を現わし、次いでのちのヴェーダ文学においてさらなる発達をみたこの精神潮流、これは非常に明確な精神潮流でありーー後ほどすぐ特徴づけていきますがーー、私たちがこう言ってよろしければ、これは一面的な、しかしまったく明確な精神潮流です。さらに、サーンキヤ哲学(☆21)における第二の精神潮流が私たちに姿を見せます、これもまた明確な精神の方向性を有しています、そして最後に現われるのは、ヨーガにおける東洋の精神潮流の第三のニュアンスです。これで、私たちの魂の前に、三つのきわめて重要な東洋の精神潮流が置かれたわけです、ヴェーダの流れ、サーンキヤの流れ、ヨーガの流れです。ここで私たちにカピラのサーンキヤ体系として現われてくるもの、パタンジャリのヨーガ哲学(☆22)とヴェーダにおいて私たちに現われてくるもの、これらは、明確なニュアンスを持つ精神潮流であり、この明確なニュアンスを持つがゆえにいわば一面的ではありますけれども、ほかならぬその一面性においてその偉大さを示している精神潮流です。

 バガヴァッド・ギーターのなかには、これら三つの精神潮流すべてが調和的に浸透しています。ヴェーダ哲学が語り得たことが、バガヴァッド・ギーターからも私たちに輝いてくるのがわかります、カピラのサーンキヤが与えることができたもの、私たちはこれをバガヴァッド・ギーターのなかに見出します。そして私たちにはたとえば、これが寄せ集めのように私たちに現われる、というのではなく、これらが、あたかももともとは合体していたかのように、三つの分岐のように調和的にひとつの有機体へと流れ込む、ということがわかるのです。バガヴァッド・ギーターの偉大さは、この東洋の精神生活には一面においてはヴェーダから、別の面においてはサーンキヤ哲学から、第三の面においてはパタンジャリのヨーガからの流入が見られることを、このように包括的なしかたで叙述していることです。

 ヴェーダの流れは、きわめて明白な意味において、一元哲学[Einheitsphilosophie]、考えられ得るきわめてスピリチュアル[spirituell]な一元論(モニスムス [Monismus])です。一元論、スピリチュアルな一元論、これはその後ヴェーダンタ(☆23)においてその完成を見るヴェーダ哲学です。私たちがヴェーダ哲学を理解しようとするなら、まずは私たちの魂の前に、次のようなことをとどめておかなくてはなりません、つまりこのヴェーダ哲学が出発点とするところは、人間は自分自身のうちにその本来の自己(ゼルプスト[Selbst])であるきわめて深遠なものを有しているということ、そして人間が通常の生活においてまず把握するものは、この自己の一種の表現あるいは刻印であるということ、人間は自らを展開させうること、そしてその展開は魂の奥底から、ますますいっそう本来の自己の深遠さを引き出してくるということなのです。高次の自己はつまりまどろんでいるかのように人間のなかに休らっています、そしてこの高次の自己は、現代の人間が直接知っているものではないけれども、人間のなかで働いているものであり、人間がそれを目指して進化していくところのものです。いつか人間が自らのなかに高次の自己として生きているものに到達したあかつきには、ヴェーダ哲学によれば、人間は気づくことでしょう、この自己は、あまねく全てを包括する宇宙の自己とひとつである、人間はその自己とともに、このすべてを包括する宇宙自己[Weltenselbst]のなかにまったくもって休らうのみならず、この宇宙自己とひとつなのだ、と。そして人間がこの宇宙自己とひとつである、というのは、人間はその本質とともに二重のしかたでこの宇宙自己に関係している、ということです。身体的に息を吐いたり吸ったりするように、ヴェーダンティストはこの人間の自己の宇宙自己に対する関係をたとえばこのように表象する、と私たちは言わなければなりません。息を吸ったり吐いたりするように、そして、外部に普遍的な空気があって内部に私たちが吸い込んだ空気の一部があるように、外部には普遍的包括的な、すべてを貫いて生き活動する自己があり、宇宙のスピリチュアルな自己の観察に身を捧げるとき、ひとはそれを吸い込みます。この自己について感じ取るたびごとに、ひとは霊的にこの宇宙自己を吸い込みます、その魂のなかに取り込むすべてとともに、これを吸い込むのです。あらゆる認識、あらゆる知、あらゆる思考と感情は、霊的な呼吸です。そして、私たちが宇宙自己の一部ーーとは言えこれはこの宇宙自己との有機的なつながりをとどめていますーーのように私たちの魂のなかに取り込むもの、これがアートマン[Atman]です、呼吸(アートメン [Atmen])は、私たち自身に関しては、私たちに吸い込まれても普遍的な空気から切り離され得ない空気の一部のようなものです。このように、アートマンは私たちのなかにありますが、すべてを統べる宇宙の自己であるものからは切り離され得ないのです。そして私たちが身体的に息を吐くように、魂の三昧[Andacht]というものがあります、三昧を通じて魂は、自らの持つ最良のものを、祈りのように捧げつつこの自己に向けます。これは、ブラフマン[Bbrahman]は、霊的な呼気のようです。吸気と呼気のようなアートマンとブラフマンは、私たちを、すべてを統べる宇宙自己に参加する者にします。

 同時に宗教でもある一元論的ー霊的な哲学がヴェーダ精神(ヴェーデントゥム)において私たちに現われてきます。そしてこのヴェーダ精神は、普遍的な、宇宙を貫いて支配し活動する自己、一なる宇宙の本質とひとつである、というあのあれほど人間を至福にする感情に、最も内なるもの、最高のもののなかに休らう感情に、花開き結実しています。人間と宇宙の一性とのこの関連、人間が大いなる霊的全宇宙のなかにあることをヴェーダ精神は語ります、これを語るのはーーヴェーダの言葉とは言えません、ヴェーダというのがすでに言葉だからですーー与えられた言葉ヴェーダです、ヴェーダ的表象によればあらゆるものを統べる一なる存在から吐き出され、人間の魂を認識の最高の完成形態として自らのなかに受け容れることのできる言葉です。

 ヴェーダの言葉が受け容れられるとともに、あらゆるものを統べる自己の最良の部分が受け容れられ、個々の人間の自己がすべてを統轄する宇宙自己と連関しているという意識が獲得されます。ヴェーダが語るのは、神の言葉です、それは創造的であり、宇宙を貫いて生き活動する創造的な原理に人間の認識をあのように引き合わせつつ、人間の認識のなかにふたたび生まれる神の言葉です。ですから、ヴェーダに書かれたものは、神的な言葉とみなされ、そしてこれに精通した者は、神的な言葉の所持者とみなされました。神的な言葉は、スピリチュアルなしかたで世界にやってきて、ヴェーダの書物のなかに置かれました。これらの書物に精通した者は、宇宙の創造的な原理に加わったのです。

 サーンキヤ哲学においては事情は異なります。伝承されたこの哲学がまず最初に私たちに登場するとき、そのなかには一元説[Einheitslehre]とは真反対のものがあります。私たちがサーンキヤ哲学を比較したいと思うなら、これをライプニッツ(☆24)の哲学と比較することができます。サーンキヤ哲学は多元論的な哲学です。私たちに向かって現われる魂のひとつひとつ、人間の魂と神々の魂、これらは、サーンキヤ哲学においては一元的な起源まで追求されるのではなく、個々の、いわば永遠によって成り立つ魂、あるいは少なくともその出発点は一元性には求められない魂として受け容れられます。魂の多元論[Pluralismus]がサーンキヤ哲学において私たちに現われてきます。個々の魂ひとつひとつの独立性が非常に強調され、個々の魂は宇宙においてそれ自体その存在と本質のなかに完結して進化するのです。

 そして、魂の多元論に対峙しているのは、サーンキヤ哲学においてプラクリティのエレメントと呼ばれるものです。私たちはこれを現代の物質[Materie]という語で現わすことはできません、この語は唯物論的な意味を持つからです。けれどもサーンキヤ哲学においてプラクリティは実質的なものという意味ではなく、これは魂の多元性に対立し、しかも一元性に帰せられるのでもありません。

 まず最初に魂の多元性があり、そして、私たちがマテリアルな[materiell]基盤と呼ぶことができるもの、いわば宇宙を空間的時間的に貫いて流れる源流[Urflut]、魂が外的に存在するためのエレメントをそこから取り出す源流のようなものがあるのです。魂はこの物質的(マテリアル)なエレメントをまとわなければなりませんが、このエレメントは魂そのものとの一元性に還元されることはないのです。

 そして注意深く研究すれば、サーンキヤ哲学において、主として私たちに現われてくるのはこのマテリアルなエレメントです。サーンキヤ哲学においては、個々の魂にはそれほど視線は向けられません。個々の魂は、現実に存在する何か、マテリアルな基盤と絡み合い結びつき、このマテリアルな基盤の内部でさまざまな形態[Formen]をとりそれによって自らを外に向かってさまざまな形態(フォルム[Form])で示す何か、として受け入れられます。魂は、いわば個々の魂のように永遠性から思考された基本エレメントを身にまといます。このマテリアルな基本エレメントのなかに、魂的なものが表現されるのです。それによってこの魂的なものはさまざまな形態をとります。そしてこのマテリアルな形態の研究が、とりわけサーンキヤ哲学において私たちに現われてくるものなのです。

 ここでまず、このマテリアルなエレメントのいわゆる原初的な形態は、魂がまず最初に沈潜する一種の霊的な源流のように現われます。つまり私たちが進化の最初の段階に眼差しを向けるとしますと、マテリアルなエレメントのいわば分化されていないものが得られ、そして、さらなる進化を遂げるために沈潜してゆく魂の多元性が得られるでしょう。つまり、私たちに形態として現われてくる最初のものは、源流という一元的なものからまだ分離されず、進化の出発点にあるスピリチュアルな実質そのものなのです。

 さらに登場してくる次のもの、魂が個的に身にまとうことのできるものは、ブッディ[Buddhi]です。私たちが源流実質をまとった魂を考えるとき、この魂の現われはまだ、あまねく波打つ源流のエレメントからまだ分離されていません。魂が、あまねく波打つ源流のこの最初の存在にのみ包み込まれるのではなく、次なるものとして生じうるものに包み込まれることで、魂はブッディに包み込まれることができるのです。

 形を取ってくる第三のエレメント、魂はこれによってますます個的になることができるのですが、この第三のエレメントはアハムカーラ[Ahamkara]です。これは原質(ウアマテーリエ[Urmaterie])が、さらにいっそう低次に形成されたものです。つまり、原質、その次の形態であるブッディ、そしてさらに次の形態であるアハムカーラがあります。その次の形態はマナス、その次の形態は感覚器官、その次の形態はより精妙なエレメント、そして最後の形態が私たちの周囲にある物質的エレメントです。

 こうしてサーンキヤ哲学の意味でのいわゆる展開ライン[Evolitionslinie]が得られます。上にはスピリチュアルな源流の超感覚的なエレメントがあり、そしてこれがどんどん濃密化していって、私たちの周囲の粗雑なエレメント、粗雑な人間の肉体もこのエレメントから構築されているのですが、このエレメントのなかにあるものに至るのです。その中間にあるのはたとえば私たちの感覚器官を織りなしている実質、それに私たちのエーテル体あるいは生命体を織りなしているより精妙なエレメントです。よろしいですね、サーンキヤ哲学の意味においてはこれらすべては魂の覆いです。すでに最初の源流に由来するものからして魂の覆いです。魂はここで始めて再びその内部にあるのです。そしてサーンキヤ哲学者がブッディ、アハムカーラ、マナス、感覚、より精妙なおよびより粗雑なエレメントを研究するとき、それは魂がそのなかで自らを現わすよりいっそう粗雑な覆いのことなのです。

 私たちははっきりと理解しておかなくてはなりません、私たちにヴェーダ哲学が、そして私たちにサーンキヤ哲学が現れてくるしかた、これらはそのようにしか私たちに現れてきようがないということをです、なぜなら、少なくともある程度までは太古の霊視がまだ存在していたあのいにしえの時代にこれらは完成されたからです。

 ヴェーダとサーンキヤ哲学の内容は異なったしかたで成立しました。ヴェーダは徹頭徹尾、根源的な、まだ生来の素質のように原人類のなかに存在するインスピレーションに基づいていて、いわば人間がその本質全体において、準備をするという以外のことをそのために行ったりせずに、自己からやってくる神的なインスピレーションを平静に受け容れるよう促しました。サーンキヤ哲学の成立においては事情は異なります。ここではすでにいわば、今日私たちが学ぶ場合と似たような状態でした、ただ、今日の場合は霊視力に貫かれていない、というだけです。当時サーンキヤ哲学は霊視力に貫かれていました。サーンキヤ哲学は、霊視的な科学、恩寵によってのように上から与えられたインスピレーションだったのです。今日私たちが科学を探究するように探究されていたけれども、まだ霊視力が身近なものであった人々によって探究された科学、これがサーンキヤ哲学でした。

 したがってサーンキヤ哲学も、本来魂的なエレメントをいわば手つかずのままにとどめます。サーンキヤ哲学はこう語ります、超感覚的外的形態(フォルム)のなかに研究することができるもののなかに、魂は自らをはっきりと打ち出す、けれども私たちが研究するのは、外的形態、魂が形態を身にまとうというかたちで私たちに現れてくる諸形態である、と。したがって私たちは、宇宙において私たちに現れてくる諸形態の作り上げられた体系を見出しますーー私たちが私たちの科学のなかに自然事実の総計を見出すようにーー、ただ、サーンキヤ哲学においては、事実の超感覚的な観照に到るまで観ぜられるのですが。サーンキヤ哲学は、霊視力によって獲得されたにもかかわらず、外的諸形態についての科学にとどまっていて、魂的なものそのものにまでは進入しない科学です。魂的なものはある意味で研究されないままにとどまります。ヴェーダに没頭したひとは、徹底して自らの宗教的生活が叡智生活とひとつであると感じます。サーンキヤ哲学は科学であり、魂がそのなかに自らを刻印する諸形態の認識です。そしてこれに加えて、信奉者においては、サーンキヤ哲学に加えて魂の宗教的帰依もまったくもって成立することができます。そしてこのときこの魂的なものがいかに諸形態のなかに組み込まれていくかーー魂的なものそのものではなく、いかに魂的なものが組み込まれるか、ということがですがーー、これがサーンキヤ哲学において追求されるのです。

 魂が魂自身の独立性を守ることが多いか、それとも物質のなかに沈み込むことが多いか、サーンキヤ哲学においてはこれが区別されます。なるほど沈み込んではいるけれども、マテリアルな形態のなかで自らを魂的なものとして保持している、そういう魂的なものが扱われます。このように外的形態のなかに沈められてはいるけれども、自らを魂的なものとして告知し開示する、そういう魂的なものはサットヴァーエレメント[SattvaーElement]のなかに生きています。形態のなかに沈み込んでいるけれども、いわば形態によって覆いつくされ、形態に逆らわない魂的なものは、タマスーエレメント

[Tamas-Element]のなかに生きています。そして、魂的なものがそのなかで形態の外的なものといわば平衡を保つもの、これはラジャスーエレメント[Rajas-Element]のなかに生きています。サットヴァ、タマス、ラジャス(☆25)という三つのグナ(構成原理[Guna])は、私たちがサーンキヤ哲学と呼ぶものの本質的な特徴のひとつです。

ヨーガとして私たちに語りかけてくるあの精神潮流はさらにまた異なっています。ヨーガは魂的なものそのものに向かいます、この魂的なものに直接向かい、直接的な霊的生活において人間の魂を把握する手段と方法を探求します、こうして魂は宇宙のなかで位置する点から、魂的存在のますますいっそう高次の段階へと上昇するのです。このように、サーンキヤは魂の覆いの考察であり、そしてヨーガは、内的体験のますます高次の段階へと魂的なものを導いていくものです。ヨーガへの帰依はしたがって、魂の高次の力がしだいに目覚めることであり、したがって魂は、日常的な生活では魂がそのなかにいることはない何か、存在のますます高次の段階を魂に明らかにすることのできる何かに習熟していきます。ヨーガはしたがって霊的世界への道、外的形態から魂を解放する道、その内部での独立した魂生活への道です。サーンキヤ哲学のもう一方の面がヨーガなのです。ヴェーダにまだインスピレーションを与えていた、あの恩寵のように上から到来するインスピレーションがもはやそうあることができなくなったときに、ヨーガは大きな意味を獲得しました。ヨーガは、のちになってからの人類期に属する魂たち、もはや自ずから開示されるものは何も持たず、低次の段階から霊的存在の高みを目指して上昇していかねばならない魂たちに用いられなければなりませんでした。

 このように、太古のインド時代において、三つの明確なニュアンスの違いを持つ精神潮流が私たちに現れてきます、ヴェーダの流れ、サーンキヤの流れ、そしてヨーガの流れです。そして今日私たちは、これらの精神的(霊的)な潮流をいわばふたたび相互に結びつけるよう呼びかけられます、これらの潮流を、魂と宇宙の深い奥底から、正しいしかたで現代のために取り出してくることによってです。

 皆さんは、三つの潮流のすべてをこの精神科学のなかに見出すこともできます。私が『神秘学概論』(☆26)のなかで、第一章で、人間の構成について、眠りと目覚めについて、生と死について記述しようと試みましたことをよく読んでいただければ、私たちが今日的な意味でサーンキヤ哲学と呼ぶことができるものが得られます。さらに、土星から現代までの宇宙進化について語られていることをお読みになれば、現代のために打ち出されたヴェーダ哲学が得られます。そして、人間の進化が取り上げられている最後の章をお読みになれば、この現代のためのヨーガが打ち出されているのがおわかりでしょう。このように三つの明確なニュアンスの違いを持った精神潮流となって古代インド精神からヴェーダ哲学、サーンキヤ哲学、ヨーガとして私たちに輝きを発してくるものを、私たちのこの時代は、有機的なしかたで結びつけなければなりません。

 ですから、詩的に深遠なしかたで三つの方向の合体のようなものを含むバガヴァッド・ギーターという驚くべき詩篇もまた、きわめて深遠なしかたでまさにこの現代に触れるはずなのです。そこで私たちは、バガヴァッド・ギーターの深い内容に釣り合うような私たち自身の精神志向といったものを求めなければなりません。この今日の精神潮流は、単に全体としてだけではなく、個別的にも古代の精神潮流と相通ずるところがあるのです。

 皆さんは、私の『神秘学概論』において、ものごとをまったくそのものごと自体から引き出してこようとする試みがされていることに気づかれたことと思います。歴史的なことを拠りどころとしている箇所はどこにもないのです。語られていることを真に理解するひとは、土星、太陽、月についてのいずれの主張に関しても、歴史上の情報からものごとが語られたところがあるなどと考えることはできません、これらはその事柄そ自体から引き出されたのです。けれども奇妙なことに、この現代に刻印されたものが、決定的な箇所で、古代から私たちに響いてくるものと共鳴し合うのです。これについてはささやかな証拠があります、私たちはヴェーダのある特定の箇所で宇宙的進化について読みます、これはたとえば以下のような言葉をまとわされています。太初において闇は闇に覆われていた(☆27)、これらすべては分かちがたい流れであった。力強い空[Leere]が生まれ、それは至るところで熱に浸透されていた。ーーさて土星の構成についてその事実自体から引き出されたものは何か、どこで土星の実質について熱実質として語られているか、どうか思い出してください、そうすれば皆さんは、神秘学におけるいわばこのもっとも新しいものと、ヴェーダのこの箇所で語られていることが調和して響き合っているのを感じられるでしょう。次の箇所はこうです、それから、まず最初に、意志が生じた、思考の最初の種子であった、存在するものと存在しないものとの連関である。それらはこの連関を意志のなかに見出した。ーーさらに思い出してください、意志の霊たちについて、いかに新たに刻印付けられて語られるかを。私たちが現代において語らねばならないことすべてにおいて、古きものへの共鳴が求められるのはではありません、まったくおのずから調和的響きが生じるのです、なぜなら、そこでは真理が探求され、しかも真理は私たち独自の基盤に立って探究されるからです。

 さて今や、バガヴァッド・ギーターにおいて、まさに特徴づけしたばかりの三つの精神潮流のいわば詩的な称揚が私たちに姿を現します。世界史の重要な瞬間においてーーその古代にとって重要なのですがーー、私たちにもたらされるのは、クリシュナ自らがアルジュナに伝える偉大な教えです。この瞬間は重要です、それは古い血の絆[Blutbande]がゆるんでくる瞬間だからです。皆さんは、バガヴァッド・ギーターに関してこの連続講義で私がお語ししようとするすべてにおいて、いつもいつも強調されていたことを思い出してくださらなくてはなりません、つまり、血の絆、民族の連帯、種族の連帯が、太古の時代において特別な意味を持っていたこと、そして次第次第にその意味が弱まっていったことを。私の著書『血はまったく特別の液汁(ジュース)だ』(☆28)で語られているすべてのことを思い出してください。

 この血の絆がゆるむとき、まさにこのゆるむことによって、バガヴァッド・ギーターをその一挿話として含んでいるマハーバーラタのなかで私たちに描写されるような大きな闘いが起こります。私たちはここに、二人の兄弟の後裔、つまりまだ血縁者である者たちが、その精神の方向性に関して互いに分かたれ、以前は血が統一的な見解としてもたらしていたものが解消するありさまを見ます、そしてこの境目において闘いが起きなければならないがゆえに、ここで闘いが起こるのです、このとき血の絆は、霊視的な認識に対しても意味を失い、これを境として、後の霊的な編成が起こります。古い血の絆に意味を見出さないひとたちにとって、クリシュナは偉大な教師として登場します。クリシュナは、古い血の絆から抜け出した新しい時代の教師でなければなりません。クリシュナがいかにして教師となるか、私たちは明日特徴づけていきます。けれども、バガヴァッド・ギーター全体が私たちに示していること、つまりクリシュナが今特徴づけしました三つの精神潮流をその教えのなかにいかに取り入れているかは、お話しすることができます。有機的な統一のなかでクリシュナはこれを弟子に伝えます。

 この弟子は私たちの前にどのように立たなければならないでしょうか。彼は一方では父を見上げ、他方では父の兄弟を見上げます。従兄弟同士は今や、もはや親密であるわけにはいかず、互いに分離しなければなりません。今や別の精神潮流が、一方のそしてもう一方の家系をとらえなければなりません。このときアルジュナのなかで魂が大きく揺れます、血の絆を通じて保たれていたものがもはやなくなると、どうなるのだろう?この精神(霊)生活がもはや以前のように、古い血の絆の影響のもとに流れていくことができないなら、魂をどうやって精神(霊)生活のなかに据えるというのだろう?すべてが破壊してしまうほかない、アルジュナにはそう思われます。そして事態は変わっていかなければならないということ、事態はそのままではないということ、これが偉大なクリシュナー教理の内容です。

 さて、クリシュナは、ある時代から別の時代へと生きていくべき弟子に、魂を調和的にしようとすれば、魂はこれら三つの精神潮流のすべてから何かを受け容れなければならないことを示します。私たちはクリシュナの教えのなかに、ヴェーダ的一元説と同様、サーンキヤ論の本質的なもの、ヨーガの本質的なものをも正しいしかたで見出します。と申しますのも、私たちがここでさらにバガヴァッド・ギーターについて知るであろうすべての背後にあるのは、そもそも何なのでしょう。その背後にあるのはたとえばこのようなクリシュナの告知です。いかにも、創造の原理そのものを内包する創造的な宇宙言語がある。人間が語るとき、その音が空気を貫いて波打ち揺れ活動するように、そのようにあらゆる事物は波打ち揺れ活動し、存在を生み出し秩序づける。このようにヴェーダ原理はあらゆる事物に吹き渡っている。それはこのように人間の認識によって人間の魂生活のなかに受け容れなければならない。働きかけ活動する創造の言葉があり、働きかけ活動する創造の言葉がヴェーダ古文献に再現されている。言葉は宇宙を創造するものである、ヴェーダのなかにはこの言葉が顕現している。これがクリシュナー教理の第一の部分です。

 そして人間の魂は、この言葉がいかに存在の形態のなかで生を全うするかを理解することができます。存在の個々の形態が法則にのっとって霊的ー魂的なものを表現しているのを、人間の認識が理解することによって、人間の認識は存在の法則を知るようになります。宇宙の形態についての、存在の法則的な形成についての、宇宙法則[Weltengesetz]とその作用のしかたについての教理、これが、サーンキヤ哲学であり、クリシュナー教理の別の一面です。そして、クリシュナが彼の弟子に、あらゆる存在の背後には創造的な宇宙言語があることをはっきりと理解させるように、クリシュナはまた、人間の認識が個々の形態を認識できること、つまり宇宙法則を自らのうちに受け容れることができることを、弟子に理解させます。ヴェーダのなかに、サーンキヤのなかに再現された宇宙言語、宇宙法則、これをクリシュナは弟子に啓示します。

 さらにクリシュナは、再びそこで宇宙言語の認識に加わることができるよう弟子のひとりひとりを高みへと導く道についても語ります。つまりヨーガについてもクリシュナは語るのです。クリシュナの教えは三重になっています、つまりそれは、言葉についての、法則についての、霊への敬虔な帰依についての教えなのです。

 

言葉、法則、および三昧、これらは魂がそれによって進化を遂げていくことのできる三つの流れです。この三つの流れは、常に何らかのしかたで人間の魂に作用します。とはいえ私たちがまさに今見てまいりましたのは、新たな精神科学は新しく刻印づけられたしかたでこの三つの流れを求めなければならないということでした。けれども時代が異れば、三つに形成された宇宙観であるものも、きわめて異なったしかたで人間の魂にもたらされます。クリシュナは、宇宙言語、創造する言葉について、存在の形成について、魂の三昧による深化、ヨーガについて語るのです。

 この三つのものが、別の形をとって再び私たちに姿を見せます、ただ、いっそう具体的な、いっそう生き生きとしたしかたで現れるのです、創造する神的な言葉が受肉し、地上を巡り歩くと考えられた存在のなかに。ヴェーダは、抽象的に人類にもたらされました。ヨハネ福音書が私たちに語る神的ロゴスは、生きている創造の言葉そのものです!そしてサーンキヤ哲学において宇宙の形態の法則的な把握として私たちに現れてくるものは、歴史的なものに置き換えられ、古代ヘブライの啓示においてそれは、パウロが律法[Gesetz]と呼ぶものです。そして第三のものが、パウロの場合復活したキリストへの信仰として私たちに現れます。クリシュナにおいてヨーガであるものが、パウロにおいては、律法に変わるべき信仰なのです、ただし具体的なものに移行した信仰です。

 このように、このヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガという三つ組は、のちに太陽として登って来るものの曙光のようなものです。ヴェーダは再び、キリストの直接的存在そのもののなかに姿を現します、今度は具体的に生きて歴史の展開のなかに現れるのです、空間と時間のかなたに抽象的に自らを注ぎ出すのではなく、ひとつの個として、生きた言葉として。法則は、サーンキヤ哲学において、マテリアルな基礎、実在的なものがどのように粗雑な物質へと下降して形成されていくかを私たちに示すもののなかに現れてきます。これは、古代ヘブライの律法論のなかに、モーゼの教え(ユダヤ教[Mosaismus])であるものすべてのなかに姿を見せます。パウロが一方においてこの古代ヘブライの律法を指す場合、パウロはサーンキヤ哲学を指しているのです。パウロが復活した者への信仰を示す場合、彼は、ヨーガのなかにその曙光が輝いていた者の太陽を示すのです。

 ヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガとして第一の要素のなかで私たちに現れてくるものは、このように独特なしかたで成立します。ヴェーダとして私たちに現れてくるものは、新しい、しかし今や具体的な姿をとって、生きた言葉として現れます、それによってすべてが創造され、それなしには生成したものから何ものも創造されず、しかも時の流れとともに肉となった生きた言葉として。サーンキヤは歴史的記述として、エロヒムの世界からいかにして現象界が、粗雑な物質性の世界が生成したかということを法則的に記述するものとして現れます。ヨーガはパウロにおいて、「私ではなく、私のなかのキリスト」(☆29)という言葉となったものに変化します、すなわち、キリストの力[Christus-Kraft]が魂を貫き、受け容れるとき、人間は神性の高みへと上昇する、ということです。

 このように、世界史における統一的なプランが存在し、東洋的なものが準備を整え、パウロ的キリスト教のなかでこれほど注目すべき具体的な形をとって私たちに現れてくるものは、いわば抽象的な形をとって存在している、ということがわかります。私たちはさらに見ていきますが、まさにバガヴァッドギーターという偉大な詩篇とパウロ書簡との関係を把握することによって、極めて深遠な秘密、人類の全体教育における霊性の支配と名づけうるものの秘密が私たちに明かされることでしょう。このような新しいものを近代において感じ取らなければならないがゆえに、近代は単なるギリシア精神(グリーヒェントゥム)を越えて、紀元前の最初の千年より前にあるもの、私たちにヴェーダ、サーンキヤ、ヨーガとして現れてくるものに対する理解を育てなければなりませんでした。そして、ラファエロが芸術において、トマス・アクィナスが哲学において、ギリシア精神に立ち戻らなければならなかったように、この私たちの時代においては、現代が達成しようとするものと、ギリシア精神よりさらに遡るもの、東洋古代の深みにまで入り込んでいくものとの間に、意識的な宥和が生まれなければならないことがわかるでしょう。私たちがあのさまざまな精神潮流をすばらしい調和的統一のなかに見るとき、私たちは、これら東洋古代の深みを残らず私たちの魂に近づけることができます、素晴らしい統一のなかでそれらは私たちに姿を現します、フンボルトが言いますように、最も偉大な哲学的詩篇、バガヴァッド・ギーターにおいて。

 

□編者註

☆1 偉大な東洋の詩篇バガヴァッド・ギーター:「崇高な歌」ーー偉大なインドの民衆叙事詩「マハーバーラタ」の第六巻(ビーシュマの巻)のなかに挿入された18章の詩篇で、後代においてその意義はヴェーダに匹敵するとみなされた。マハーバーラタの規模はイーリアスとオデュッセイアを併せたものの約七倍。

☆2 バーゼル及びミュンヘンでの連続講演:ルドルフ・シュタイナー「マルコ福音書」(1912バーゼル GA139)及び「イニシエーションについて。永遠と瞬間について。霊の光と生の闇」(1912 ミュンヘン GA138)

☆3 ソクラテス:Sokrates von Athen 紀元前496ー399

☆4 ペリクレス:Perikles 紀元前500頃ー429 アテネの政治家。

☆5 フェイディアス:Phidias 紀元前500頃ー423 アテネの有名な彫刻家。

☆6 プラトン:Plato von Athen 紀元前427ー347

☆7 アリストテレス:Aristoteles von Stageira 紀元前384ー322

☆8 アイスキュロス:Aischylos von Eleusis 紀元前525頃ー456 悲劇作家。

☆9 ソフォクレス:Sophokles von Kolonos 紀元前496ー406 悲劇作家。

☆10 エウリピデス:Euripides von Salamis 紀元前480頃ー406 悲劇作家。

☆11 ヘラクレイトス:Heraklit von Ephesos 紀元前540頃ー480 哲学者。

☆12 私の『神秘的事実としてのキリスト教』という書物:『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』(1902 GA8)

☆13 ラファエロ:Raffaello Santi 1483ー1520

☆14 ミケランジェロ:Michelangelo Buonarroti 1475ー1564

☆15 レオナルド:Leonardo da Vinchi 1452ー1519

☆16 トマス・アクィナス:Thomas von Aquino 1227ー1274

   ルドルフ・シュタイナー「トマス・アクィナスの哲学」(1920 ドルナハ 3回の講義 GA74)参照。

☆17 ジョルダーノ・ブルーノ:Giordano Bruno 1548ー1600

☆18 ガリレイ:Galileo Galilei 1564ー1642

☆19 …という名言:ヴィルヘルム・フォン・フンボルトWilhelm von Humboldt(1767ー1835)1823年6月21日のシュレーゲル宛の手紙及び1828年3月1日ゲンツ宛の手紙。

☆20 ヴェーダ:Vedaすなわち聖なる「知識」は、サンスクリット語で著された、ヒンドゥー最古の宗教的文書の全体を指し、そこにおいてはなお超感覚的な源泉が体験されていた。つまり膨大な文献であり、その内容(テクスト)はかつては口頭によってのみ伝えられていた。多種多様な伝承は主として、サンヒター[Sanhita]、ブラーフマナ[Brahmana]、アーラヌヤカ[Aranyaka]、ウパニシャッド[Upanishad]に分類される。しばしば、サンヒター(「本集」の意)の四つの部分が簡略に四つのヴェーダとみなされる。これは歌詠、祭詞、呪句の集成であり、これらのうち、もっとも古い歌と讃歌の主集成がリグ・ヴェーダである。

☆21 サーンキヤ哲学:サーンキヤ(数、列挙の意)経典(スートラ)は5世紀になってようやく書き留められたとは言え、この体系の起源は「マハーバーラタ」と同様仏教以前に遡る。その創始者カピーラは紀元前800年から500年の間生きたとされる。

☆22 ヨーガ哲学:ヨーガ(くびき、結びつけることの意)として統一される禁欲と沈潜の道は、すでにヴェーダとマハーバーラタにおいても存在していた。紀元前150年頃、パタンジャリが八段階の道の実修法と伝統をヨーガ・スートラにまとめた。

☆23 ヴェーダンタ:ヴェーダンタ(ヴェーダの目標、終極の意)が最初に表出されたのは、バーダラーヤナ(紀元前200頃)のブラフマ・スートラであり、主にウパニシャッドに基づき、ヴェーダの教理に体系的な構成を与えた。この体系はシャンカラ(788ー820)によって最も重要な註釈を与えられた(第二講の註も参照のこと)。

☆24 ライプニッツ:Gottfried Wilhelm Leibniz 1646ー1716 1714年のフランス語による小論(もとは無題)である『単子論(モナドロジー』を参照のこと。

☆25 サットヴァ、ラジャス、タマス:第2講参照。

☆26 『神秘学概論』:ルドルフ・シュタイナー『神秘学概論』(1910 GA13)

☆27 闇は闇に覆われていた:リグ・ヴェーダX-129. 有名な創世の歌。

☆28 『血はまったく特別の液汁(ジュース)だ』:1906年10月25日の講演に基づく単行本(1982ドルナハ)。「現代における超感覚的なものの認識と今日の生活にとっての意味」(GA55)に所収。

☆29 「私ではなく、私のなかのキリスト」:ガラテア人への手紙II-20.


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